根源(アルケー)に還る  その3

田中木叉上人の『心田田植歌』の中に、「ふるさと」と題して、

  いくよ流転の波まくら
    ゆられゆられていつまでか
  うきさすらいの旅の空
    ふるさと恋し親恋いし

の歌があります。「ふるさと恋いし」とあるようにお浄土の世界は私たちの還りゆく故郷であり、そこに在します阿弥陀仏は「親様」であることが詠われているのであります。従来の日本人の信仰であった「他界信仰」は決して単なる他界ではなく、私たちの本来の故郷なのであります。そこに新しい飛躍があります。

そしてそのような本来の故郷に還ることによって、私たちが決して他なる何か別の処へゆくのでなく、他でもないそこで実に私たちが私たち自身になってゆくことを強調されたのが山本空外上人でした。

この主体性の確立──そこには人間が自分自身ではない、いわゆる自己疎外の状況から自から自身を回復する、それはヨーロッパにおける哲学の根本的な課題でありました──は、私たち自身にとっても最大の関心事であります。すなわちお浄土に還ることによって私が私自身になる、本来の私自身を回復する、ということはまさに近代ヨーロッパにおいてもそうでしたが、それがまた何よりも私自身の問題なのでもあります。中世において基本的な特徴として考えられていた「捨彼往此 蓮華化生」の問題は改めて人間的主体性の問題として自覚されてゆかねばならぬ問題なのであります。

山本空外上人によるとヨーロッパにおいてこの主体性の概念が成立したのはプロティノス(204-369)においてであったことが述べられています。プロティノスの哲学は彼の弟子ポルフィリオスによって書き留められた『エンネアデスEnneades』 において展開されています。なお、エンネアデスとはギリシャ語の数詞九 エネアスeneasの複数形です。それ故、空外上人はエネアデス(通称エネアデス)を『九集』と訳されたりもしています。プロティノスの場合、九の論集 eneas が六に編集され、したがって九の複数六の集、即ち 9×6=54 の論集で構成されているのです。そしてその膨大な論集も大別して前期と後期に整理されてゆくのですが、──そのこと自体、極めて困難な作業を伴うものであったのですが──その中でもその第六部第九卷(Ⅵ―9と表示)は、プロティノスの後半のものと考えられますが、そこには、

一者(ト・ヘン)に還ることによって、私が私自身に還る

旨が繰り返し述べられています。空外上人によれば、プラトンやアリストテレス──それらをも空外上人はギリシャ語の原典で読んでこられた上のことでもあるのですが──においてもみられなかった主体性の問題がヨーロッパ哲学史上始めて登場したと述べられているのです。[※1]なお「エネアデス」のⅥ―9巻は以前、岩波書店から『善なるもの、一なるもの』として刊行されたことがあります。

空外上人におけるプロティノスの主体性の問題はそのまま「往生浄土」の問題と関わっているのであり、「往生浄土」が従来の現世からの逃避にとどまらず、人間の主体性の確立という積極的な展開を示すようになっていったのであります。かくて「根源に還る」こととしての往生浄土がどこまでも人間的主体性の展開として示されていった点で空外上人の哲学には東西両洋を包んでの全世界史上、測り知れない遠大の意義がこめられています。

なお、文頭の田中木叉上人の「流転」は六道輪廻[※2]のことですが、それは衆生が迷路に沈んで生まれ変わり生まれ代わっている様を示しています。それでも救済の可能性は残されているのであってキリスト教におけるような永遠の刑罰とは質を異にしています。キリスト教においては歴史の終末 eschaton において神の審判によって人間の行為が裁断され、墮罪の衆生は永遠の刑罰を受けるというのです。それに対して、仏教においては六道輪廻の衆生にもそれを貫いて阿弥陀仏の大慈悲が流れています。そのことはたとえば善導大師の『往生礼讃(日中礼讃)』の中の観音菩薩の讃偈にもみることができます。すなわち、

  観音菩薩大慈悲
  已得菩提捨不証
  一切五道内身中
  六時観察三輪応

浄土宗では、いつも唱える偈文です。訳は、「観音菩薩は大慈悲にまします。已に菩提を証すれども捨てて証せず。一切の五(六)道を身中に内れ、六時(つねに)観音菩薩は衆生を観察して、その身口意の三輪が衆生の三輪に応じたまう」。

ここで重要なのは「一切五道内身中」でしょう。「内」は名詞では「うち」で同体(大悲)、しかもそれが内に籠るのでなく、それが一切衆生に向かって開かれて(開かれた内)、同体化されて五道輪廻の衆生の苦しみがそのまま観音菩薩の苦しみ(すなわち同体大悲)となって六道輪廻の衆生を救済してゆくのであります。キリスト教的な終末論とは異なり、六道輪廻の衆生にも大慈悲が貫かれているのであります。そこには観音菩薩にも自他不二の実践、すなわち空の実践が貫かれている処から由来していることが考えられます。「衆生病むが故に我れ病む」(維摩居士の言葉)も同様であります。

なお、『華厳経』には「代受苦(代わって苦を受ける)」の言葉が頻出します。

かつて「神の痛みの神学」[※3]を提唱し、ドイツのキリスト教会に圧倒的ともいえる影響を及ぼした北森嘉蔵(京都学派、田辺元の弟子)と、あるシンポジウムの席でお会いした折、たまたまご一緒する機会がありました。その折、北森神学の核ともいえる「神の痛み」Schmerz Gottes ──衆生が苦しむ時、神も一緒にその苦しみを苦しむ──は、むしろ仏教の側からの思想ともいえるべきで、もともと聖書にもあった思想ですが、また東洋思想がキリスト教に与えた決定的なインパクトともいえます。それにしても『華厳経』が説く、「代受苦」の思想が何とキリスト自身に重なっていることでしょう。

神も人間と一緒に苦しむとは、まさに神自身の自己否定そのものに他なりません。このような神の自己否定はキリスト教ではケノーシスkenosisとよばれていますが、それは東西を超えたより高い次元に立って考えられるべきでしょう。

『礼拝儀』「至心に発願す」においても、「……外は怨親平等に同体大悲の愛を以て佗に対し得らるるように恩寵をたれ給え」の文がみられますが、かかる同体大悲の愛の実践を通して、私たちなりにキリストの、また観音菩薩の実践に連なり、またそれが空の実践(般若波羅蜜の実践)に、そしてアルケーへの実践に連なっていることが知られるのです。

(つづく)

  1. 近代においても人間の疎外 Entfremdung そしてその克服は最大の思想的課題でした。それはヘーゲル、フォイエルバッハ、そしてマルクス等にもみられます。そしてそれらはヨーロッパにおいても遂げられず、それが究極的に遂行せられてゆくのは念仏の実践においてなのであります。 []
  2. 六道とは、古くは五道でした。(たとえば六十巻本の旧訳の『華厳経』等)すなわち地獄、餓鬼、畜生、人間、天上で、それに修羅道が加わって六道となりました。そして衆生はこれら六道を輪廻するのであります。 []
  3. 北森嘉蔵『神の痛みの神学』一九四六年、講談社 []
カテゴリー: 上首法話, 月刊誌「ひかり」, 法話

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