開山上人のご紹介

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法然上人と聖光上人

浄土宗二祖聖光上人(略伝)

 聖光上人は鎮西上人・筑紫上人・善導寺上人とも呼ばれ浄土宗の第二祖になります。上人は応保2年(1162)筑前国香月(今の北九州市八幡西区香月)にお生まれになりました。9歳にして剃髪出家をし、14歳で戒を受け、明星寺・白岩寺にて天台の勉強をなされ、22歳で比叡山に登り、最初は観叡に師事し後に証真に師事しました。29歳になると天台の学問を相伝され学成って、恩師や比叡山との別れを惜しみつつ故郷へ帰る事となりました。明くる年、30歳という若さで油山の学頭となられます。学頭とは今で言う仏教の学校の校長先生にあたります。その後、久しぶりに明星寺に訪問した際、異母兄弟である三明房との対話中、三明房が突然倒られ亡くなられます。眼前の死に無常を感じ聖光上人は極楽浄土を願う念仏行者となったのであります。ここで言う念仏は法然上人の本願の念仏ではなく天台の念仏であります。 明星寺にて五重塔の再建の際、本尊を京都に注文しに参った時に法然上人と出会い、心を打たれ弟子となります。その後鎮西へと戻り、四十八ケ寺を一代にして建立しその中の一つ浄土宗の大本山善導寺を九州の念仏の根本道場とし法然上人の教えを広める為、布教活動をなされました。嘉禎4年(1238)77歳2月29日閏日に弟子達に囲まれ最後までお念仏を称え亡くなられました。

浄土宗二祖聖光上人(詳伝)

 聖光上人は鎮西上人・筑紫上人・善導寺上人とも呼ばれ浄土宗の第二祖であります。上人は応保2年(1162)筑前香月(現北九州市八幡西区)でお生まれになりました。現在その誕生地は吉祥寺という浄土宗のお寺になっております。父は香月弾正左衛門則茂といい筑前香月城主の弟でありました。母は信仰心が篤く法名を聖寿妙養と申し、上人誕生後その日の内に亡くなられております。その為上人は、安産守護の誓いを立てられて浄土宗の大本山善導寺では八百年にわたって安産祈願が行われております。
 幼少の頃は文殊児といわれ1を聴けば10を知るという聡明な少年でありました。<\br> 仁安3年(1168)7歳にして菩提寺である大日寺の僧房で勉学を始め、2年後嘉応2年(1170)には剃髪出家をし、ここで聖光坊弁長と名のり始めました。承安5年(1175)14歳で筑紫の観音寺にて戒を受け、白岩寺や明星寺にて天台の勉強をされました。この頃、明星寺から英彦山、距離にして40kmの行程を千日の日参りしたといわれております。その様は、毎晩天狗が走り抜けるという噂話が立つ程の速さであったと言われております。
 寿永2年(1183)22歳になると師である明星寺の常寂法師の勧めで比叡山へと赴き最初は観叡に師事し、後に証真に師事しました。この証真は『源平盛衰記』に「浅広の証真、深広の法然」と記されるているほど法然上人と並び称せられた方であります。
 比叡山で学ぶこと8年、比叡山にて天台の学問を相伝なされ学成って恩師や比叡山との別れを惜しみつつ建久元年(1190)鎮西の故郷へと帰る事となりました。明くる年、上人30歳油山の学頭となります。学頭とは、今で言う仏教の学校の校長先生にあたり、この歳にして学頭となられた事が上人がいかに学問に秀でておられたかということがうかがわれます。また、伝記に「学徒席を争い、衆人林をなす」と書かれてあるように学僧達が上人を慕って集まったのであります。
 油山の学頭として学僧達養成の為、全力を注がれる最中、ひさしぶりにお世話になった明星寺へと訪ねられました。そこで異母弟の三明房と対話中、三明房が突然顔面蒼白になり急死してしまいます。眼前の死に驚き、そしてこの世は無常であると思い極楽浄土を願う念仏行者となられます。ここでの念仏は法然上人の本願の念仏ではなく天台の念仏であります。しかし念仏三昧に明け暮れるわけにはいかず次々と新しい仕事がやってきます。その仕事の中で明星寺にて五重塔を再建して欲しいと衆徒に懇願され、お世話になった場所にゆえ、これを引き受けられます。建久8年(1197)36歳、上人は五重塔の本尊を注文するために、京都四条綾小路に居る仏師康慶を訪ねられ、完成までの数ヶ月康慶の邸にて待つことにしました。その邸跡が今の京都下京区寺町の聖光寺であります。
 ちょうどその頃、東山の庵にて法然上人が本願の念仏を説いておられ、毎日大勢の人がお説教を聞きに参っていました。その噂を聞き、法然上人の実力のほどを試してみようと驕りたかぶった心意気で法然上人のもとへと訪ねたのであります。
 いざ対面の時、念珠を繰りながらしとやかに襖から法然上人が出てこられ、見るからに豊かな慈悲の顔、聡明そのもののような眼の力、すぐ様に徳の高い方であると見て取られ、姿勢を正さずにはいられませんでした。それから2人の話は午後2時から午後12時迄およそ10時間ほど続きました。法然上人の考えの深さ、そしてその言葉の一言一言が聖光上人の胸をうち、その日の内に弟子となられました。その後3ヶ月法然上人の元を片時も離ずに奉仕いたしました。そうこうしているうちに本尊が出来上がり明星寺に安置する為に法然上人を許しをもらい、一度鎮西へと戻ります。そして再度38歳建久10年(1199)法然上人の元へ参り、浄土宗のもっとも大事な書物『選択本願念佛集』法然上人から授けられ「我が大師釈尊は法然上人なり」と言われ大変感激されております。それから6年、法然上人に従い奉仕されます。43歳の時、浄土宗の教えを相伝し、ついに法然上人の膝元を離れ鎮西へと戻られ布教活動をなされます。そして、筑後の高良山(現久留米市)の安養寺にて一千日の別時念仏をし、浄土宗の本山である善導寺を建立し、ここを九州における念仏の根本道場とし、一代にして四十八ケ寺を建立されました。
 法然上人亡き後、異義邪説が横行し、このことに心を痛められた聖光上人は、安貞2年(1228)68歳、肥後国の往生院にて四十八日間の別時念仏をし、法然上人のお説きなった正しい浄土宗の教えを『末代念佛授手印』としてまとめられました。そして嘉禎2年(1236)75歳の時に師弟の契りを結んだ浄土宗の三祖である良忠上人にこれを授与し「吾亡き後は、吾に代わって広く世に教法を伝えてくれ」と申し、浄土宗の法灯を相続されることとなりました。
 聖光上人は法然上人の弟子となり嘉禎4年(1238)77歳にお亡くなりになられるまで一日も欠かさず毎日6万遍の念仏を称えられたそうです。