心と脳の問題

心の脳の問題を考えるにあたり重要であることは
「脳によって心が生じる」という言葉の意味するところです。
仏教においては、実は「脳」と「心」の関係ははっきりしていませんが、
仮に縁起思想によって解釈すれば、
「脳にって心が生じる」としても仏教者として違和感はありません。

しかし、「心は脳機能に還元される」という意味で、「脳によって心が生じる」という言葉がつかわれている場合は、
やはり違和感があり、これは場合によっては間違っていると思います。

場合によってはとしたのは、たとえば

大多数の生理学者は物事を説明するにあたりさらに還元法 reduction 1という研究方法を追加する。

カールソン神経科学テキスト 脳と心 第3版 p.10

にみられるように、科学というものは還元法によってものごとを説明し、大きな成果をあげているということです。
ですから、還元法という方法論が間違っているとは私は思いません。
しかし、やはり還元法によっては、還元されることによって見失われてしまうものがあることに注意しなければならないと思います。
私たちは、夢をみる時、または架空の生物を想像するとき、実際の外界によらずそのようなものが意識されうると錯覚しがちです。
しかし夢も、想像された架空の生物も、すべて外界から取り入れられた情報(の記憶)によって起こっているものではないでしょうか?
しかし、私はだから心は死後も続いていくのだというような事を主張したいのではありません2。事実、盲視 blindsight 3や分離脳4の研究からさまざまな事がわかってきています。
たとえば、盲視に関していえば、

盲視の現象は、意識に結びつくことが脳のすべての部位での一般的性質ではないことを示唆している。

カールソン神経科学テキスト 脳と心 第3版 p.5

ということが明らかになってきていますし、分離脳の研究で衝撃的であった事は、

ある心理学者は、分離脳の男性が一方の手で妻をたたこうとしながら、一方の手でかばおうとしていたと報告している。

カールソン神経科学テキスト 脳と心 第3版 p.6

という事です。
つまりこれは左右の脳をつないでいる脳梁が切断されることによって、左右の脳にそれぞれ異なる心の状態が同時に生じることを示唆しています。
このような事例を見れば、心のすべては脳機能によって還元され、人は死んだら終わりと考えるのも無理はないような気がします。
しかし、先に考察したとおり、このような考えに陥るのは、そのつもりはなくても外界を無視してしまっている事に起因していると思います。
たとえば「外界」というものを無視せず、「脳」と「外界」に縁って意識が生じるとしたとき、そもそもその「縁って」というのは何なのでしょうか。
どうして「脳」と「外界」は「縁って」という関係性を持ちうるのでしょうか。
「脳」や「外界」がそれぞれ独立5した存在であれば、そもそも「縁って」という関係は持ちえないのではないでしょうか。

私は仏教が明らかにしたその「縁って」というあり方6に科学的方法論では還元できない不可思議な何かがあると思うのです。

  1. もう一方の説明方法として般化 generalization というものも紹介されている []
  2. 誤解を招かないように言うと死後も心の世界はつづいていくことなんてありえないとも主張しているわけでもない、どちらが正しいかは心の定義にもよる []
  3. これによって意識されない視覚があることが確認されている []
  4. 左右の脳をつないでいる脳梁が切断されている状態 []
  5. 他によらなく存在できるという意味で用いています []
  6. 龍樹『中論』等からすれば「あり方」と表現するのは誤りかもしれないが、ここでは簡潔にするためにそのように表現している []
カテゴリー: 勉強, 読書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*