弁栄聖者の俤(おもかげ)26

◇〈聖者ご法話〉聞き書き その一(別時の説教)

〈つづき〉

▽次の日のお話〈二十六日〉
如来様から頂いた最も大切なものは霊性である。与えられた命の時間を如来の思し召しに叶うように、有益に使えば三世諸仏のように尊い仏となる。善導大師のお言葉に、

「仰ぎ奉る、一切諸仏も自分も、過去では同じ凡夫であったろう。然るに自分は今賤しい身分である。諸仏は悟を開き、人々を救っておらるるに、自分は凡夫である。恥ずかしい」と。

諸仏は与えられた時間を光明の中に正しく使ったから、仏となったのである。われは暗中に暮らしたから六道に輪廻している。されば命の時間を光明に向かって使うか、如来にそむいて暗の暮らしをするかで、仏と凡夫とに別れるのである。不断に念仏せば、次第に仏の徳が移って来る。

 

▽向下心〈衆生を救いたいとの思い〉で働くについて
食うために働くのか、働くために食うのか。唯食うためならば、詐偽をして食っても良い。盗んで食っても腹はふくれる。食いさえすればよい。働くために食うのは、如来の子として、光明の中に生活させて頂くために働くのである。だから不正な事はできない。

 

▽心の衣食住について。
肉体に衣食住の必要ある様に、心の上にも、これが必要である。信仰の人となれば、如来より、清浄無垢の衣、法喜禅悦の食、光明心殿の住居が与えられる。生まれたばかりの赤子は、母の懐に住みながら、それを知らぬ。少し大きくなれば、赤い衣を着せられて喜ぶ。信仰も赤子の時代は、乳や衣を喜び、活き働く事を知らぬ。

信仰に入り、念仏三昧を相続すれば、次第に心が育てられる。このお育てを受けなければ、たとえ肉体は生きていても、霊性は活きて来ぬ。霊性の活きて来ぬ間は、日々の所作、皆、三塗の業である。悪道に墜ちる事をして暮す。如来光明中の生活となり、永遠に活きる方に、信仰心が発達すれば、法喜禅悦の妙味を感じ、日々の仕事が、如来の御心に叶うようになる。

人が赤子の時から、一人前に働ける様になるまでは、ずいぶん長い年月がかかるけれども、信仰の方は、如来のみ恵みを受けさえすれば、信仰の力を現す。受けたお慈悲の力が、日々の仕事の上に現れる。

如来はいつも我々の日常の所作を見ておられる。毎日の仕事は、みおやの試験である。それを人々は知らない。一心に念仏すれば、禅悦の食が頂け、平生も法喜が頂ける。平素心にうまみを頂くのは、身を丈夫にして働くためである。念仏三昧も、法喜禅悦を味わうばかりではいけない。よく働かねばならぬ。健全な信仰を得れば、立派な働きができる様になる。安心が悪ければ、夢の中でも、寝ながら罪を造る。

宇宙は、そのまま一つの大きな家庭である。如来は智慧の父、慈悲の母である。人間は皆、兄弟。その教師はお釈迦様である。お釈迦様は私共の手本である。

如来の霊応は電気のようなものである。信仰の機械が悪いと、電気を送っても働かぬ。菩薩は如来の電気を受けて働く機械である。

慈悲は道徳の根本。仁義礼知信の中で仁が第一である。如来の慈悲を得て、以前の自分を省みれば、生まれ更ったようである。信仰に入らぬ前は、物が苦になり、腹が立つ。然るに、一心に念仏すれば、解脱して、苦が無くなる。人間は知識があるから苦を感ずる。知者ほど煩悶が多い。如来の光明は、一切の煩悩を解脱、霊化し、苦を抜き、真実称名楽という歓びを与えて下さる。称名楽を感ずると、慈悲心を感ずるようになる。

金を以て施す慈悲は、金に不足せぬ人に慈悲の施しようは無い。金の有る人でも、煩悶を持たぬ人は無い。その煩悩を抜いてやるのが、大なる慈悲である。

或る有名な信者と同行した人の話に、道端にとげ草がとげを向けていた。人間から見れば、鎗を向けているようなものである。信者はとげに向い、兄弟よという心持ちで、邪魔にならぬ処へ、それを向けて置いた。こちらがすなおにすれば、害を受けぬ。足でければ、反って害を受ける。あらゆる徳の中で、慈悲は第一である。仏心とは大慈悲なり。如来の無縁大悲は、太陽の光の如く、こちらに受ける力が無ければ、受けられぬ。太陽は何百万石の米をも作る光と熱を与えているけれども、人は田を作らねば米が獲られぬ。如来の大慈悲には、一切を化益する増上縁の力がある。そのお慈悲に同化されようと念ずる人のために、如来は無限の力を与え給う。(以上、日高居士の筆記より)

 

▽二十六日の夜、上人のお室にて
「きよきみ国」のお歌に「日々に六度の花の雨」ということが有りますがと尋ねたら、上人は次のようにお答え下さった。

『阿弥陀経』に説かれてある浄土は真実である。三昧が進むと、華の雨が降る。この世の花とは、少しちがう。

三昧に入れぬのは、心が汚れているからだ。念仏により、心が浄化されると、浄土や仏様が見えて来る。信仰の進むに連れて、如来は限りなく大きく現れる。

 

▽二十七日
娑婆で生死を繰り返すのが、信仰界での流産である。胎内で犬の形であるならば、外に出ても犬である。人も此の世で、犬のような心を持って暮らすならば、死ねば犬に生まれる。自分が極楽に往生すると決めていても、それはだめである。此の世から、仏子の自覚ができ、仏子として生きねば、往生はできない。信仰が進み、浄土に生まれる種が熟したのを、業事成弁という。老いて気が短くなったり、愚痴っぽくなるのは、餓鬼に生まれる種が熟したのである。
(つづく)

カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」, 法話

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*