根源(アルケー)に還る  その4

さきに阿弥陀様(大ミオヤ)のみ許に還ることによって私たちが私たち自身に還ることについて述べました。いわゆる真実の自己を回復するのです。中世では浄土に往生することが主眼となって私たち一人ひとりの主体性の問題については必ずしも充分にクローズアップされることはありませんでした。それは何といっても古代から中世にかけての時代的背景があったことは否めません。しかしながら往生浄土の問題はどこまでも私たちの根源的主体性の問題とかかわっているのであります。そのことを全面的に開示されたのが弁栄聖者でした。聖者には次のような道詠があります。すなわち、

  十万の億と説きしもまことには
      かぎりも知れぬ心なりけり

(『道詠集』一二七頁)

ここで十万億とは『阿弥陀経』に説かれる「是より西方十万の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という」を意味するもので、遥か無限の西方の彼方に極楽世界のあることが説かれています。この『阿弥陀経』を訳した鳩摩羅什三蔵(350-409)は西域天山山脈の麓、亀慈国の出身でした。中国でこの経典を訳するにあたり、遥か数千里の砂漠の彼方にある故郷と極楽世界とが重なり、万感の思いを以って訳されたことでしょう。そしてまた十万億仏土は私たちを超絶した世界を示しています。しかしながらそのお浄土の世界が私たちの根源的主体たる「心」の展開に他ならないことが詠われているのであります。それは浄土教の永い歴史の上からいっても画期的ともいえるものであります。お浄土の世界とはそこで私たちの真実の自己が限りなく開かれてゆく場所であるのです。そこにはプロティノスにおける一者と主体性との関係とも重ってみえてきます。この真実の自己は弁栄聖者の高弟笹本戒淨上人の一貫して主張せられた点でもありました。戒淨上人には『真実の自己』という名著があります。京都大学の心理学の世界的権威、佐藤幸治教授(1905-1971)はこの本を読んで感動し、徹夜で読み通し、その内容を国際心理学会の雑誌『プシュコロギア』psychologiaに紹介し全世界にお広めになりました。先生に紹介した一学生にすぎなかった私の名までこの雑誌に公表して頂いたこともなつかしい思い出となっています。

またこの真実の自己の展開は田中木叉上人のお歌の中にもみることができます。たとえば、

  すきとおり尽十方はただ光
      是れぞ我かもこれ心かも

(慈悲の華つみ歌)

ここで我、そして心とは根源的主体性そのものに他なりません。それは阿弥陀仏と同体の我のことなのであります。

そのことは弁栄聖者の次のようなお歌からもうかがうことができます。すなわち、

  我れというは絶対無限の大我なる
      無量光寿の如来なり

(『道詠集』一八六頁)

近代ヨーロッパにおいても人間的主体性の問題は随分と論究されてきましたが、まさにかかる念仏の法門において完成するにいたっていることが考えられます。

このような人間の根源的主体性の問題は大乗仏教では仏性、如来蔵の思想として展開されてきました。とくにインドの大乗仏教においてもある程度発展して中期(第2期)の段階において豊かに展開がみられるようになります。その典型はたとえば、『華厳経』(旧訳六十巻本)における次のごとき文、すなわち、

彼の三千大千世界に等しき経巻は、一微塵の中に在り。一切の微塵も亦また是の如し。……如来は一切衆生を観察したまい、是の如きの言を作したまわく。「奇なるかな、奇なるかな、云何ぞ如来の具足せる智慧は(衆生の)身中に在りて、しかも知見せざる。我当にかの衆生を教えて聖道を覚悟せしめ……具に、如来の智慧(衆生)の身内に在りて、仏と異なることなきを見らしめん」と。

(「如来性起品」『大正大蔵経』第九巻  六二四頁上)

右の文において「一微塵の中に三千大千世界に等しき経巻が在る」とは如来の大智慧がそのまま一微塵ともいえる私たち衆生の中に充満していることを喩えているのであり、如来の智慧が衆生の身中に具わっていることを説いているのであります。このような思想は仏性論、あるいは如来蔵思想として展開されてゆきます。

「捨此往彼 蓮華化生」だけを見ているとかかる仏性、如来蔵思想は明確にはみえてきませんが、往生浄土は真実にはかかる真実の自己の積極的展開が考えられるのであります。

キリスト教の世界では創造神と、神によって創造された被造物たる人間との対立が抜き難いものがあるのですが、それにもかかわらず、たとえばヨーロッパ・ルネッサンス期に登場したニコラウス・クザーヌス(1401-1464)のごとき偉大なる宗教的天才において神と人間との関係を「縮限」contractioという概念において捉えようとしています。たとえば彼の初期の主著である『知ある無知』De docta ignorantia(第2巻 第4章)において、

われわれは、まず第一に、絶対最大なるもの(神)が……個物のうちに存在するということを知る。……縮限とは普遍(神)がたとえば、このものとして存在するにいたるとかあのものとして存在するにいたるとかいうように、ある特定の事物として存在するにいたることを意味する。それゆえ、一なるものであるところの神は……宇宙内の万物のうちに縮限されて存在するのである。

このようにクザーヌスにおける「縮限」の思想は『華厳経』における一微塵の中に三千大千世界の経巻が存していることを別の事ではないことが知られます。それはまさに大宇宙(神)すなわちマクロコスモスと小宇宙(人間)ミクロコスモスとの相関の関係そのものであります。

更にクザーヌスは神について包含と展開の関係で論述しています。すなわち同じく『知ある無知』の第2巻(第3章)において、

すなわちどのようであるかは知らないが、神が万物の包含complicatioであり、展開explicatioである。包含であるかぎりにおいて神のうちに存在する万物は神自身であり、展開であるかぎりにおいて……万物のうちに存在する神は「それらがそれらであるところのものである」ということだけは知っている。

と述べています。ここで包含とは万物をみずからのうちに包含していることを意味し、展開とは神によって包含されている万物の一々がそれらみずからの内に神を内蔵しており、それを開発し展開してゆくことを意味しています。すなわち神によって包まれている万物の一つ一つのすべて内にかえって神が宿されているのであります。

このような思想は実にそのままが大乗仏教においても見事に展開されています。

古来、如来蔵については三義あり、一に能蔵の義、二に所蔵の義、三に隠覆の義として展開されてきました。一の能蔵の義とは個物の一々に如来が蔵されていることを意味し、二の所蔵の義とはその個物のうちに蔵せられている如来が逆に個物を包含し蔵しているというのです。そしてこの一と二は、そのままクザーヌスの展開と包含を意味しています。そして如来に包まれることによって、包まれている個物の中から如来が展開されてゆくのであります。なお三義のうちの第三は隠覆の義といって如来が私のうちに隠されていて気づかない状況です。そうではあっても信仰において如来の包含が現実的となり、私たちの内なる如来が顕在化し、開発されてゆくのであります。それら三つの構造は弁栄聖者における如来様と私との関係そのものであります。

私たちも如来様の中に包まれていることを自覚し念仏することによって私たちの内に隠覆している如来蔵(仏性、霊性)が開発せられ、展開せられてゆくのであります。

かつて山本空外上人がニコラウス・クザーヌスはキリスト教における光明主義者であると述べられたことがありますが、まさにむべなるかなであります。

今や東西の宗教が出遇いつつある時代となりましたが、宇宙を通じて宗教的真理は一つであり、そのリアリティに異なるところはありません。弁栄聖者に触れられていた真理が実はそのままクザーヌスにおいて展開されていたことが知られるのであり、まさにそこに東西の対立を超えて一なる世界が展望されてゆくのであります。このようにして根源(阿弥陀仏)に還ることにおいて限りなき根源的自己の展開があるのであります。

(つづく)

カテゴリー: 上首法話, 月刊誌「ひかり」, 法話

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