弁栄聖者の俤(おもかげ)27

◇〈弁栄聖者ご法話〉聞き書き その一(別時の説教)〈つづき〉

◇当麻山無量光寺
一月二十七日の午前中に、久保山の別時が終った。自分は午後、奥村弁誡〈後の山崎弁誡〉さんと連れ、弁栄上人のお供をして当麻山へ向かい、横浜を立った。

東神奈川駅で二時間ばかり、八王子行きの汽車を待つ間、上人は仏教の教理を、礼拝儀によって話して下さった。礼拝儀は一切経をつづめたものであるといって有難いお話があった。寒い風が吹き、砂煙が上る。睡眠不足と疲れのために、あくびが出る。

それを、かみ殺しながら、お言葉を筆記した。上人も二つ三つあくびをなさった。

やっと汽車に乗った。上人は私に、こんな事を聞かれた。

「汽車にひどくゆれるのと、さほど揺れないのとあるが、どこがちがうのか」

と。その道の者と見れば、何事によらず尋ねて、知識を広めんとする御心懸けに感服した。

橋本駅で下車すれば、横浜の寺井嬢も乗っていた事がわかった。思いがけなく道連れとなり、四台の人力車を連ねて、月夜の野道を当麻山へと急いだ。道は広く、平たく、あたりの景色も良さそうに思った。深くおろされたほろ〈雨風、砂ぼこりを防ぐために車両に装着された覆い〉のために外の景色が見えず、車夫の脚下を照す月影のみが、単調に踊っていた。

一里〈約四キロ〉ばかりも来たかと思う頃、先頭の上人は「徳永さん」と声をかけられた。月はさやかに照り渡り、詩人ならずとも、そぞろ歩き〈気の向くままに散歩〉がしてみたい夜であった。しかし、ここは武蔵野の原、一軒の家も見当らない淋しい野道。よくここまで無事に一人で来たものだと、皆よろこんだ。

徳永さんは二、三町〈約二・三百メートル〉ばかり、車のあとを追うて来たが、とても長くは続くまい、さぞ苦しいだろうと思ったから、自分は車を停めさせて、替ろうといった。上人は皆歩もうと仰った。それでは恐入るとて、二嬢が一つ車に乗り、自分は三人分の荷物をかかえて車を走らせる事にした。

寺に着いた。村の青年達は既に集まり、お念仏を申していた。私共も其の仲間入りをした。上人は一座の説教をして下さった。そのあとで、お菓子や茶が出た。学校の先生は、皆に作法を教える。青年達は幼い子供のように、すなおに教えられた通りする。上人は「皆さん、せんべいを三つずつお取りなさい」と仰れば、皆その通りした。お菓子を食べながら、お話を聞き、楽しく夜を更かし、讃歌を歌って別れた。

自分は上人のお側でやすませて頂いた。弁信、弁道の二人の小僧さんが上人のお夜具の風孔を塞ぎ廻る。私にも同じ様に気をつけてくれた。私は挨拶を忘れて床に入ったから、床の中で頭を下げると、上人は夜具の中から、お慈悲あふるる御まなこを輝かせ、この信仰の赤ん坊を見ていて下さる。そして斯くおっしゃった。

「あなたは法蔵寺で霊感に打たれたようで有ったが、今、大分顔はやさしくなりました」と。

(つづく)

カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」

光明主義は日本的霊性の完成01

1
多くの場合、光明主義は浄土宗の改革運動としてみられています。殆どの浄土宗の僧侶たちもそのように思っています。筆者自身も全くその通りで、浄土宗僧籍があり、光明主義が伝統的浄土宗の変革運動であると思っています。

しかしながら本当を云えば光明主義は決して一つの宗派としての浄土宗の変革のみにとどまるものではないようです。そのことは弁栄聖者の生涯にわたるご事績からも推察せられるところであります。

今改めて光明主義の立場の意義を考えるとき、それはいくえにも重層立体的に広がり、ないし限りなき深みにおける展開が考えられるのであります。とりわけそれは「日本的霊性」という立場からにおいてです。そうした視点からみる時、光明主義は、

 (1)浄土教即大乗仏教的霊性の完成
 (2)弥生的霊性の完成
 (3)縄文的霊性の完成

を含んで、日本的霊性の完成が考えられるのであります。

ところでこれら三者は日本文化のそれぞれの不可欠の三契機をなし、しかもそれらは重層立体的に重なり合い、決して相互に排除しあうのではなく、むしろ相い縁りながら、限りなくそれぞれに生かしあい、限りなく深まっていったのでした。

ここで(1)の「浄土教即大乗仏教」を弁栄聖者の用語にしたがって「大乗仏教的霊性」という言葉を使えば、光明主義は単なる浄土宗の変革にとどまるだけのものではなく、更に大乗仏教的霊性、弥生(稲作)的霊性、そして縄文的霊性等のそれぞれの完成が考えられます。

ところで「日本的霊性」という言葉をはじめて用いたのは鈴木大拙博士(1870-1966)でありました。彼は1944年(昭和19年)『日本的霊性』を出版しています(岩波書店)。しかしながら「霊性」という言葉自身は弁栄聖者がはるか以前から光明主義の根本用語として無尽に展開されていたところのものでした。しかしながら「日本的霊性」という言葉自体にはまた大拙博士なりのユニークさがあります。

いずれにしてもこの著書が刊行された1944年の頃は、まだ近代もさ中でした。近代は理性万能の時代でしたが、そうした中に「霊性」という言葉が輝き出したのでした。かかる「霊性」には理性万能の近代を突破する契機が含まれているのですが、当時はまだ多くの場合、その霊性の出現の意義に気づいてはいませんでした。

しかも日本的霊性といっても、大拙博士においては、その内容は必ずしも本当の日本的霊性にはなっておらず、大拙博士自身、その展開は鎌倉仏教という限定された立場にたっての展開にとどまるものでした。もちろんそれはそれですばらしい内容を構成していますが、彼の場合それはむしろ「鎌倉的霊性」といった方がより適切とも思われます。もちろんそこに「日本的霊性」の見事な開花がみられるのですが、しかしながら何といっても「日本的霊性」をその全体として見透す上からいって先述のように「大乗仏教的霊性」「弥生的霊性」「縄文的霊性」という三層における重層立体的構造において捉える時、日本的霊性の全体像から展望することが考えられます。そして弁栄聖者の光明主義はかかる三者のそれぞれにおける、そしてまたその全体の完成としての意味をもっていることが考えられるのであります。そしてもちろん大拙博士の日本的霊性をも包含してのその完成が考えられるのであります。以下はその論述であります。

1、光明主義は浄土教即大乗仏教的霊性の完成

さて浄土宗はそのままが大乗仏教そのものであって、決して大乗仏教の中の一宗派としての浄土宗にとどまるものではありません。そしてまさにそこで浄土教即大乗仏教的霊性を考えるところに光明主義の展開をみるのであります。

多くの人たちは大乗仏教の中の一宗派としての浄土宗を考えがちです。しかしながらそれは実は法然上人の真意からも遠ざかっています。むしろ真の浄土宗とは(A)大乗仏教の全体を包含しつつ、(B)その大乗仏教の全体を完成してゆくのであり、そこのところで単なる小浄土宗を脱して大浄土宗としての光明主義が自覚されてゆきます。

まず第一に(A)に関していえばすでに法然上人は御歳59才の折の『東大寺十問答』において、弟子重源の第一の質問に対して、

八宗九宗みないづれもわが宗(浄土宗)の中にをさめて、聖道浄土の二門とはわかつなり……

(『拾遺和語燈録』巻下所収)

と述べられ、そして更にその浄土宗の中に聖道浄土の二門があるのですから、必然的に聖道門も浄土宗に対立するものではなくその聖道門をも浄土門の中に包みこんでその聖道門が展開されてゆくとする趣旨が述べられているのであります。そしてその内容を100%展開されていったのが弁栄聖者なのでした。聖者においては一貫して念仏の実践が行じられつつ、そこに百パーセント禅の悟りの世界等も開かれていったのであります。

そして更にその(B)においてその浄土門が大乗仏教を完成してゆくのであり、そこに真の浄土門が光明主義と重なります。浄土門は浄土門として種々相が考えられますが、それは大乗仏教の完成に極まってゆくのであります。そのことはたとえば浄土宗にとって最も重要なテキストの一つとされている二祖鎮西(聖光)上人の『末代念仏授手印』という著書にもみることができます。その「袖書」と称せられる冒頭の文において、

究竟大乗浄土門……

という句が出てまいります。ふつう「究竟なる大乗」と究竟が大乗の形容詞としてよまれていますが、それは浄土門が大乗(仏教)を究竟(完成)してゆくからに他なりません。そしてまさにその点で浄土門が大乗仏教の単なる一派であることを超えて大乗仏教そのものの完成があるのであり、そしてまさにそこに浄土教即大乗仏教的霊性の完成の地平が開かれてゆくのであります。

なお「究竟大乗浄土門」の句は、二祖上人の御著に出てくる言葉ではありますが、このような句は法然上人でなくて誰が言えるでしょう。

なお現在の浄土宗が救済の眼目を「捨此往彼 蓮華化生」(此=穢土を捨てて彼の浄土に往く)───法然上人は『往生要集釈』において説かれています───を中心に説いていますが、そこには仏教伝来以前の古代日本人の信仰であった「他界信仰」と連なる面もあります。往生思想は他界信仰の止揚としても考えられるべきでありましょう。しかしながら多くの場合、折角の往生思想が他界信仰の中に埋没して往生そのものの真実が見え難くなっているということも云えなくはありません。

かつて柳田国男(1875-1962)はひとりの弟子に対して「日本は一見、仏教国になってしまっているが、実際は仏教伝来以前の原始信仰たる他界信仰と殆ど変る処はない」と云ったと伝えられていますが、他界信仰と往生思想とは改めて私たち一人ひとりの問題として取り上げなければならないでしょう。

ところで浄土宗が大乗仏教の完成であるとは、いかなる点で云えるのでしょうか。そのことは善導大師(613-681)の『往生礼讃偈』の中にもみることができます。すなわちその中の「日中礼讃偈」における、

到彼華開聞妙法 十地願行自然彰
  (彼に到って華開き、妙法を聞けば、
  十地の願行は自然に彰わる)

の文においてであります。ここで「到彼」とは往生のことに他なりませんが、まさにそこで十地の願行が彰われてくる、実現してゆくことを意味しています。そのような点から云って浄土教とは、
  (A)浄土に往生する教え(必要条件)
  (B)浄土による救済の完成を説く宗教(充分条件)
ということもできます。

『華厳経』(十地品)を拝読すると、その最初の歓喜地から第十地(法雲地)に至るまで一貫して菩薩道の実践が説かれ、更にはその一々の地においてくり返しくり返し念仏三昧の実践が説かれているのでありますが、それはまさしく、大乗仏教=浄土門の完成が説かれているのであります。それは弁栄聖者の霊性の立場の展開そのものを意味していますが、そこに浄土教即大乗仏教的霊性の完成としての光明主義の深意をみることができるのであります。

(つづく)

  1. 本論は平成24年5月、京都百萬遍知恩寺での「法の集い」における講述の内容を文章化したものです。 []
カテゴリー: 上首法話, 月刊誌「ひかり」, 法話

心のよごれ

布を染める人
おシャカさまがあるとき、布をいろんな色にそめる染物屋さんを思いうかべながら、お弟子さんにお話ししました。

みなさん、ここによごれた布があったとします。
それを染物屋さんが、青や赤、そして黄色にそめようとします。その布はどのようにそまるでしょう?
その布はきれいにそまることはないでしょう。
なぜなら、布がはじめからきれいではないから。
それと同じように、みなさんの心もよごれていたならば、同じような結果になるでしょう。
もし、きれいな布、そしてきれいな心であればきれいにそまるでしょう。

では、心のよごれとは何でしょうか?

  • あれもほしい、これもほしいという「むさぼりの心」
  • カーッとなる「いかりの心」
  • 真実をしらない「まよいの心」
  • 悪いことをしたのにだまっている「かくす心」
  • やるべきことをしない「サボる心」
  • 自分はえらいとかんちがいする「えらそうな心」

こういうのを心のよごれというのです。みなさん、努力してこのよごれをきよめていきましょう。よごれた布も水で洗えばきれいになります。
そうすれば、托鉢という町に出て食事をいただく修行にいったとき、どのような相手であっても心はおだやかでしょう。
何もくれない人もいるかもしれません。「おまえにあげるものなんてない!」と言われるかもしれません。
ほんの少しのご飯の人、豪華なものをくれる人、いろんな人に出会うでしょう。心がきれいであればいつでも、どんな相手でも心はおだやかです。

そのようにおシャカさまはお説きくださいました。

みんなもいろんな人に出会うと思います。おこってばかりの人、優しい人、いじわるな人、大好きな人、厳しい人。
もし心がきれいであればいつでも、どんな相手でも心はおだやかです。
むさぼりの心・いかりの心・まよいの心・かくす心・サボる心・えらそうな心、こんな心のよごれ、みんなの心にあるかな?

次回はこのつづき「心をきれいにする方法」です。

カテゴリー: 子供と一緒に, 月刊誌「ひかり」, 法話

心と脳の問題

心の脳の問題を考えるにあたり重要であることは
「脳によって心が生じる」という言葉の意味するところです。
仏教においては、実は「脳」と「心」の関係ははっきりしていませんが、
仮に縁起思想によって解釈すれば、
「脳にって心が生じる」としても仏教者として違和感はありません。

しかし、「心は脳機能に還元される」という意味で、「脳によって心が生じる」という言葉がつかわれている場合は、
やはり違和感があり、これは場合によっては間違っていると思います。

場合によってはとしたのは、たとえば

大多数の生理学者は物事を説明するにあたりさらに還元法 reduction 1という研究方法を追加する。

カールソン神経科学テキスト 脳と心 第3版 p.10

にみられるように、科学というものは還元法によってものごとを説明し、大きな成果をあげているということです。
ですから、還元法という方法論が間違っているとは私は思いません。
しかし、やはり還元法によっては、還元されることによって見失われてしまうものがあることに注意しなければならないと思います。
私たちは、夢をみる時、または架空の生物を想像するとき、実際の外界によらずそのようなものが意識されうると錯覚しがちです。
しかし夢も、想像された架空の生物も、すべて外界から取り入れられた情報(の記憶)によって起こっているものではないでしょうか?
しかし、私はだから心は死後も続いていくのだというような事を主張したいのではありません2。事実、盲視 blindsight 3や分離脳4の研究からさまざまな事がわかってきています。
たとえば、盲視に関していえば、

盲視の現象は、意識に結びつくことが脳のすべての部位での一般的性質ではないことを示唆している。

カールソン神経科学テキスト 脳と心 第3版 p.5

ということが明らかになってきていますし、分離脳の研究で衝撃的であった事は、

ある心理学者は、分離脳の男性が一方の手で妻をたたこうとしながら、一方の手でかばおうとしていたと報告している。

カールソン神経科学テキスト 脳と心 第3版 p.6

という事です。
つまりこれは左右の脳をつないでいる脳梁が切断されることによって、左右の脳にそれぞれ異なる心の状態が同時に生じることを示唆しています。
このような事例を見れば、心のすべては脳機能によって還元され、人は死んだら終わりと考えるのも無理はないような気がします。
しかし、先に考察したとおり、このような考えに陥るのは、そのつもりはなくても外界を無視してしまっている事に起因していると思います。
たとえば「外界」というものを無視せず、「脳」と「外界」に縁って意識が生じるとしたとき、そもそもその「縁って」というのは何なのでしょうか。
どうして「脳」と「外界」は「縁って」という関係性を持ちうるのでしょうか。
「脳」や「外界」がそれぞれ独立5した存在であれば、そもそも「縁って」という関係は持ちえないのではないでしょうか。

私は仏教が明らかにしたその「縁って」というあり方6に科学的方法論では還元できない不可思議な何かがあると思うのです。

  1. もう一方の説明方法として般化 generalization というものも紹介されている []
  2. 誤解を招かないように言うと死後も心の世界はつづいていくことなんてありえないとも主張しているわけでもない、どちらが正しいかは心の定義にもよる []
  3. これによって意識されない視覚があることが確認されている []
  4. 左右の脳をつないでいる脳梁が切断されている状態 []
  5. 他によらなく存在できるという意味で用いています []
  6. 龍樹『中論』等からすれば「あり方」と表現するのは誤りかもしれないが、ここでは簡潔にするためにそのように表現している []
カテゴリー: 勉強, 読書

適用限界

一流の理論家というのは実に謙虚です。自分はこういう精緻な理論をつくった、しかしそれですべての事象が説明できるなんて考えていない。本物の理論家は、理論の適用限界をいつも意識しています。

週刊東洋経済 第6142号
長老の智慧 その1 理論と実験は科学の両輪 一流の理論家は限界を知る by 小柴昌俊

小柴昌俊先生は、東京大学の学術俯瞰講義においても同様のことを仰っていましたが、これはなにも科学だけではなく宗教においても重要な事であると思いました。
お寺にはさまざまな問題を抱えた人が相談にこられることがあります。しかしその方々の中には、お念仏や祈りでは解決できないものも多くあります。
福沢諭吉は、『学問のすすめ』において、

熱病に医師を招かずして念仏を申すは阿弥陀如来を信ずるがためなり。
中略
けだしこの人民は事物を信ずといえども、その信は偽を信ずる者なり。

として、誤った信仰を説いています。
これは極端な例としても、たとえば心の問題の場合は複雑です。
事実、心の置き所を阿弥陀様に定めることによって、物の見え方が変わってくるということは、宗教のもつ大きな力だと思います。事実それによって癒されていく人も多くいるのです。
しかし、

赤色鏡万物赤色を呈す

という言葉があります。これは物質的に鏡を赤色に染めることによって、そこにうつる世界は全て赤く染まって現れてくるということです。
こういったものの見え方は、物理的なものに起因しており、お念仏や祈りで変わってくるようなものではありません。
心は不可思議なものには変わりありませんが、脳という物質を縁としておこってくる側面があります。そういった物質的なものに起因する心の病というものも宗教者として無視できるものではありません。
無責任な法話によって、薬を飲むことによって回復する見込みがある方の病識(病気であることの認識)をなくしてしうことがあるかもしれません。
宗教者としてそのような事がないよう十分に注意し、お念仏や祈りの適用限界を見定める必要を強く感じました。

カテゴリー: 勉強, 読書

『わかりやすく〈伝える〉技術』

あなたも仕事のうえで、専門用語を無意識に使っていませんか。相手が大人ですと、わからなくてもわかったふりをして聞いていることがあるので、自分では「相手に理解してもらえている」と勝手に思い込んで説明をしていたが実はまったく伝わっていなかった、ということもあるものです。

わかりやすく〈伝える〉技術 (講談社現代新書)
by 池上 彰

池上彰さんの解説は非常にわかりやすいと思っていたので、布教にその技術が生かせるのではないかと思い本書を購入しました。
専門用語を客観的に把握するための1つの方法として、自分の布教の原稿を校正ソフトウェアで解析させてみました。

すると、(校正ソフトウェアが用いている一般的な)「辞書に登録されていません」という用語の指摘が多くあります。
その中のほとんどは、布教中にきちんと説明するのですが、問題はその指摘数の多さです。
今年1月の布教の準備のために用意した原稿では、7種類の用語が指摘されました。
これでは、たとえきちんと用語の説明をしたとしても、難しい話という印象を与えたに違いありません。

また、校正ソフトが指摘しないとしても、やはり難しい用語があります。
私が所持している仏教書を数十冊スキャンしてOCRでテキスト化し、2文字以上の漢字が続く用語を抽出して頻出順にならべてみたところ、
「如来」という文字が、もっとも使われている2文字以上の用語で、1000件以上ありました1
この如来という用語は一般的な辞書にも記載され、私もよく布教に使うものですが、
聴聞の方は、「如来」といわれてもあまりピンとこないのではないかと思いました。

このように考えてみると、今までは布教の内容をかんがえるだけで、いっぱいいっぱいでしたが、もっとわかりやすさを追求する事の大切さを痛感しました。
そういえば、ある時、

少し難しかったですが、ありがたいお話ありがとうございます

と言われたことがあります。
あの時もっと真剣に、「少し難しかったですが」という言葉を受け止めていくべきであったと反省しています。

  1. 私がもっている仏教書ですので他の僧侶の蔵書ではきっと違う結果になったと思います。 []
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死後の世界

延々と積み重ねてきた科学的知見から総合的に判断すると、人間はただのロボットで、心はただの幻想、死は単なるロボットのスイッチオフだと考えるしかない。もはや抜け道はない。そう思える。

「本」(講談社 読書人の雑誌2 第38巻第2号(通巻439号)」所収
「死ぬのが怖い」人に贈る七つの対処法 by 前野隆司

前野隆司先生といえば「受動意識仮説」で有名な先生です。上記の引用はかなりのインパクトがあり、そのような考えをもつことも理解はできます。
僅かな紙面上での事ですので、前野隆司先生もすべて説明できるわけではないのはもちろんですが、本原稿を読んだ際、私は以下のような問題意識をもちました。

  1. 現在の科学的知見ではという限定のもので、心1は、幻想であるとしか言えないだけなのではないか?
  2. 「幻想」とは科学的にどのようなものと定義されるのか。すなわち「幻想」も科学的要素に還元されなければ、そもそも科学的には「幻想」であるとも言えないのではないか。

以上の点を踏まえ、前野先生の他の著作等を読んでいきたいと思います。

また、前野先生は同コラムの中で、

論理的根拠もなく確実性の低いことを信じるのもなんだか痛々しいので、正してあげたい気もする

とも指摘されていますが、これは宗教者の責任であると強く感じました。
現在の科学的な知見という視点という1つの見方に限定すれば、宗教というものが「論理的根拠もなく確実性の低いこと」と見えてしまう事があるのでしょう。
しかし、そうであるならば、宗教者は現在の科学的な知見とは違う、あらたな宗教の視点を提示することで、信用を回復する必要と責任があると強く感じました。

  1. この場合の心というのは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面すなわちクオリアのようなものを指していると考えられる。 []
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ひかり2013年02月号

ひかり誌2013年02月号表紙

ひかり誌2013年02月号表紙

弁栄聖者 今月の御道詠

わかれつつ なおいくたびか かえり見る
 けむりにかえる あとぞ恋しき

『空外編 弁栄上人書簡集』

05 光明会各会所年間行事
06 聖者の俤(おもかげ)其二十六 中井 常次郎
08 名号の不思議 その6 河波 定昌
11 感動説話「薫習」 明千山人
12 子供と一緒に学びましょう 36
14 光明主義と今を生きる女性 植西 武子
16 光り輝く淨土への道69  山上 光俊
20 神様の答え 江角 弘道
21 能生法話「行くべき国」 辻本 光信
22 自他不二への向上み その5 佐々木 有一
27 図書案内
28 お袖をつかんで
   「― 第九歩 善き縁に親しむ ―」吉水 岳彦
30 薬膳料理  大谷 明美
32 聖者の霊筆
34 写仏のすすめ
36 特別会員及び賛助会員のお願い
37 支部だより、こちらひかり編集室
46 掌木魚のご案内
47 財団レポート、清納報告

カテゴリー: 「ひかり」目次, 月刊誌「ひかり」

弁栄聖者の俤(おもかげ)26

◇〈聖者ご法話〉聞き書き その一(別時の説教)

〈つづき〉

▽次の日のお話〈二十六日〉
如来様から頂いた最も大切なものは霊性である。与えられた命の時間を如来の思し召しに叶うように、有益に使えば三世諸仏のように尊い仏となる。善導大師のお言葉に、

「仰ぎ奉る、一切諸仏も自分も、過去では同じ凡夫であったろう。然るに自分は今賤しい身分である。諸仏は悟を開き、人々を救っておらるるに、自分は凡夫である。恥ずかしい」と。

諸仏は与えられた時間を光明の中に正しく使ったから、仏となったのである。われは暗中に暮らしたから六道に輪廻している。されば命の時間を光明に向かって使うか、如来にそむいて暗の暮らしをするかで、仏と凡夫とに別れるのである。不断に念仏せば、次第に仏の徳が移って来る。

 

▽向下心〈衆生を救いたいとの思い〉で働くについて
食うために働くのか、働くために食うのか。唯食うためならば、詐偽をして食っても良い。盗んで食っても腹はふくれる。食いさえすればよい。働くために食うのは、如来の子として、光明の中に生活させて頂くために働くのである。だから不正な事はできない。

 

▽心の衣食住について。
肉体に衣食住の必要ある様に、心の上にも、これが必要である。信仰の人となれば、如来より、清浄無垢の衣、法喜禅悦の食、光明心殿の住居が与えられる。生まれたばかりの赤子は、母の懐に住みながら、それを知らぬ。少し大きくなれば、赤い衣を着せられて喜ぶ。信仰も赤子の時代は、乳や衣を喜び、活き働く事を知らぬ。

信仰に入り、念仏三昧を相続すれば、次第に心が育てられる。このお育てを受けなければ、たとえ肉体は生きていても、霊性は活きて来ぬ。霊性の活きて来ぬ間は、日々の所作、皆、三塗の業である。悪道に墜ちる事をして暮す。如来光明中の生活となり、永遠に活きる方に、信仰心が発達すれば、法喜禅悦の妙味を感じ、日々の仕事が、如来の御心に叶うようになる。

人が赤子の時から、一人前に働ける様になるまでは、ずいぶん長い年月がかかるけれども、信仰の方は、如来のみ恵みを受けさえすれば、信仰の力を現す。受けたお慈悲の力が、日々の仕事の上に現れる。

如来はいつも我々の日常の所作を見ておられる。毎日の仕事は、みおやの試験である。それを人々は知らない。一心に念仏すれば、禅悦の食が頂け、平生も法喜が頂ける。平素心にうまみを頂くのは、身を丈夫にして働くためである。念仏三昧も、法喜禅悦を味わうばかりではいけない。よく働かねばならぬ。健全な信仰を得れば、立派な働きができる様になる。安心が悪ければ、夢の中でも、寝ながら罪を造る。

宇宙は、そのまま一つの大きな家庭である。如来は智慧の父、慈悲の母である。人間は皆、兄弟。その教師はお釈迦様である。お釈迦様は私共の手本である。

如来の霊応は電気のようなものである。信仰の機械が悪いと、電気を送っても働かぬ。菩薩は如来の電気を受けて働く機械である。

慈悲は道徳の根本。仁義礼知信の中で仁が第一である。如来の慈悲を得て、以前の自分を省みれば、生まれ更ったようである。信仰に入らぬ前は、物が苦になり、腹が立つ。然るに、一心に念仏すれば、解脱して、苦が無くなる。人間は知識があるから苦を感ずる。知者ほど煩悶が多い。如来の光明は、一切の煩悩を解脱、霊化し、苦を抜き、真実称名楽という歓びを与えて下さる。称名楽を感ずると、慈悲心を感ずるようになる。

金を以て施す慈悲は、金に不足せぬ人に慈悲の施しようは無い。金の有る人でも、煩悶を持たぬ人は無い。その煩悩を抜いてやるのが、大なる慈悲である。

或る有名な信者と同行した人の話に、道端にとげ草がとげを向けていた。人間から見れば、鎗を向けているようなものである。信者はとげに向い、兄弟よという心持ちで、邪魔にならぬ処へ、それを向けて置いた。こちらがすなおにすれば、害を受けぬ。足でければ、反って害を受ける。あらゆる徳の中で、慈悲は第一である。仏心とは大慈悲なり。如来の無縁大悲は、太陽の光の如く、こちらに受ける力が無ければ、受けられぬ。太陽は何百万石の米をも作る光と熱を与えているけれども、人は田を作らねば米が獲られぬ。如来の大慈悲には、一切を化益する増上縁の力がある。そのお慈悲に同化されようと念ずる人のために、如来は無限の力を与え給う。(以上、日高居士の筆記より)

 

▽二十六日の夜、上人のお室にて
「きよきみ国」のお歌に「日々に六度の花の雨」ということが有りますがと尋ねたら、上人は次のようにお答え下さった。

『阿弥陀経』に説かれてある浄土は真実である。三昧が進むと、華の雨が降る。この世の花とは、少しちがう。

三昧に入れぬのは、心が汚れているからだ。念仏により、心が浄化されると、浄土や仏様が見えて来る。信仰の進むに連れて、如来は限りなく大きく現れる。

 

▽二十七日
娑婆で生死を繰り返すのが、信仰界での流産である。胎内で犬の形であるならば、外に出ても犬である。人も此の世で、犬のような心を持って暮らすならば、死ねば犬に生まれる。自分が極楽に往生すると決めていても、それはだめである。此の世から、仏子の自覚ができ、仏子として生きねば、往生はできない。信仰が進み、浄土に生まれる種が熟したのを、業事成弁という。老いて気が短くなったり、愚痴っぽくなるのは、餓鬼に生まれる種が熟したのである。
(つづく)

カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」, 法話

名号の不思議06

──第1節 応声即現、そして同時(処・事)性へ──

「応声即現(おうしょうそくげん)」とは、すなわち「声に応じて阿弥陀仏が即現したまう」の意味である。このことばは善導大師が『観無量寿経疏』(定善義)の第七華座観に説かれている。詳しくは「弥陀、声に応じて即現して往生を証得することを明す」1である。

称名念仏の有り難さ、そしてまたその不思議さは、私たちが称える名号でありながら、そこに阿弥陀仏がその全体を挙げて現前したまうところにある。私たち自身は罪悪深重の凡夫で、非力の極みであるが、その私たちの阿弥陀仏のみ名を称える称名それ自体において、100%、阿弥陀仏はその全体を挙げて現前したまうのである。そしてこの称名において阿弥陀仏との一体化がなされてゆく点で、その称名とは名号の神秘主義 Namensmystik そのものである。すなわち私たちが名号を称えるそのところで私たち自身が阿弥陀仏自身になっているのである。

そのことは『観無量寿経』(第八像想観)における、

心に仏を想う(称える)時、〔中略〕是の心、仏と作る、この心、是れ仏なり。

の文に連なっている。

「応声即現」における「応」とは、私の声に即しつつ、そこに、その私の声をも超えた阿弥陀仏そのものがはたらき、全面的に阿弥陀仏の世界が開かれてゆくのである。

この「応」には甚深の意味が考えられるであろう。日本近代の哲学を代表する哲学者として、西田幾多郎(1870-1945)の名が挙げられる。最初はもっぱら禅の修行に終始していた彼であったが、彼の他力念仏との深い因縁もあって(彼は浄土真宗の盛んであった金沢の出身である)、最晩年になって浄土門への強い傾向がみられるようになる。そして彼の最後の論文となった「場所的論理と宗教的世界観」(『哲学論文集第七』所収)において神(阿弥陀仏)と人間との関係について「絶対矛盾的自己同一」の用語を用いて解明し、更に進んで「逆対応」の言葉をもってみずからの宗教体験の内容の表明を試みている。

すなわち「絶対矛盾的自己同一」とは、人間と神(阿弥陀仏)との関係において、まさに自らの罪悪深重の凡夫の故の断絶の意識──絶対矛盾的──に即して、阿弥陀仏との自己同一的な側面をみようとしていたのである。そこには法然上人や親鸞上人の罪悪の凡夫と「是心即仏」の禅の立場の重なり合いがみられ、また二十世紀の前半における圧倒的なバルト神学の顕著な影響もみられる。そしてそれ(矛盾)をも貫いて西田に阿弥陀仏との自己同一性の展開がみられるのである。そしてその「自己同一」をなおも汎神論的であると非難する田辺元(1885-1962)の批判を受けて西田は「逆対応」の言葉を創造して更なる自らの哲学を展開していったのである。

この「逆対応」には、その逆において阿弥陀仏と人間との関係の絶対矛盾が説かれつつ、その応において阿弥陀仏と人間との関係がどこまでも一つに連なる面の主張がみられるのである。そこには「即」から「応」へのダイナミックな展開を考えることができる。そしてまさにその「応」において善導大師における「応声即現」の「応」との出会いが開かれてゆくのが考えられるのである。

ここで西田は「逆対応」を論じるみずからの最後の論文において期せずして「応声即現」における「応」の世界に入っていったのである。そしてまたかかる「逆対応」の論理はおのずと浄土教(念仏)における中核的な論理ともなってゆく。そしてまた弁栄聖者の教えの眼目となる念仏三昧における「感応道交」において豊かな展開が遂げられてゆくことにもなる。(なお西田の「逆対応」の論理はその門下、高山岩男において「呼応の論理」として更なる展開がなされてゆくのであるが、その点については稿を改めて論じることとする。2

ところで西田の「逆対応」の論理と結びつく「応声即現」は現実の時間空間に限定された世界に即して超時間的、超空間的世界を開いてゆく。そしてかかる「応」の世界に即して次のような三つの高次の世界が開かれてゆくことにもなるのであろう。すなわちその三とは、
  1,同時性
  2,同処性
  3,同事性
の三つの世界である。とはいえそれらの三者は別々に存しているのではなく、それらは相互に不可分に重なりあって展開されているのである。以下はその説明である。

1,同時性

この同時性をキリスト教世界において主張したのはS・キェルケゴール(1813-1855)であった。彼も二千年の隔てを超えてイエス・キリスト自身との同時性に生きていたのであった。そこにはキリスト教と仏教という東西両宗教の相違を超えて、共通の根源的な真理の世界が開かれていたのである。そして光明主義そのものも単なる時間的、歴史的な変遷を超えてかかる超時間な次元に根ざす永遠の宗教なのである。

2,同処性

念仏する時、時間の隔てが超えられてゆくと共に、また空間的な隔ても超えられてゆく。「海山遠く隔てていても念仏する時、その人は源空(法然上人)に近し。」とは法然上人の趣意である。念仏する時、今や空間の隔たりは越えられて「倶会一処」(倶に一処に会す)──阿弥陀仏において同処的──となってゆくのである。

  つゆの身はここかしこにてきえぬとも
    こころはおなじ花のうてなぞ

は法然上人の御歌であるが、「おなじ花のうてな(台)ぞ」とは同処性の表出である。
この歌は法然上人の流罪の途中、九条兼実に対しての歌であるが、四国と京都との空間的な隔てを超えて、その同処性が歌われているのである。

3,同事性

「同一光明の中にあって、同名号を称え、同摂衆の護念を蒙る」(法然上人)。念仏の実践には、あらゆる差別が超えられて同事性が実現せられてゆく。阿波介の念仏も法然上人自身の念仏も称名自身において一つであり、そこには何ら優劣等の相違はないとの法然上人の強い主張(これは二祖鎮西上人の質問に答えられたもの『法然上人行状絵図』第十九巻)に同事性は現れている。

  子を喚ぶ大悲の御声が
    称うる衆生の声となり
  南無阿弥陀仏とよぶ声に
    あらわれたまうご名号
         (田中木叉上人ご道詠)

以上「名号の不思議」完

  1. 『浄土宗全書』第2巻44頁b []
  2. 高山岩男『場所的論理と呼応の原理』は、昭和51年11月に創文社より刊行されている。この著書の成立の因縁には、西田幾多郎と田辺元との激しい論争を経、それだけでは決着がつかず物別れになった感があるが、それらを改めて高山は呼応の論理で乗り越えようとしている点がみられる。そこには京都学派の新しい展開をみることもできる。たとえば彼は西田の絶対矛盾的自己同一性を「呼応的同一性」と考え、その場合、「呼応ということ以外に別個の同一性があるのではない。呼応が即ち呼応的同一性なのである」(同書69頁)と云って田辺の立場を批判的に超克している。その場合、彼はこの呼応の問題を人格的関係においてみていたのである。 []
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