ひかり2013年10月号

ひかり誌2013年10月号

ひかり誌2013年10月号表紙

弁栄聖者 今月の御道詠

我法は なぞかくばかり なりにけむ
 尼連禅河の なかれつきせで

『日本の光』

コンテンツ

05 光明会各会所年間行事
06 聖者の俤(おもかげ)其三十四 中井 常次郎
08 根源(アルケー)に還る その4 河波 定昌
11 光明主義と今を生きる女性 安宅川 佳子
12 子供といっしょに学びましょう 44
14 感動説話「日々是れ好日」 明千山人
15 能生法話「交わす言葉、残す言葉」 辻本 光信
16 光り輝く淨土への道77  山上 光俊
20 交通安全観音 江角 弘道
22 お袖をつかんで 吉水 岳彦
   「第十七歩 極楽を真に願う人の気色」
24 仏力と易行ということ その5 佐々木 有一
29 特別会員及び賛助会員のお願い
30 薬膳料理 その8
32 聖者の霊筆 その12
34 写仏のすすめ
36 支部だより
39 財団レポート・清納報告・こちらひかり編集室

カテゴリー: 「ひかり」目次, 月刊誌「ひかり」

仏力と易行ということ ─無礙光の序説として─  その5

関東支部会員 佐々木 有一

四、仏力とは(つづき)

さて、本線に戻りましょう。仏舎利に敬礼するとの建前で唱えられる「舎利礼文」に…入我我入 仏加持故…という文がありますが、この入我我入は仏入我 我入仏が略されたもので縁起の関係を表わしています。内からの自力でなく外から加わってきて自分を充実させ向上させ転換させてくれる何らかの力を感ずることが、誰しもあると思います。この外からの力は、要するに神からの力、仏からの力などと、人間たる自分を超えたものから加わってくるとしか受けとれないものであります。加持、加被、加備などとも表現されますが、密教特有の宗教体験ではありません。密教にはるかに先立つ紀元前後ごろに成立した経典に「般舟三昧経」というのがありますが、すでに仏と人との感応道交の有様が説かれています。

諸仏、とくに阿弥陀仏が面前にましますことを信じて念仏(憶念)すれば仏を見たてまつり、空三昧を得る、とし、この三昧は仏力の成せる所である、すなわち仏の威神力、三昧力、本功徳力によるが故に、と説いています。

いくつかの経文を引いてみますと:

仏を見たてまつらんと欲せば即ち仏を念ぜよ。
阿弥陀仏、今現在したまうを念じ、所聞に随って当に念ずべし。
一心に念ずること、もしは一昼夜、もしは七日七夜、七日を過ぎて以後、阿弥陀仏を見たてまつる。
仏身に三十二相あって悉く具足し、光明徹照し端正無比にして比丘僧の中に在って経を説くことを念ずべし。
仏、いずれの所より来り、我、いずれの所に到るとなしたまう。自ら仏を念ずるに従来する(どこかから来た)ところなく、我もまた所至(どこかへ行くこと)なし。
彼の間の仏刹に生じて見るにあらず、すなわち是の間において坐にして阿弥陀仏を見たてまつる。
念仏を用うるが故に空三昧を得。
是の三昧を證すれば空定となることを知る。
是の三昧は仏力の所成なり。…仏の威神力を持ち、仏の三昧力を持ち、本功徳力を持つ。この三事を用うるが故に仏を見ることを得。
心、仏と作る。心、自らみる、心は是れ仏心なり。
(支婁迦讖訳「般舟三昧経・行品第二」、望月信亨国訳)

龍樹も『十住毘婆沙論』第二章の「入初地品」と第二十章の「念仏品」において般舟三昧を重ねて説いて大変重視しています。観無量寿経(像想観)に、

諸仏如来は是れ法界身なり、一切衆生の心想の中に入りたまう。是の故に汝ら心に仏を想う時是の心すなわち是れ三十二相八十随形好なり、是の心仏を作る、是の心是れ仏なり

とありますのは般舟三昧のことを述べているにほかなりません。善導がこれに「弥陀身心遍法界 影現衆生心想中」と讃を付している(「日中礼讃」)こともよく知られています。ここではたらきかける仏力について善導は大誓願力、三昧定力、本功徳力とよんでいますが、さきの般舟三昧経の三力と大差ないと思います。また善導は念仏に際して親縁、近縁、増上縁の三縁がはたらくことも強調し、その一方で念仏する衆生の側にも至誠心、深心、回向発願心の三心を具えることの大切さも見落とさず、教学が精緻に発展していることを示しています。

いずれにしても仏力が衆生の上に働きかけてくることは大乗仏教の根本原理とも言うべき縁起・空の立場と不可分に結びついた如来の大慈悲といわねばなりません。大乗思想の初期を代表する「八千頌般若経」を現代語訳された梶山雄一教授は仏弟子須菩提が仏陀の威神力の助けをかりて説法を始めるについて、須菩提のそうした説法は「士用果」であると注釈しておられます。「六因四縁五果」という因果関係論が仏教理論の一分野でありますが、士用果はその五果の一つで、成唯識論では「もろもろの作者のもろもろの作具を仮て弁ずるところの事業なり」と定義しています。ある人がある道具を使ってなにかを作ったとか、なにかを実現したとか、要するに人間が作用したことによる果、その果を士用果というわけです。今の場合は作用しているのは仏ですが、理論的枠組みの構成はいずれにもせよ、仏の力の存在は昔から感じとってきたところであり、須菩提の説法もこうした仏の威神力、仏力が加わってのことでありました。

個々の現象は縁起所生のものであり変化してやまない世界ですが、その本質をなす真如・空性は常住不変であり、しかも現象と真如が別々にあるのではないというのが仏教の世界観であり大原則です。拙稿「自他不二への向上み」で略述しましたように、空でありつつ働きがあり、働きがありつつ空である、ということを「真空妙有」といいます。鈴木大拙師はさらに一歩踏み込んで空の世界にこそ大悲の働き(妙用)が豊かに湧き出すのだと「真空妙用」ということを強調されました。このような空の働きは「空用」ということも出来(山口益ほか『仏教学序説』)、いわゆる他力の働き(他力の化用)とはこの空用にほかならないと考えられます。哲学的には空用、宗教的には妙用ということでしょうか。

仏身論の他受用身という考え方も仏の功徳が空定を介して菩薩に及ぶ(回向)ということでありますが、この関係を次第に「摂取」という救済へ寛大化、いいかえれば進化発展させてきたのが仏教の歴史、発達史ともいえましょう。この点はすぐ後に若干触れてみたいと思いますが、そもそも本稿の「仏力と易行」というテーマそのものがその一端ともいえるでしょう。

なお前出「加持」については次のようにも説かれています。仏・菩薩が不思議な力をもって衆生を護ること。仏の大悲の力が衆生に加わり、衆生の信心に仏が応じて、互いに道交すること。日本の密教(空海『即身成仏義』)では仏日の影が衆生の心水に現ずるを「加」(仏の衆生に対するはたらきかけ)といい、行者の心水よく仏日に感ずるを「持」(行者が仏からのはたらきかけを受けとめ持すること)という、とされます(中村元『仏教語大辞典』)。

仏の加被力があらわに衆生にみられることを顕加といいますが、仏・菩薩から人知れぬ冥々のうちに加護を受けること(冥加)もあります。天台宗の『法華玄義』という教えには機と応と顕と冥を組み合わせて四通りに表現しています。顕機とは現世で積む善のこと、冥機は過去世に積んだ善で、この二つの機に顕応と冥応があるといいます。顕応は仏に会うなど目に見える形の利益があること、冥応は仏がひそかに衆生の能力に応じて利益を垂れることでしょう。顕機顕応から冥機冥応まで、ともかくも仏力は加わってくるものと信じることが第一です。その場合いずれにしても仏力がはたらいてくるには衆生の側の、仏に対する称名、憶念、恭敬、礼拝等、つまるところ帰依の心あってのことということが忘れてはならないことであります。

般舟三昧経が明らかにしたことは要するに回向ということでもあります。拙稿「回向から摂取へ」から要点を摘記しますと、亡者への手向けが往々にして回向と受けとられているのが今日の事情ではありますが、本来の回向とはもっと幅広い意義をもっています。パリナーマというのが原語で、変化・転換という意味であり、仏教史的には業報・輪廻の二大原理である因果応報、自業自得を破り、超える考え方として注視すべき教理であります。

無量寿経の古型とされる「大阿弥陀経」という経典があります。紀元頃の成立とされますが、このなかに、法蔵菩薩は無量(兆載永劫)の修行を積んで阿弥陀仏と成りますが、その自己の善業と修行の功徳を善人ならざる人に回向して、彼を仏の国に生まれさせる、とあります。善人ならざる人(悪人)は地獄ではなく仏の慈悲によって安楽国(極楽)に生まれるのでありますから、明らかに輪廻の二大原則は破られています。

回向の転換には二つの型があるとされます(梶山雄一『さとりと廻向』他)。

一つは「方向転換」の回向です。自己の功徳を他へ振り向ける。自作の功徳を他が受ける、つまり自作他受ということになります。

第二のタイプは「内容転換」の回向です。たとえば「小品般若経」は「布施ないし禅定の五徳目が一切智に回向されて布施波羅蜜ないし禅定波羅蜜になる、すなわち『成熟させられ転換され』て、出世間的な超越的なものに転化する」と表現しています。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若の六波羅蜜は菩薩の修行徳目としてあまねく知られるところですが、この徳目は一つ一つがそのままでは世間的、宗教的な善行にすぎません。ところが般若(智慧)波羅蜜は「智慧の完成・完全なる智慧」であり、それは空の智慧、無上にして完全な智慧であり、仏陀の一切智にほかなりません。すなわち一切智という出世間的な空の智慧によって昇華されることによって、すべて単なる善行は出世間的・超越的なもの、つまり空の働き、仏陀の働きに転化するというわけであります。

回向による救済の典型は阿弥陀仏の働きです。伝統的な解釈によれば、阿弥陀仏は自己の功徳を衆生に回向し(方向転換、自作他受)、衆生はそれによって極楽浄土に往生し、やがて成仏する(内容転換)のでありますから。

阿弥陀仏との対面を願う念仏によって、感応道交・入我我入という仕組みが働きだし、空三昧を得るのですが、ここに空三昧の源流を見ると同時に、縁起所生・空の世界が開かれて回向の概念をも生み出してきたのであります。大乗仏教は仏塔崇拝や仏伝・ジャータカなどの讃仏物語を契機に誕生したといわれますが、他者救済の具体的な仕組みとして、智慧と慈悲そのものとしての仏身論の発展に併行して、その仏と衆生を結びつける回向というかたちを基軸として発展し来たったといえるでありましょう。

もっとも回向の思想は施す側の仏と受ける側の衆生の双方の空定を前提としているために大きな制約を受けています。これを打破せんとする教学が浄土門の「摂取」の思想でありますが、ここでは本論から外れるために詳述は控えますものの、弁栄聖者の光明主義は本有無作の本仏阿弥陀仏を大ミオヤと仰いで新しい仏身観を樹て、新しい仏教公理のもとに成り立っています。そこでは箇条書き的に仏の徳性を列挙する代わりに「独尊」なる一語に集約し、そこから一切知・一切能という属性を引き出して統摂・帰趣の理を演繹し、かくして古来いわれる「他作自受の難」を克服して摂取不捨万機普益の教理を確立されたのであります。詳細は拙稿「大ミオヤの発見――新しい公理をたてた弁栄聖者」ご参照。

仏力の及ぶについても弁栄聖者はみずからの実証から独自の宗教体験を明かされています。衆生の側の「霊恋」を通じて「霊応」、「霊養」などの形で仏力のはたらきかけがあることを、新しい用語を創出して明らかにされました。新しい酒を入れるには新しい革袋が必要であります。

実践論としても般舟三昧を再発見し、入我我入への念仏の深まりの道筋を、古来の七覚支の教えをみずからの実証実体験をもとに具体的に懇切に説き明かし、三昧の方法論を明示されたことも歴史的に特筆すべき業績といわねばならないと思います。

弁栄聖者には「見仏の心的状態」と題する次のような趣旨の文章があります(縮刷版『ミオヤの光』第二巻所収「三昧の巻」)。

吾人の心霊はそもそも絶対の心霊界の分現であり、如来大心海中の霊波の如きものである。三昧発得して見仏ということについても、それは自己の根底大心海より自己の心霊に実現するのである。肉眼に対して、白く冴える玲瓏たる月が雲間より現れるというようなものではなく、また心眼に対して客体として反映してくるものでもない。自然界は人の眼があって物があり、それを太陽の光で視る、という相対的関係であるが、霊界は絶対の世界であり、彼此の別なく大小の分もない。如来の相好荘厳が見えるというのも、絶対より自己の内的霊性に発現したものを、彼処に、彼の空界に投映してこれを視るのである。それは全く遥かの彼処に旭陽赫々として光を放つ如くに現ずるのである、と。

光明主義に沿って念仏を実修するに先立って「如来光明礼拝儀」という勤行式を読誦しますが、その「至心に勧請す」の段では、

…如来の真応身は在さざる処なきが故に 今我身体は 如来の霊応を安置すべき宮なりと信ず…今や己が身を献げて至心に如来の霊応を勧請し奉る 霊応常住に我心殿に在まして転法輪を垂れ給え

とよみ上げます。ここに勧請とは如来の分身たる霊応身をわが身心に請じて、常住の指導を祈ることであります。

いったい光明主義の如来三身の考え方は法身の如来が人や世界を産み活かす「生みのミオヤ」とよばれ、こうして生まれた一切衆生を宗教的に救い育てて真善美の境涯に摂取する如来を報身、「育てのミオヤ」といいます。その報身の分身が応身で、これには応化身と霊応身の二つがあるとされます。応化身は釈尊のことで教え導く「教えのミオヤ」と呼ばれ、肉体があり寿命があって今はおかくれになっています。そのため釈尊は仮応身ともいいます。これに対して真応身というのは報身の一つの態であります。報身如来は衆生を救い育てるために種々様々に御体を分身して、あまねく私共の真正面に在ましておられます。この報身如来の分身を真応身と申しあげ、滅をお示しになることはありません。この真応身が人の信仰の心機に感応してその人を霊化し霊の生命に入らしめる、その当体を霊応身というわけです。これはいわゆる小乗教の「五分法身」、すなわち戒・定・慧・解脱・解脱知見(解脱における知と見のはたらき)の五つの法(徳性)を身体とする者、に当るとされ、人の身内に常住して滅することなし、とされています。私共が勧請し心本尊と仰ぐのはこの霊応身にほかなりません。単に「霊応」というのもほぼ同様の意味と思いますが、「仏力」という観点からすればこちらの方がよりふさわしい語感かもしれません(弁栄聖者『礼拝儀要解』及び『仏教要理問答』)。

感応ということについて弁栄聖者の法話では火と炭のたとえが有名ですが『無対光』には人の霊性は蝋燭のようなもので、人が一心に念仏して念々に如来を憶念するときは如来の心光が人の心霊に燃え移ってくるのである、とたとえられた例もあります。

真応身(ひいては霊応身)は法界にあまねく遍在し、人の信念ある処に随って発得する仏身であり、人はこの感応を得てはじめて「聖き心」によみがえり活きた信仰の生活に入りうるのであります。またこのことは「法身より受けたる霊性を報身によって温められますと、私共の霊性は育てられます。…霊応身が銘々の心の中にお宿りくだされ、私共を親しく導き、説法し、戒めてくださるのであります」と体験的に語られています(『笹本戒浄上人全集』上巻「勧請の祈願」)。

ここまでの記述とさきの引文との関係では、報身は「絶対の如来大心海」に当たり、「吾人の根底大心海」は自己の霊性であり、「絶対より自己の内的霊性に発現」するものが霊応身ということでしょう。見仏とは自己の内に霊応身が現象することであります。縁起的の故に現象学的、ともいえようかと思うのであります。

以上のように仏力について考えてきますと、「易行品」を中心とする『十住毘婆沙論』は結局のところ仏力讃歎をテーマとしてものされたように思えてきます。

(つづく)

カテゴリー: 佐々木有一氏, 月刊誌「ひかり」

甘い蜜 その1

甘い蜜 その一

仏教の古いお話を一つ紹介するね。

昔、ある国に罪人の男がいました。その男は死刑が間近に迫って来たのを恐れて、番人のすきを見て牢屋から脱走しました。しかし、牢屋の番人がその事に気づき、凶暴な白い象を放って、その男の後を追わせました。
象に追われる男
男は長い間、牢屋の中にとじこめられていたこともあって、体力はなく、足がもつれてはやく走る事ができません。そうこうしているうちに、もう象がすぐ後ろに迫っていました。象はその男をふみつぶそうとすごい勢いです。それを見て男は必死に逃げています。

すると、男は古い井戸を発見しました!
「ここへ逃げ込めば助かるかもしれない。身を隠すにはもってこいの場所だ」
男は、井戸にたれ下がっている一本の細い草の根っ子を発見。ただ、それは頼りない細い根っ子です。しかし、すぐ後ろに象が迫っているので、その根っ子をつたって井戸の中へ体をすべりこませました。それは、象が井戸に到着するのと、ほぼ同時でした。

「とにかく、これでひとまず安心だ」
そう思い男はほっとしています。

ところが、男は井戸の下を見て、あーっ! と驚きます。なんと、一匹の大きな毒蛇が真っ赤な舌をチョロチョロ出して男が落ちてくるのをまっているのです。上には象、下には毒蛇、男は絶対絶命のピンチです。男はなすすべがなくそのまま、必死に根っ子に捕まっています。

そのとき、かすかに上の方から、カリカリ、カリカリと音が聞こえてきます。捕まっている草の根元で何かが動いています。

なんと、ねずみがその根元をかじっているではありませんか。

「まずい、このままいけば、井戸の下へ落ちてしまう」

男はおそろしくて体がわなわなふるえきました。下には毒蛇、上には象、しかも、ねずみが根元をかじっている。男はどうする事もできず、ぼーっと空を見つめています。

つづく

井戸の中の男

イラスト:藤富千尋

カテゴリー: 子供と一緒に, 月刊誌「ひかり」, 法話

根源(アルケー)に還る  その4

さきに阿弥陀様(大ミオヤ)のみ許に還ることによって私たちが私たち自身に還ることについて述べました。いわゆる真実の自己を回復するのです。中世では浄土に往生することが主眼となって私たち一人ひとりの主体性の問題については必ずしも充分にクローズアップされることはありませんでした。それは何といっても古代から中世にかけての時代的背景があったことは否めません。しかしながら往生浄土の問題はどこまでも私たちの根源的主体性の問題とかかわっているのであります。そのことを全面的に開示されたのが弁栄聖者でした。聖者には次のような道詠があります。すなわち、

  十万の億と説きしもまことには
      かぎりも知れぬ心なりけり

(『道詠集』一二七頁)

ここで十万億とは『阿弥陀経』に説かれる「是より西方十万の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という」を意味するもので、遥か無限の西方の彼方に極楽世界のあることが説かれています。この『阿弥陀経』を訳した鳩摩羅什三蔵(350-409)は西域天山山脈の麓、亀慈国の出身でした。中国でこの経典を訳するにあたり、遥か数千里の砂漠の彼方にある故郷と極楽世界とが重なり、万感の思いを以って訳されたことでしょう。そしてまた十万億仏土は私たちを超絶した世界を示しています。しかしながらそのお浄土の世界が私たちの根源的主体たる「心」の展開に他ならないことが詠われているのであります。それは浄土教の永い歴史の上からいっても画期的ともいえるものであります。お浄土の世界とはそこで私たちの真実の自己が限りなく開かれてゆく場所であるのです。そこにはプロティノスにおける一者と主体性との関係とも重ってみえてきます。この真実の自己は弁栄聖者の高弟笹本戒淨上人の一貫して主張せられた点でもありました。戒淨上人には『真実の自己』という名著があります。京都大学の心理学の世界的権威、佐藤幸治教授(1905-1971)はこの本を読んで感動し、徹夜で読み通し、その内容を国際心理学会の雑誌『プシュコロギア』psychologiaに紹介し全世界にお広めになりました。先生に紹介した一学生にすぎなかった私の名までこの雑誌に公表して頂いたこともなつかしい思い出となっています。

またこの真実の自己の展開は田中木叉上人のお歌の中にもみることができます。たとえば、

  すきとおり尽十方はただ光
      是れぞ我かもこれ心かも

(慈悲の華つみ歌)

ここで我、そして心とは根源的主体性そのものに他なりません。それは阿弥陀仏と同体の我のことなのであります。

そのことは弁栄聖者の次のようなお歌からもうかがうことができます。すなわち、

  我れというは絶対無限の大我なる
      無量光寿の如来なり

(『道詠集』一八六頁)

近代ヨーロッパにおいても人間的主体性の問題は随分と論究されてきましたが、まさにかかる念仏の法門において完成するにいたっていることが考えられます。

このような人間の根源的主体性の問題は大乗仏教では仏性、如来蔵の思想として展開されてきました。とくにインドの大乗仏教においてもある程度発展して中期(第2期)の段階において豊かに展開がみられるようになります。その典型はたとえば、『華厳経』(旧訳六十巻本)における次のごとき文、すなわち、

彼の三千大千世界に等しき経巻は、一微塵の中に在り。一切の微塵も亦また是の如し。……如来は一切衆生を観察したまい、是の如きの言を作したまわく。「奇なるかな、奇なるかな、云何ぞ如来の具足せる智慧は(衆生の)身中に在りて、しかも知見せざる。我当にかの衆生を教えて聖道を覚悟せしめ……具に、如来の智慧(衆生)の身内に在りて、仏と異なることなきを見らしめん」と。

(「如来性起品」『大正大蔵経』第九巻  六二四頁上)

右の文において「一微塵の中に三千大千世界に等しき経巻が在る」とは如来の大智慧がそのまま一微塵ともいえる私たち衆生の中に充満していることを喩えているのであり、如来の智慧が衆生の身中に具わっていることを説いているのであります。このような思想は仏性論、あるいは如来蔵思想として展開されてゆきます。

「捨此往彼 蓮華化生」だけを見ているとかかる仏性、如来蔵思想は明確にはみえてきませんが、往生浄土は真実にはかかる真実の自己の積極的展開が考えられるのであります。

キリスト教の世界では創造神と、神によって創造された被造物たる人間との対立が抜き難いものがあるのですが、それにもかかわらず、たとえばヨーロッパ・ルネッサンス期に登場したニコラウス・クザーヌス(1401-1464)のごとき偉大なる宗教的天才において神と人間との関係を「縮限」contractioという概念において捉えようとしています。たとえば彼の初期の主著である『知ある無知』De docta ignorantia(第2巻 第4章)において、

われわれは、まず第一に、絶対最大なるもの(神)が……個物のうちに存在するということを知る。……縮限とは普遍(神)がたとえば、このものとして存在するにいたるとかあのものとして存在するにいたるとかいうように、ある特定の事物として存在するにいたることを意味する。それゆえ、一なるものであるところの神は……宇宙内の万物のうちに縮限されて存在するのである。

このようにクザーヌスにおける「縮限」の思想は『華厳経』における一微塵の中に三千大千世界の経巻が存していることを別の事ではないことが知られます。それはまさに大宇宙(神)すなわちマクロコスモスと小宇宙(人間)ミクロコスモスとの相関の関係そのものであります。

更にクザーヌスは神について包含と展開の関係で論述しています。すなわち同じく『知ある無知』の第2巻(第3章)において、

すなわちどのようであるかは知らないが、神が万物の包含complicatioであり、展開explicatioである。包含であるかぎりにおいて神のうちに存在する万物は神自身であり、展開であるかぎりにおいて……万物のうちに存在する神は「それらがそれらであるところのものである」ということだけは知っている。

と述べています。ここで包含とは万物をみずからのうちに包含していることを意味し、展開とは神によって包含されている万物の一々がそれらみずからの内に神を内蔵しており、それを開発し展開してゆくことを意味しています。すなわち神によって包まれている万物の一つ一つのすべて内にかえって神が宿されているのであります。

このような思想は実にそのままが大乗仏教においても見事に展開されています。

古来、如来蔵については三義あり、一に能蔵の義、二に所蔵の義、三に隠覆の義として展開されてきました。一の能蔵の義とは個物の一々に如来が蔵されていることを意味し、二の所蔵の義とはその個物のうちに蔵せられている如来が逆に個物を包含し蔵しているというのです。そしてこの一と二は、そのままクザーヌスの展開と包含を意味しています。そして如来に包まれることによって、包まれている個物の中から如来が展開されてゆくのであります。なお三義のうちの第三は隠覆の義といって如来が私のうちに隠されていて気づかない状況です。そうではあっても信仰において如来の包含が現実的となり、私たちの内なる如来が顕在化し、開発されてゆくのであります。それら三つの構造は弁栄聖者における如来様と私との関係そのものであります。

私たちも如来様の中に包まれていることを自覚し念仏することによって私たちの内に隠覆している如来蔵(仏性、霊性)が開発せられ、展開せられてゆくのであります。

かつて山本空外上人がニコラウス・クザーヌスはキリスト教における光明主義者であると述べられたことがありますが、まさにむべなるかなであります。

今や東西の宗教が出遇いつつある時代となりましたが、宇宙を通じて宗教的真理は一つであり、そのリアリティに異なるところはありません。弁栄聖者に触れられていた真理が実はそのままクザーヌスにおいて展開されていたことが知られるのであり、まさにそこに東西の対立を超えて一なる世界が展望されてゆくのであります。このようにして根源(阿弥陀仏)に還ることにおいて限りなき根源的自己の展開があるのであります。

(つづく)

カテゴリー: 上首法話, 月刊誌「ひかり」, 法話

弁栄聖者の俤(おもかげ)34

中井常次郎著『乳房のひととせ』上巻より その3〈つづき〉

◯乞食犬の話
飼犬と乞食犬とは、食物を求める時の作法がちがう事になっていた。ある時、乞食犬が片脚を外に、片脚を家の内に入れて物乞いをした。かくの如く、乞食犬が作法を守っているのに、家の主人は犬を打った。犬は大層怒った。法によって物を乞うにも拘らず、人間でありながら、吾を打つとは無法であるとて、役所へ訴え出た。そして彼を町の頭にしてくれるように頼んだ。なぜかというに、彼は必ず自分勝手な悪い事をするにちがい無い。そうすれば、地獄におちるであろう。私は彼ほど悪くは無かったが、今犬になっていると語った。

◯山中鹿之助の一番鎗の話
山中鹿之助は南無八幡大菩薩と称えて、一番鎗を入れたそうだが、後には南無八幡大菩薩ではいけない、南無阿弥陀仏でなければならぬと知ったそうである。(私【中井常次郎】には長らくこの味が解らなかった。しかるにお念仏を相続したお蔭か、その後十年にして、まことに、その通りだと有難く思われるように成った。解脱の相である。)

◯助かる心について
真宗の助かるは、救我である。罪におちるのを助けて頂く事である。川に落ちて溺れんとする児を助ける様な救いである。真の助け給えは、捨児を拾い、養育して立派な人間に仕上げる事である。罪に亡ぶる者を霊に活かし、今より永遠に、如来の光明中に活き働かしめる事である。生きるには食べねばならぬ。肉体は団食(捕食ともいって、食物を手でつかんで食べる事)する必要がある。心は霊の糧を食わねばならぬ。

キリストはいった「人はパンのみにて生くるに非ず。聖書は心の糧なり」と。如来は吾等に心の糧を与えて下さる。われらの心はその糧を食べて永遠に活きる。生まれたからには、度々食べねばならぬ。念仏は心の糧である。これには法喜禅悦という味がある。平生何となく心が豊かで、やわらぎあるは法喜である。禅悦は念仏三昧中に与えられる霊感である。信仰が健全ならば、念仏生活にこの味わい即ち覚えがある。肉体を養う食物について、やせているのに、食べてもおいしくないのは、消化器が悪いのである。念仏しても味わいを感ぜぬならば、不健全な信仰と思わねばならぬ。ただし母の胎内にある間は、食えども味わいを知らぬ。赤子も同様である。少しく物心つけば、食物に味わいを覚える。念仏も初めは無理にさせられるから、甘味が無い。真の信仰ができると甘味を感ずるようになる。

一度助かったならば、もう念仏はいらぬというのでない。生きていると新陳代謝の働きがあるから、たえず念仏を申して信仰を育てねばならぬ。断食は苦しいものだ。それと等しく、断念仏は堪えられぬ。毎日霊の糧を食べねばならぬ。念仏の必要が無いというのは、信仰が死んでいるしるしである。極楽では今のように念仏の必要は無いかも知れぬが、今は煩悩多き故に、それに捕われぬため念仏を忘れてはならぬ。この恐るべき悪魔に気付かば、すぐ念仏して如来に相談する事です。自分ひとり考え込んではならぬ。暗くなればランプをつけなさい。ランプに眼を向けよ。光明に背を向け、頭を垂れて、ひとり思いに沈めばなお暗くなる。

信仰に智的信仰あり、情的信仰あり、意志的信仰あり。人間には汚れに染みやすい弱点がある。悪しきものを見た時に起こる瞬間的の汚れを除くのが、感覚的信仰による。深入りして習慣となった酒や煙草の如きは感情的信仰によって除かれる。

採集したままのダイヤモンドには光がない。これを磨いて珠とせねばならぬ。人の心も清浄光によりて六根清浄の珠とせられる。

大乗仏教は人間を五位に分かつ。人、天、声聞、縁覚、仏乗の五つとする。肉眼清浄は人間界、天眼清浄は天上界、慧眼清浄は声聞 縁覚界、法眼清浄は菩薩界、仏眼清浄は仏界である。五官の内、眼の外の耳鼻舌身についても同様である。人間の肉の五官は機械的であるが、天眼は神通感応により、肉眼を用いずして自然界が見える。肉眼、天眼等は自然界の色声香味触を感ずる。二乗の慧眼は超感覚界、宇宙全体何もなく、精神のみあり。法眼は自然界を超越して、霊妙な感覚世界を感ずる。慧眼は智慧の世界を見る。仏眼は慧眼と法眼とを統一した境界を見る。一微塵中に一切万物の世界が映っている。天の星が吾々の眼に映るように。一切が一つ入る。また、天に一月あって影万水に宿る。一が一切に入る。

〈つづく〉

カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」

ひかり2013年09月号

ひかり誌2013年09月号表紙

ひかり誌2013年09月号表紙

弁栄聖者 今月の御道詠

さびしくば 御名をとなへて なぐさめよ
 唐沢山の 秋の夕暮

『ミオヤの光』巻一

コンテンツ

05 光明会各会所年間行事
06 聖者の俤(おもかげ)其三十三 中井 常次郎
08 根源(アルケー)に還る その3 河波 定昌
11 感動説話「光に遇う」 明千山人
12 子供といっしょに学びましょう 43
14 光り輝く淨土への道76  山上 光俊
18 能生法話「第一線」 辻本 光信
19 図書案内
20 お袖をつかんで 吉水 岳彦
   「第十六歩 信仰を異にする人にも」
22 仏力と易行ということ その4 佐々木 有一
26 ひかりの輪 光明学園
  「3学年総合コース オーストラリア修学旅行」
31 山崎弁栄記念館開館のお知らせ
32 聖者の霊筆 その11
34 写仏のすすめ
36 支部だより
42 特別会員及び賛助会員のお願い
43 財団レポート・清納報告・こちらひかり編集室

カテゴリー: 「ひかり」目次, 月刊誌「ひかり」

仏力と易行ということ ─無礙光の序説として─  その4

関東支部会員 佐々木 有一

四、仏力とは

仏と衆生とは、少なくとも仏教の初期においては両者は懸絶した関係にあると考えられ、仏とは不思議、不可思議の存在として仰ぎみられるものでした。人は仏(の教説)に導かれるもので、みずからはとても仏にはなれず、せめて声聞・縁覚を目指して自己の解脱を求める小乗仏教の時代です。仏の尊貴と畏敬を「仏(如来)の十号」をもって讃歎し、その徳と能力とは十力その他の「十八不共仏法」という仏特有の特徴として表現されました。

如来の十号とは如来(真理の体現者)、応供(阿羅漢)、正遍知(正等覚者)、明行足(知と行とを兼備する者)、善逝(幸福を得た人)、世間解(世間のことを知悉している者)、無上士(最上の人間)、調御丈夫(人間を調教する者)、天人師(神々と人間との教師、人天の大導師)、仏・世尊という十の称号です(高崎直道『仏教入門』)。もともとはお釈迦様への敬称として生まれましたが次第に他の仏格にも使われるようになります。たとえば法華経では日月灯明如来に対してこの十号がすべて用いられています。

「不共」とは仏だけに特有で人間など衆生とは共有しないという意味です。一般には十八か条の不共仏法で説明されます。仏は煎じつめれば智慧と慈悲の二つに帰着しますがそれを十八に開いて仏の徳と能力を讃め称えます。十力、四無畏、三念住、大悲の十八です。龍樹は飛行自在、変化無量、聞声自在などを加えて四十か条も列挙していますが(第21章から第23章まで)今は省略します。

龍樹の「仏力」は直接には仏の十力のことを指すとみられ、第二章の「入初地品」で十力を略説し、第23章で詳述すると共に次のように説き起こしています。

仏の十力とは、力は扶助に名づく。…十の名ありといえども実には一智なり。十事を縁ずるが故に名づけて十力と為す。仏智は一切の事を縁ずる故に、まさに無量の力あるべし。この十力をもって衆生を度するに足るゆえに、ただ十力を説く。

こうして初力から第十力までを説くのですが、その内容は一般にいわれるアビダルマの十力の説明を踏襲しているように思われますので、辞典(法蔵館『仏教学辞典』)から簡潔な解説を引いておきます。以下の解説にはすべて冒頭に「如実に」という言葉がかぶされています。

  1. すべての理と非理とを知る力(処非処智力)
  2. 三世の業とその報いとの因果関係を知る力(業異熟智力)
  3. すべての禅定や三昧の順次や浅深を知る力(静慮解脱等持等至智力)
  4. 衆生の能力や性質の勝劣などを知る力(根上下智力)
  5. 衆生の了解断定を知る力(種種勝解智力)
  6. 衆生の素性素質やその行為などを知る力(種種界智力)
  7. 人天などの諸々の世界に趣く行の因果を知る力(遍趣行智力)
  8. 過去世の種々の事を憶いだし知悉する力(宿住随念智力)
  9. 天眼をもって衆生の死生の時や未来生の善悪の世界を知る力(死生智力)
  10. みずからすべての煩悩が尽きて次の生存(後有)を受けないことを知り、また他のものが煩悩を断つのを誤らずに知る力(漏尽智力)

要するにこれらの十力の体は智慧で、仏が全智者であることを示しており、十の智慧のはたらきはさまたげられることはないのです。

四無畏とは仏が説法をするに際して次の四つの畏れをもたないことです。
一には自分は正等覚を得たもので現象界(苦の世界)のあらゆることを知っていると明言すること(正等覚無畏)。二には自分は煩悩をすべて断じていると明言すること(漏永尽無畏)。三には自分は煩悩について他に説き教えること(説障法無畏)。四には自分は弟子たちに出離の道を説き教えること(説出道無畏)、この四つです。かくして仏はゆるぎない自信をもって雄弁に獅子吼することができるとされます。このようなことの確認は、覚ってもいないのに覚ったと公言すれば「大妄語」となり「波羅夷」の罪に問われ教団を追放されるという、衆生における戒の定めを考えますと、十力自在の仏ならではの特徴を際立たせているようです。この四無畏は仏の徳性でありますが、よく似た発音に「施無畏」というのがあります。何ものにも畏れない力を与えることですが、仏像の印相にも「施無畏印」があります。阿弥陀仏などの仏像をみるとき、「定印」(坐像で両腕を膝の上に乗せて組む)、「説法印」(両腕を胸前に掲げる)とならんで「来迎印」があります。これは右手の臂から先を上に上げ、掌を外に向ける施無畏印と左手を下に下げる与願印との組み合わせで、ちょうど上品下生の形になります。この場合の施無畏はいうまでもなく仏から衆生に与えられる力です。そういえば菩薩の布施の修行にも無畏施がありました。

三念住も仏が説法をするに当り、次の三つの場合のいずれでも仏は正念正智の心に安住していることを示します。説法の聴き手が仏を信じてもとくに喜びの心を生じないし、逆に信じなくても憂えることもなく、ある人は信じある人は信じない場合でも仏は喜びも憂いも生じないということです(以上、主として中村元『仏教語大辞典』)。四無畏といい、三念住といいますのも、インド式綿密論法の一端をかいま見る思いがいたします。

大悲は仏が大智なればこその衆生への慈悲の心です。特定の対象への執着なき平等無差別、いわゆる無縁の慈悲であり、同体大悲の愛であります。

しかし時代と共に、自己の救済だけでなく他者への思い、眼差しが目覚めますと、衆生みずからも成仏して他者の幸せにはたらきかけ、慈悲の心を及ぼすことが願われるようになり、やがて大乗仏教が興起します。仏の力を受けてみずから成仏し、他者の救済に勤しむ思想の誕生です。大乗仏教は仏と人とのあいだを近づけることにもなったわけです。

大乗仏教はいくたの変遷を経て発達進展していきますが、その大きな流れがいうまでもなく浄土門の教えであります。いま仏の力として十力、四無畏などを一瞥しましたが、それがどのように浄土教の中に通入しているのでしょうか。

十力や四無畏といえば法然上人の「名号の功徳」を想起せざるをえません。少し脱線しますがそこに至る経路を振り返っておきたいと思います。法然上人が「偏依善導」と仰がれて、教学の根本に据えられた善導大師(613~681)の教えがあります。主著『観経疏』においてみずから「古今を楷定」(古今の説の誤りを訂正)するとまで踏み込んだ一点はおそらく「念声是一」の教義ではないかと思います。

望月信亨著『略述浄土教理史』などによれば世親(天親とも、インド、400~480頃、一説に320~400頃)の『往生論』では身業としての礼拝、口業としての讃歎、意業としての作願(止観の法としての止)と観察(止観の法としての観)、加えるに回向の五念門を立てていますが、やはり憶念、観相の念仏が本来のものと考えられています。讃歎のために阿弥陀仏の名を称えることがありますが、往生の行として称名することとは根本的に違うものです。しかし善導は新たに五種正行をたて(「観経散善義」上品上生段)、その中で「称名」を別出して、しかもこれをもっとも重んじて正行中の「正定之業」と位置づけ、他の「読誦・観察・礼拝・讃歎供養」の四種を助業と判じたのであります。無量寿経の第十八願の「乃至十念」の句を『往生礼讃』や『観念法門』で「下至十声」と置き換えており、さらに法然上人の浄土宗立教開宗の一文として知られる「一心専念弥陀名号…順彼仏願故」(「観経疏」同上」)の文も弥陀の名号を中心においています。

これらのことから善導は本願の十念を憶念とも観念(観相)とも解釈することなく、それは十声称仏のことであると明確に断定したことがわかります。望月博士は「善導が十声称仏こそ本願の行と見込まれたとき、そこに非常の信念と大なる力が起こった」のであると同感しておられます。観無量寿経の下品下生について説く、

汝もし念ずることあたわずんばまさに無量寿仏と称すべし。かくの如く至心に声をして絶えざらしめ十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に念々のなかに八十億劫の生死の罪を除く

が念声是一の教証であります。また、龍樹の易行品に称名を本願の行とする趣旨が明記されていることにも依拠していると考えられます。

このような念声是一へと進む浄土教発展の流れに立って、法然上人は選択本願の称名念仏を確立されたのであります(『選択集』三章段)。「念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり」としてその理由を、

名号はこれ万徳の帰するところなり。弥陀一仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の外用の功徳、皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂在せり。故に名号の功徳、最も勝とす

と確認します。念のためですがここに四智、三身とは大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の四智、法身・報身・応身の三身であることはいうまでもありません。

名号はいわゆる個々の功徳を並べる別相でなく、すべてを含む総相であると明かされました。その名号を称する念仏が最勝の行となるわけです。名号の総合性に着目するとき、名号は仏の功徳をあらわす最勝のものであり、またその故に称名はだれでもが実践できる最易の行でもあり、仏の前の万人平等を象徴することになるでしょう。

仏とはそもそも智慧の現われであり、その智慧から大悲が自発して智慈不可分であります。その故にこそ仏の力は総合的であり、その総合力が文字通り一点に集約されて衆生とのつながりを開くものが名号であるといわねばなりません。仏力は名号に尽くされているといっても過言ではないと思うのです。

弁栄聖者の光明主義はややもすると憶念主義、見仏主義とみなされがちでありますが、決してそのような面に偏ったものではありません。詳しくは拙稿「大ミオヤの発見――新しい公理をたてた弁栄聖者」にゆずりますが、いまは「弁栄聖者御垂示」としてしられる一文の骨子を掲げるにとどめます。この御垂示の始めに「唯絶対無限光寿」と本仏としての阿弥陀仏に呼びかけます。この点も弁栄聖者の教えの重要なポイントですが、今は措きます。

…弥陀の聖名を崇び 聖意を仰ぎ それに帰せんが為に 意に弥陀の身を憶念し 口に弥陀を称え 身に弥陀の行動を実現す…仏を念ずる外に仏に成る道ぞなし…

念声相俟って自利利他の菩薩道を期するもので、名号の力は光明主義においても法然上人の力説となんら変わることなく継承されています。法然上人が名号に籠められた阿弥陀仏の万徳を十二光に開いて浄土門を広開されたのが弁栄聖者といえるでしょう。念声是一を主張し称名を重んじられた善導大師も法然上人も、さらには弁栄聖者も共に、実には三昧発得の聖者であったことが重要です。称名念仏を恭敬・無余・無間・長時の四修の心で相続すれば、そこにおのずから弥陀の仏身を憶念する心がはたらき出すというのが真相ではないでしょうか。この辺のところはなかなかに微妙でありますが、念声相俟つ、これが真実ではないかと思います。憶念念仏が定善の観相念仏と異ならない三昧にいたることを経験的に実証されたこれらお三方が、入り口を示してやがて必ず深奥に進ませ至らせる大なる洞察と慈悲心によって、共に称名念仏の実修を宣揚督励せられたのではないかと思えてくるのです。あたかも龍樹が易行品を示して多くの衆生に済度の手を差しのべた如くに、であります。先に善導が十声の念仏を弥陀の本願の行と見込まれたとき、望月博士は、そこに「非常の信念と大なる力が起こった」と評されたことは、念声不二の微妙な雰囲気の確信と慈悲の心の双方を示唆されたといえるかもしれません。

(つづく)

カテゴリー: 佐々木有一氏, 月刊誌「ひかり」

夏休みと人生

みんな、夏休みの宿題、ちゃんと終わらせたかな?

僕が子供のころを思い出すと、こんな友だちがいたけれど、今も同じかな?

夏休みの終わるギリギリに、泣きながらがんばっていた人

計画をたて、ほぼその通りに宿題をこなし、充実した夏休みをすごしていた人

親に無理やりやらされていた人

友だちの宿題をうつしていた人

宿題をしなかった人

さて、きみはどれかな?

できれば計画的に宿題をこなして、たのしく充実した夏休みにしたかったよね。
子どもの夏休み

でも、これがなかなか難しいよね。ちゃんと計画的にできた人はすごいよ。そうでなかった人は来年こそは計画的に終わらせようね!

すこし大げさに聞こえるかもしれないけど、
きみの夏休みのすごし方がそのまま人生のすごし方
きみの時間の使い方がそのまま命の使い方

そういっていいと思う。

最後にあわてる人生か。イヤイヤすごす人生か。
ズルをする人生か。サボってばかりの人生か。

それよりも、目標を見つけ、がんばっている人生がいいよね。その方が、絶対に充実しているし、たのしい。
夏休みは何度かあるけれど、人生はたった一度っきり。夏休みみたいに失敗はできないよ。

ほとけさま、わたしたちが力強く道を歩めるように、どうかお育て導きくださいませ。

なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。
夏休みのお勉強

カテゴリー: 子供と一緒に, 月刊誌「ひかり」, 法話

根源(アルケー)に還る  その3

田中木叉上人の『心田田植歌』の中に、「ふるさと」と題して、

  いくよ流転の波まくら
    ゆられゆられていつまでか
  うきさすらいの旅の空
    ふるさと恋し親恋いし

の歌があります。「ふるさと恋いし」とあるようにお浄土の世界は私たちの還りゆく故郷であり、そこに在します阿弥陀仏は「親様」であることが詠われているのであります。従来の日本人の信仰であった「他界信仰」は決して単なる他界ではなく、私たちの本来の故郷なのであります。そこに新しい飛躍があります。

そしてそのような本来の故郷に還ることによって、私たちが決して他なる何か別の処へゆくのでなく、他でもないそこで実に私たちが私たち自身になってゆくことを強調されたのが山本空外上人でした。

この主体性の確立──そこには人間が自分自身ではない、いわゆる自己疎外の状況から自から自身を回復する、それはヨーロッパにおける哲学の根本的な課題でありました──は、私たち自身にとっても最大の関心事であります。すなわちお浄土に還ることによって私が私自身になる、本来の私自身を回復する、ということはまさに近代ヨーロッパにおいてもそうでしたが、それがまた何よりも私自身の問題なのでもあります。中世において基本的な特徴として考えられていた「捨彼往此 蓮華化生」の問題は改めて人間的主体性の問題として自覚されてゆかねばならぬ問題なのであります。

山本空外上人によるとヨーロッパにおいてこの主体性の概念が成立したのはプロティノス(204-369)においてであったことが述べられています。プロティノスの哲学は彼の弟子ポルフィリオスによって書き留められた『エンネアデスEnneades』 において展開されています。なお、エンネアデスとはギリシャ語の数詞九 エネアスeneasの複数形です。それ故、空外上人はエネアデス(通称エネアデス)を『九集』と訳されたりもしています。プロティノスの場合、九の論集 eneas が六に編集され、したがって九の複数六の集、即ち 9×6=54 の論集で構成されているのです。そしてその膨大な論集も大別して前期と後期に整理されてゆくのですが、──そのこと自体、極めて困難な作業を伴うものであったのですが──その中でもその第六部第九卷(Ⅵ―9と表示)は、プロティノスの後半のものと考えられますが、そこには、

一者(ト・ヘン)に還ることによって、私が私自身に還る

旨が繰り返し述べられています。空外上人によれば、プラトンやアリストテレス──それらをも空外上人はギリシャ語の原典で読んでこられた上のことでもあるのですが──においてもみられなかった主体性の問題がヨーロッパ哲学史上始めて登場したと述べられているのです。[※1]なお「エネアデス」のⅥ―9巻は以前、岩波書店から『善なるもの、一なるもの』として刊行されたことがあります。

空外上人におけるプロティノスの主体性の問題はそのまま「往生浄土」の問題と関わっているのであり、「往生浄土」が従来の現世からの逃避にとどまらず、人間の主体性の確立という積極的な展開を示すようになっていったのであります。かくて「根源に還る」こととしての往生浄土がどこまでも人間的主体性の展開として示されていった点で空外上人の哲学には東西両洋を包んでの全世界史上、測り知れない遠大の意義がこめられています。

なお、文頭の田中木叉上人の「流転」は六道輪廻[※2]のことですが、それは衆生が迷路に沈んで生まれ変わり生まれ代わっている様を示しています。それでも救済の可能性は残されているのであってキリスト教におけるような永遠の刑罰とは質を異にしています。キリスト教においては歴史の終末 eschaton において神の審判によって人間の行為が裁断され、墮罪の衆生は永遠の刑罰を受けるというのです。それに対して、仏教においては六道輪廻の衆生にもそれを貫いて阿弥陀仏の大慈悲が流れています。そのことはたとえば善導大師の『往生礼讃(日中礼讃)』の中の観音菩薩の讃偈にもみることができます。すなわち、

  観音菩薩大慈悲
  已得菩提捨不証
  一切五道内身中
  六時観察三輪応

浄土宗では、いつも唱える偈文です。訳は、「観音菩薩は大慈悲にまします。已に菩提を証すれども捨てて証せず。一切の五(六)道を身中に内れ、六時(つねに)観音菩薩は衆生を観察して、その身口意の三輪が衆生の三輪に応じたまう」。

ここで重要なのは「一切五道内身中」でしょう。「内」は名詞では「うち」で同体(大悲)、しかもそれが内に籠るのでなく、それが一切衆生に向かって開かれて(開かれた内)、同体化されて五道輪廻の衆生の苦しみがそのまま観音菩薩の苦しみ(すなわち同体大悲)となって六道輪廻の衆生を救済してゆくのであります。キリスト教的な終末論とは異なり、六道輪廻の衆生にも大慈悲が貫かれているのであります。そこには観音菩薩にも自他不二の実践、すなわち空の実践が貫かれている処から由来していることが考えられます。「衆生病むが故に我れ病む」(維摩居士の言葉)も同様であります。

なお、『華厳経』には「代受苦(代わって苦を受ける)」の言葉が頻出します。

かつて「神の痛みの神学」[※3]を提唱し、ドイツのキリスト教会に圧倒的ともいえる影響を及ぼした北森嘉蔵(京都学派、田辺元の弟子)と、あるシンポジウムの席でお会いした折、たまたまご一緒する機会がありました。その折、北森神学の核ともいえる「神の痛み」Schmerz Gottes ──衆生が苦しむ時、神も一緒にその苦しみを苦しむ──は、むしろ仏教の側からの思想ともいえるべきで、もともと聖書にもあった思想ですが、また東洋思想がキリスト教に与えた決定的なインパクトともいえます。それにしても『華厳経』が説く、「代受苦」の思想が何とキリスト自身に重なっていることでしょう。

神も人間と一緒に苦しむとは、まさに神自身の自己否定そのものに他なりません。このような神の自己否定はキリスト教ではケノーシスkenosisとよばれていますが、それは東西を超えたより高い次元に立って考えられるべきでしょう。

『礼拝儀』「至心に発願す」においても、「……外は怨親平等に同体大悲の愛を以て佗に対し得らるるように恩寵をたれ給え」の文がみられますが、かかる同体大悲の愛の実践を通して、私たちなりにキリストの、また観音菩薩の実践に連なり、またそれが空の実践(般若波羅蜜の実践)に、そしてアルケーへの実践に連なっていることが知られるのです。

(つづく)

  1. 近代においても人間の疎外 Entfremdung そしてその克服は最大の思想的課題でした。それはヘーゲル、フォイエルバッハ、そしてマルクス等にもみられます。そしてそれらはヨーロッパにおいても遂げられず、それが究極的に遂行せられてゆくのは念仏の実践においてなのであります。 []
  2. 六道とは、古くは五道でした。(たとえば六十巻本の旧訳の『華厳経』等)すなわち地獄、餓鬼、畜生、人間、天上で、それに修羅道が加わって六道となりました。そして衆生はこれら六道を輪廻するのであります。 []
  3. 北森嘉蔵『神の痛みの神学』一九四六年、講談社 []
カテゴリー: 上首法話, 月刊誌「ひかり」, 法話

弁栄聖者の俤(おもかげ)33

中井常次郎著『乳房のひととせ』上巻より(時々承った話を集む) その3

◯世界について
宇宙を神性(如来性)、世界性、衆生性の三つに分ける。神の本質は物心を超越した絶対の大霊体である。時間、空間を超越している。差別の娑婆から見れば、時間、空間の距てがある。物心一如の霊体には無尽の徳が内存する。

一切万物は宇宙精神即ち如来のあらわれである。けれども、物は神で無い。人の頭に色々の智慧を収めているのは、宇宙にその原因をなす本体が有るからである。人間の頭でさえ、実に複雑な働きをする。まして大宇宙一切を包む霊脳は、吾々が想像の及ばぬ処である。

物心一如の霊体を、凡夫は生死界と涅槃界との二面として見る。即ち自然界と心霊界として見ている。一切万物が生み出されて自然界をなす働きを、如来の生産門といい、衆生が次第に発達して、おおみおやの許へ引き取られる方面を摂取門という。理性により自然界の事がわかり、霊性により心霊界の事が解る。

◯三身の説
天にありて来れと招くは報身仏、地にありて行けと勧むるは応身仏である。

宇宙に終局目的あるかというに、生み出された人間は目的をつけるが、産む方には目的は無い。唯物論者は宇宙現象を機械的活動と見る。目的なしとする。唯心論者は宇宙に、世界と衆生とを生産し、本覚に帰らしむる目的ありという。弥陀の本願とは、宇宙現象の終局目的とする摂取の光明に、吾等が照らされ育まるる本然の理を、人格的に見、具体化して名付けたものである。故に本願は四十八ヶ条に限った事はない。

◯釈迦の出世
(授戒会の初日の午後のお話に、お釈迦様は何故、印度に生まれたかという事を説かれた。)

印度は昔から政治が淡泊で、宗教の育ちの良い土地である。それ故、地球世界の信仰の王様なるお釈迦様が生まれたとお経に出ている。この世界の始めから終りまでに、お釈迦様のような方が千人出られる。今から五十六億七千万年の後に、弥勒菩薩が出世される。

◯十二光仏の話
宗教哲学として無量光(体)、無辺光(相)、無礙光(用)を説く。これは宇宙論である。

宗教心理として清浄光、歓喜光、智慧光、不断光は我等の感覚、感情、智力、意志を霊化する働きを説く。生まれたままの人には汚れが有って、霊性が現れない。清浄光は人の心を珠の如く美しくする。恐れや悲しみを除くは歓喜光である。知見を開くのが智慧光、意志を強くし、善き行いのできる様にするのが不断光の働きである。我等は不完全なるが故に宗教の必要あり。

宗教倫理として、難思光は信仰の喚起位、初めの間は光明の経験なく、想像できぬが、至心不断に念仏すれば、信仰の花開き、その味は口に述べられぬから無称光といい、開発位である。超日月光は体現位であって、信仰がここに到れば、身口意の三業行住坐臥の四威儀が仏作仏行となる。

◯自然教について
人間には生まれながら宗教心あり、教えずとも幼稚な宗教を作る。それは雑草の如く、種を蒔かずして自然に生えるようなものである。その願う処は、肉体の幸福である。霊の実を結ぶ高等な信仰は、米を作るように育てねばならぬ。

◯信仰
仰信とは仰ぎ信ずる事。自分には理論や学説はわからぬけれども、覚者の教えを一向に信ずる事。

妄信とは人が参るから、自分も参ってよかろうという様なめくら信心。迷信とは真理にあらざる事を信ずるをいう。

◯山鬼の話
ある所に一匹の山鬼があった。大層よく働くが、ひまを与えるといけない。こんな売物が市場にあった。ある人がその山鬼を買って来て、ひっきり無しに仕事をさせていた。食物を与えないのに、よく働く。長年の間、このようにして使っていたが、ある時主人が忙しくて仕事をいいつけるのを忘れた。一寸ひまができた間に山鬼は主人の子供を殺した。

〈つづく〉

カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」