弁栄聖者の俤(おもかげ)33

中井常次郎著『乳房のひととせ』上巻より(時々承った話を集む) その3

◯世界について
宇宙を神性(如来性)、世界性、衆生性の三つに分ける。神の本質は物心を超越した絶対の大霊体である。時間、空間を超越している。差別の娑婆から見れば、時間、空間の距てがある。物心一如の霊体には無尽の徳が内存する。

一切万物は宇宙精神即ち如来のあらわれである。けれども、物は神で無い。人の頭に色々の智慧を収めているのは、宇宙にその原因をなす本体が有るからである。人間の頭でさえ、実に複雑な働きをする。まして大宇宙一切を包む霊脳は、吾々が想像の及ばぬ処である。

物心一如の霊体を、凡夫は生死界と涅槃界との二面として見る。即ち自然界と心霊界として見ている。一切万物が生み出されて自然界をなす働きを、如来の生産門といい、衆生が次第に発達して、おおみおやの許へ引き取られる方面を摂取門という。理性により自然界の事がわかり、霊性により心霊界の事が解る。

◯三身の説
天にありて来れと招くは報身仏、地にありて行けと勧むるは応身仏である。

宇宙に終局目的あるかというに、生み出された人間は目的をつけるが、産む方には目的は無い。唯物論者は宇宙現象を機械的活動と見る。目的なしとする。唯心論者は宇宙に、世界と衆生とを生産し、本覚に帰らしむる目的ありという。弥陀の本願とは、宇宙現象の終局目的とする摂取の光明に、吾等が照らされ育まるる本然の理を、人格的に見、具体化して名付けたものである。故に本願は四十八ヶ条に限った事はない。

◯釈迦の出世
(授戒会の初日の午後のお話に、お釈迦様は何故、印度に生まれたかという事を説かれた。)

印度は昔から政治が淡泊で、宗教の育ちの良い土地である。それ故、地球世界の信仰の王様なるお釈迦様が生まれたとお経に出ている。この世界の始めから終りまでに、お釈迦様のような方が千人出られる。今から五十六億七千万年の後に、弥勒菩薩が出世される。

◯十二光仏の話
宗教哲学として無量光(体)、無辺光(相)、無礙光(用)を説く。これは宇宙論である。

宗教心理として清浄光、歓喜光、智慧光、不断光は我等の感覚、感情、智力、意志を霊化する働きを説く。生まれたままの人には汚れが有って、霊性が現れない。清浄光は人の心を珠の如く美しくする。恐れや悲しみを除くは歓喜光である。知見を開くのが智慧光、意志を強くし、善き行いのできる様にするのが不断光の働きである。我等は不完全なるが故に宗教の必要あり。

宗教倫理として、難思光は信仰の喚起位、初めの間は光明の経験なく、想像できぬが、至心不断に念仏すれば、信仰の花開き、その味は口に述べられぬから無称光といい、開発位である。超日月光は体現位であって、信仰がここに到れば、身口意の三業行住坐臥の四威儀が仏作仏行となる。

◯自然教について
人間には生まれながら宗教心あり、教えずとも幼稚な宗教を作る。それは雑草の如く、種を蒔かずして自然に生えるようなものである。その願う処は、肉体の幸福である。霊の実を結ぶ高等な信仰は、米を作るように育てねばならぬ。

◯信仰
仰信とは仰ぎ信ずる事。自分には理論や学説はわからぬけれども、覚者の教えを一向に信ずる事。

妄信とは人が参るから、自分も参ってよかろうという様なめくら信心。迷信とは真理にあらざる事を信ずるをいう。

◯山鬼の話
ある所に一匹の山鬼があった。大層よく働くが、ひまを与えるといけない。こんな売物が市場にあった。ある人がその山鬼を買って来て、ひっきり無しに仕事をさせていた。食物を与えないのに、よく働く。長年の間、このようにして使っていたが、ある時主人が忙しくて仕事をいいつけるのを忘れた。一寸ひまができた間に山鬼は主人の子供を殺した。

〈つづく〉

カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」

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