ひかり2012年11月号

ひかり11月号表紙

ひかり11月号表紙

弁栄聖者 今月の御道詠

よろこびの 光のなかに 明けわたる
  けさのこころは のどけかりけり

『空外編 弁栄上人書簡集』

コンテンツ

05 光明会各会所年間行事
06 聖者の俤(おもかげ)其二十三 中井 常次郎
10 名号の不思議 その3 河波 定昌
13 感動説話「往生人」 明千山人
14 光明主義と今を生きる女性 祢次金 文子
16 子供と一緒に学びましょう 33 →ルビ付PDF
18 能生法話「慈しむ」 辻本 光信
19 光り輝く淨土への道66  山上 光俊
24 お袖をつかんで
「― 第六歩 月明かりのなかで ―」吉水 岳彦
26 大ミオヤの発見 その5 佐々木 有一
29 写仏のすすめNEW
32 ひかりの輪 光明学園
「体育科学コース海洋実習」 「第56回体育祭」
38 聖者の霊筆NEW
40 シリーズ会所探訪 光明学園の紹介
42 支部だより
45 図書案内
46 特別会員及び賛助会員のお願い
47 財団レポート、清納報告、こちらひかり編集室

カテゴリー: 「ひかり」目次, 月刊誌「ひかり」

お釈迦さまと農家との対話(2)

農家に、

「あなたが田を耕したり種をまいたりする姿を見たことはないぞ。いったいあなたの鋤(田をたがやす道具)はどこにあるんだ? あなたの牛はどこにいるんだ? またあなたはいったいどんな種をまいているんだ?」

耕しているのは何

そのように問い詰められているにも関わらず、お釈迦さまは堂々と平和な顔をしています。もしお釈迦さまがうそをついているのならばこんな安らかなお顔をしているはずはありません。そのお釈迦さまの姿から何かを察した農家も、いままで恐ろしい顔をしていましたが、だんだんと穏やかな顔になっていきました。そして農家は再度尋ねました。

「いったいあなたが耕すということはどういうことですか?」

先ほどまで、お釈迦さまとケンカをしているような様子だったこの農家は、今は先生に尋ねる生徒のようでした。

そこでお釈迦さまはしずかに語りはじめました。

「私が耕しているのは大地ではなく、人間の心である。智慧が鋤であり、信という種をまく。そして、悪い行為を制するのが草を取るということである。そして、私がひく牛は、精進という牛である。そしてすべての苦しみから自由となり、安らかな心を収穫するのである。」

農家の方に分かるように、お釈迦さまは仏教の本質をしっかり説いています。この説法後、この農家はお釈迦さまを師と仰ぐ在家の弟子となりました。

心を耕している

出典「耕田」(『相応部経典』七、十一。
『雑阿含経』四、十一)

カテゴリー: 子供と一緒に, 月刊誌「ひかり」, 法話

ウィトゲンシュタインの誤診 -『青色本』を掘り崩す 永井均著

誤解の余地はないと思うが、さらにダメ押しをしておくなら、この「他人が独我論的世界観を持つことは独我論に反する」という考えもまた、他人が持てば独我論に反する。そして、この構造はどこまでも反復し、どの段階であれ自他に共通の地平で収束することができない。ゆえに、そもそも独我論的主張というものは存在しえないことになる。およそ言語とは何らかの「共通の地平」を前提にしたときに成り立つ情報伝達の仕組みだからである。

p.100

体験がつねに現在のものであるなら、なぜ「つねに」そうであるといえるのか。ここには端的な現在でない現在への言及があるからである。

p.103

今日は、ウィトゲンシュタインの誤診 -『青色本』を掘り崩すを読みました。
浄土宗のの教えにとって『何が往生するのか』という問題は、特に現在においては重要な課題だと思われます。しかしながら永井先生のこの文章を拝読すると、通常の『共通言語地平に存在しない何か』があるということが重要になってきます。しかしながら、そのような問題は『共通言語地平に存在しない何か』という『言語』に絡めとられてしまいます。これらは言語の限界というよりも、言語を操る私たちの限界のように思われます。
 しかし私はそのような言語を超えた世界に、彼岸があるのではないかと、そのように感じています。

カテゴリー: 勉強, 読書

念仏生活の助け2

極楽を想像し阿弥陀様を慕いすること

私たちは、あれをすれば良い、これをしては駄目ということを分かっていても、実際には出来ないことが多いものです。お念仏だって例外ではありません。そのできない原因の一つがイメージ不足です。大願寺を開かれた鎮西上人は「念死念仏(死をイメージしてお念仏しなさい)」と言われています。
私たちはいずれ死にます。しかしよく考えてみれば、私たちは時々刻々と死を繰り返しています。数年前の自分はおろか一秒前の自分にすら戻ることが出来ないのです。私たちの世界(此岸)は常に死んで往く(往死)世界なのです。
それとは逆に、極楽世界(彼岸)は、そんなわたしたちが常に生きて往く(往生=彼岸)世界です。この世界での楽しかったことも、辛かったことも、あらゆる出来事が光り輝き喜びに変わってゆく世界です。そのような世界をイメージしてみて下さい。
そして阿弥陀様そのような素晴らしい世界に、皆様が方が往かれることを常に願い、お念仏をお称えする方々を守って下さっています。そのような阿弥陀様の御慈悲を思い、また想像で構わないので阿弥陀様をイメージしてお念仏してみて下さい。
たとえ本当のお姿が分からなくても、阿弥陀様は人それぞれにあわせてそのイメージに働きかけて下さいます。そうすると今まで遠くの存在でしかなかった阿弥陀様がとても身近に感じられ、少しずつですが、お念仏がでるようになってまいります。

カテゴリー: 大願寺, 大願寺だより, 檀信徒, 法話

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カテゴリー: イベント

お釈迦さまと農家との対話(1)

お釈迦さまが、インドのマガダ国という農業が盛んな国にいたときのお話です。お釈迦さまが手に鉢を持ち、家々をめぐり、食べ物をいただく托鉢という修行をしていました。

畑を耕す人

しかし、その時期はちょうど農家は、田を耕し、そして種をまく忙しい時期でした。そんな猫の手も借りたい大変な時に、穏やかな顔で托鉢をしているお釈迦様の姿を農家の一人が見て、近くによっていき声を荒げていいました。

「お坊さん、私達はこうして田を耕し、種をまいて食を得ているのだ。あなたもまた、自ら種をまいて、食を得たらどうだ」

怒る農家の人

そんな質問をされてしまいました。私達農家は額に汗してはたらいているのに、働かないで食事を得ようとして
いるお釈迦さまを問い詰めているのです。
そんな問いかけにお釈迦さまはさらりと答えていいました。

「その通りである。わたしもまた耕し、種をまき、そして収穫して食を得ています」

農家は自分の耳をうたがうような顔をしてさらに質問しました。

「だがお坊さん、私はあなたが田を耕したり種をまいたりする姿を見たことはないぞ。いったいあなたの鋤(田をたがやす道具)はどこにあるんだ。あなたの牛はどこにいるんだ。またあなたはいったいどんな種をまいているんだ。

つづく

カテゴリー: 子供と一緒に, 月刊誌「ひかり」, 法話

弁栄聖者の俤(おもかげ)22

中井常次郎著『乳房のひととせ』上巻より その1

はしがき
 弁栄上人に依って、みたま〈御霊〉の乳房を恵まれた自分は、西本願寺派の門徒、篤き信者の代々続く家庭に育てられた。父母が朝夕のみほとけへのおつとめに誘われ、としよりがする寺参りに連れられて、型ばかりながら仏縁は幼き間に結ばれた。
 家庭を離れ、中学校へ通いそめし〈初めた〉頃より、西方浄土の教えを疑うようになった。
 学びの進むに連れて、仏教とは、釈迦という聖人が、この世を安らかに過ごさせんが為に仕組まれた教えにて、地獄極楽は造りごとであろうとまで考えるようになった。
 自然科学の遊びが深まれば、深まるほど、浄土の実在はそらごととのみ思われ「人生は、はかなき夢なり」との思いがつのるばかりであった。
 今や科学の光は世を文化の真昼とした。されどなお底知れぬ心の闇を認めては、ひとり思いに沈まざるを得なかった。かかるさすらいの間にも、古き聖たちのみ教えを心の闇の空高く輝く明星と仰ぎ得て「宗教は阿片なり」とみくびり、肉欲我欲の淵に溺れ、あたら〈惜しむべき〉人生を棒にふるほども心の田地が荒らされていなかったのは幸である。
 自分は好んで宗教の本を読み、宗派をいわず教えを聞いた。そして自分に応しい信仰を求めていたが、まだ頼る何物をも獲ずして三十二の歳を迎えた。この秋、弁栄上人に遇う事をえて、次第に信仰を確立した。
 山の端に沈みかけたる夕日とも知らず、おさな児が諸共に聖き都への旅路を楽しみ、勇み戯れたまどい〈親しく集った時〉を、今思えば、なつかし、苦し、やるせなき惜しいひととせ〈聖者との約一年間〉であった。
 あくる大正九年の十二月四日、あわれ、我等が教えのみおやなる聖上人は雲がくれしました。
南葵無憂精舎に於て 中井常次郎
昭和八年十二月八日

◇初対面
 「弁栄上人という世に秀でたる出家あり。常に仏を見奉り、そのみ声を聞き、みむねのままに、西に東に念仏を勧めて暇なきお方なり。参詣せぬか。」
と誘われたけれども、仏とは死後の世界の救い主にて、今、我等人間に見える筈が無いといって、友の話に何の興味も覚えず、むしろ笑うべき迷信だとして取り合わなかった。けれども、かさねがさねの誘いに、ひじり〈聖〉とは、どんなお顔の持ち主かと、それが見たさに、大阪府下、三島郡豊川村の法蔵寺で、念仏三昧の導師をしておられた弁栄上人を訪ねる気になった。
 恒村さん御夫婦と共に京都を立ったのが、大正八年九月三十日の朝であった。大阪駅にて中川弘道和尚と落ち合い、四人連れで、箕面より秋の野道を語りながら歩んだ。
 寺に近づき、木魚の音が聞こえて来た時、困った処へ来たものだ、代々真宗の流れを汲む家の子と生まれ、他宗の行に加わるは、御開山〈親鸞〉上人にすまぬと、この時ばかりは逃げ帰りたくなった。けれども折角はるばる来たのだからと、兜の緒をしめ敵地に乗り込む心地して、寺の門をくぐった。
 上人のお室に通され、しばし待つほどに、本堂での木魚の音はやみ、三礼の声も静まれば、ほどなく襖を開けて上人は、入って来られた。
 頭を垂れて聖者に敬意を表していた自分は、上人のお顔を拝むことができなかったが、おくんのすそのさばきいとしとやかに我等の前にお坐りになったのを見ただけで、はや〈はやくも〉霊感に打たれた。
 恒村さんの問いに答えて、法を説く上人の御姿、何に譬えよう。三十余年、まだ一度も見た事の無いまごころのあふれ。
 心の親を訪れて幾代久しく〈どれだけ長い時間〉さまよったであろう我、今ここに親にめぐりあいし思いして、したたるうれし涙のしづく、ひざをうるおした。
 人は、すべて濃き薄きちがいこそあれ、鉄面皮〈恥知らず〉という皮をかぶり、自分勝手のふるまいをする。せめやそしりをはじくこの憎き皮のへだてが人の交りに障りする。けれども、今この御方は、生れたばかりの赤子のはだか、かやりたて〈生まれたて〉のトンボが、かよわき羽根を日に干しながら、そよ風にゆられる、すがすがしき感じ。わが思いの全分が受け入れられ、心と心がじかに触れ合う心地がした。しかも仰ぎ見れば、ゆるぎなき御人格は、雲にそびゆる富士の高嶺の国々にまたがる如く、どっしりとした感じを与えるのであった。
 友は何を尋ね、上人は何を説かれたか、その長い話が何であったかを気づかぬほど、自分はひとり思いにうっとりとしていた。
 上人はおひざを私の方に振り向けられて「中井さん、何か聞く事はありませんか」とお言葉をかけて下さった。けれども自分は聞くためで無く、見るために来たのだから「何もありません」と答えた。
 上人は「生きてまします仏様が‥‥‥。大宇宙そのままが‥‥‥。今現に、ここに在ます親様を‥‥‥」といって、座布団をあとにして仏身論をお説き下さった。また信仰と念仏の心について聞かせて下さった。それこそ自分は今まで聞きたいと願っていた信仰問題のおもな事柄であった。けれども、それらは今まで聞いた事のない新しい有難い説法であったから、たやすく受け入れ難く、大いに考えさせられた。
 本堂ではまた木魚の音と念仏の声が盛んになった。私共も上人に続いて三昧道場に入り、一座の御話を聞かせて頂いた。
 「卵の譬え」、「稲の譬え」、「べんとう〈弁当〉食べて」のお話など、まことにその通りだと感心した。
 お別れに臨み「今日は十分の時なく、満足を与える事ができず、お気の毒であった。また会う日を待たれよ。どうか心を宇宙と等しくする様に」といって、お十念を授けて下さった。
 黄金波打つ稲田の路をひとり思いに耽りながら、家路を急ぐ脚の歩みは軽かった。里を離れた街道でラッパを吹いたり、竹馬を曳いて遊ぶ男の子の四、五人に出遇った。一人が帽子を脱いで礼をすれば、ほかの友達も、それに傚いて礼をした。私を村の学校の先生と思ったのか。
 清き空気と澄める日の光に恵まれた村の子供等の健康を悦び、田舎人のやさしい心根をうれしく思った。
 この日、学校を休み、午前三時から、妻や女中に厄介をかけたが、上人に初対面を得たこの日こそ、永く忘れられない記念の日となった。

◇再会
 霊性は未だ醒めずして、理性に支配された自分は、年と共に宗教を信ずる事ができなくなった。けれども歴史に輝く大宗教家達の真剣味に惹きつけられ、熱烈なる信者達の行いに真実を認めては、宗教との縁がまだ結ばれていた。
 弁栄上人に初対面を得た時より一、二ヶ月前の事、私はある日縁側の柱にもたれて、『大無量寿経』を読みつつ「こがねの樹あり、しろがねの樹あり‥‥‥華も果もまたこがね、しろがね、くさぐさ〈種々〉の珍しき珠なり」 など極楽のよそおいを写せる文を見て、馬鹿らしくなり、側にいた妻に話しかけた。
 「お釈迦様も余程まがぬけておる。おとぎばなしならばまだしも、二十世紀の今日、誰がこんな事を信ずるものか。時勢を知らぬにも程がある。」
と悪口をいったものだ。
 その頃の私は釈尊を世界の三聖人の一人と認めていたけれども、仏と崇めることができなかった。だから私が釈迦の批評をすると、父は「勿体ない。地獄におちようぞ」といって、私と宗教の話をするのを避けられた。
 老いたる父が生きている間に、いつわりなく、お釈迦様は仏様だと、一言いいたいものだ。これが父への最大の孝行だと思っていた。
 それで、誰か釈迦のえらさを聞かせてくれる人はあるまいかと、常に良き師を求めていた。中川弘道師に会ったのを幸、「釈迦は仏陀なりや」と尋ねて見た。「然り〈そうである〉」と答えられたのはいうまでもない。「然らば〈そうであるならば〉、釈迦は知らざるなく〈知らないことはなく〉、能はざるなき〈不可能なことはない〉筈である。今もし数学、物理、化学や医学などに関し現代の大家と知識を競わば、何れにうちわが揚がる〈勝者〉であろうか」と問い返した。
 本山の名高い説教師、機関銃と称えられた能弁家も、これには口を開かなかった。問答は預かりとなった。師が九州への帰りがけに、広島で(真鍋師団長のお宅で、仏書をお書きになりつつ)御布教中の弁栄上人に、この事を告げ、私を済度してやって頂きたいと頼まれた事を後で聞いた。
 それがために、上人は十月二十一日(大正八年)に京都を通るから、一寸立ち寄るとのお知らせを下さった。
 われら京都の信者達は、その日を待ちこがれて上人をお迎え申した。
 これは私が上人への二度目のおめもじ〈お目にかかる機会〉であった。授業中、電話で、
 「ただ今上人はおつきになった。ちょっと立ち寄られたのだから、すぐ来る様に」
と知らされるや否や、私は休講を告げ、上人のみ許へと駆けつけた。そして道すがら考えた。
 上人は有難い方であるが、もし時代おくれの事をいうようならば、師匠と仰ぐ値打ちが無い。一つ試して見よう。それには、今日、学問上確定している事について聞いて見ることだ。何が良いか。西方浄土が良い。もし、文学通り、極楽は西に在るといわば、二の句をいわず、引き上げようと思った。それに対する上人のお答えは、こうであった

 「仏説は、どんな人でも信仰に入れるように、人に応じて、神話的に、歴史的に、感情的(救済的)に、論理的に実感的に説かれてある。それ故、誰でも自分に応わしい教えに依れば信仰に入る事ができます。
 西方浄土の説に就いても、お釈迦様の時代に、昔から西の方に結構な〈すばらしい〉世界があると言い伝えられていたから、西といったばかりで、人々は結構を思い浮かべるという有様であった。それで、お釈迦様が心眼をもって、いつも見ておられる浄土の結構を知らしめる為に、西方に浄土があるといって連想させたのである。極楽は西に限った事はない。仏眼を以て見れば、ここも浄土である。また法蔵菩薩が四十八願を発し、修行の結果、阿弥陀様になったというのは神話である。仏教にも神話が沢山ある。文字のままではいけない。経文の精神をとらねばならぬ。
 意識眠って一夜の夢、アラヤ眠って生死の夢。凡夫はアラヤ識という研かぬ珠で世界を見ている。アラヤの眠りから醒めると仏智となる。即ち覚者となる。吾々は仏と成る種を持っておる。それを育て、研き上ぐればよいのである。浄土は想像即実現の世界、思いのままになる処である。かくなるには、至心に念仏せねばなりません。」

と教えて下さった。何という驚くべき説法であろう。西方浄土の説といい、法蔵菩薩の神話説といい、自分は今まで、こんなすばらしい合理的な、新しい説を聞いた事がない。この方にこそ道を聞くべきだと、深く上人を信ずるようになった。
 汽車の時刻がせまって来た。それで、お釈迦様は仏だというお話を承らずに、お別れとなった。
 数人の信者と共に上人を京都駅に見送った。合掌恭礼の裡に、汽車は遠ざかり、一同は涙を流して、久しく〈長い時間〉立っていた。
(つづく)

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ひかり2012年10月号

ひかり10月号表紙

ひかり10月号表紙

弁栄聖者 今月の御道詠

ふみこえて こころ浄土に あそばずば
  世にやすかりし みちやなからん

『空外編 弁栄上人書簡集』

コンテンツ

05 光明会各会所年間行事
06 聖者の俤(おもかげ)其二十二 中井 常次郎
10 光明主義と今を生きる女性 山本 サチ子
12 子供と一緒に学びましょう 32 →ルビ付PDF
14 感動説話「末期の言葉」 明千山人
15 能生法話「時を経ても」 辻本 光信
16 光り輝く淨土への道65  山上 光俊
20 大ミオヤの発見 その4 佐々木 有一
27 ひかり購読のススメ
28 お袖をつかんで
  「―第五歩〝死の縁が思うようにならないからこそ〟―」吉水 岳彦
30 薬膳料理 大谷 明美
32 仏像ファッションと写仏 金田 隆栄
34 支部だより
40 掌木魚のご案内
41 図書案内
42 特別会員及び賛助会員のお願い
43 財団レポート、清納報告、こちらひかり編集室、山崎弁栄展図録ご案内

カテゴリー: 「ひかり」目次, 月刊誌「ひかり」

お彼岸法要を終えて

 毎年秋分の日に行われる彼岸会ですが、今年はうるう年の関係で22日になり、なんとこの日になるのは116年ぶりだそうです。
 昔から暑さ寒さも彼岸までと申しますが本当に涼しくなり、また台風の影響下で天候不順が続いていましたが、この日は快晴であり、青空の下、彼岸法要並びに地蔵まつりが執り行われました。


 朝早くから、軽トラックや作業着で護持会の役員の方々が来られ地蔵供養の設営をして頂きました。
午前10時30分より地蔵まつりが始まり、供養の前に浄土宗聖歌「今捧ぐ」そしてサンスクリット語の「三宝礼」を皆さんと歌いました。供養では通常の供養だけでなく1年間お地蔵様の横に絵馬を奉納し交通安全・安産供養等、諸祈願をする絵馬供養も行い、又初盆提灯の供養も行われました。
 昼食には前日から婦人会の方々が下ごしらえをした旬のものである栗御飯等が振る舞われ、感謝の念と共に頂きました。
受付では彼岸法要とは別に再来年に行う大願寺800年大法要の御寄附の受付もしており、いつもと勝手が違い、又対処が遅れ大変混雑しましたことをお詫び申し上げます。
 午後1時より彼岸法要、毎年この日は近隣の学校の運動会と重なる事が多いので参拝する方は少ないのではないかと思っておりましたが、たくさんの方が来られ用意した席もほぼ満席になり大変有り難いことでした。今回の法話は鞍手の種善寺住職である西徹空上人が念仏の功徳について約1時間お話をして下さいました。
 その後、副住職が彼岸の供養をしました。
最後に住職から再来年の800年大法要と合わせて晋山式を執り行う旨を少し説明され、彼岸法要は無事終了致しました。

カテゴリー: 大願寺, 檀信徒

怒っている人に

お釈迦さまが王舎城の近く、竹林精舎というところにいたときのこと。そこに、バラモン教の僧侶の男がやってきました。どうやら、その男の家族が、バラモン教を捨てて、仏教の僧侶になったことに腹をたてているようです。
その男がお釈迦さまの前に進み、顔をまっ赤にして怒り、ひどい言葉をたくさんいいました。

お釈迦様に怒る人
しばらく、お釈迦さまはその怒りの言葉を聞いていました。やがてその男が少し静まったとき、
「あなたの家に、お客さまがくることがありますか?」
と、お釈迦さまはおかしな質問をしました。
するとその男はふしぎそうな顔をして、
「もちろんだ!」と答えました。
さらにお釈迦さまは質問します。
「そのとき、客に食事を出すことはありますか?」
「もちろんだ!」
「では、客が何も食べずに帰ったとしたら、その食べ物はどうするのですか?」
「食べてもらえなければしかたがない。それは私が後で食べるだろう」
「今あなたは、私の前にいろいろな悪い言葉をならべました。しかし、私はそれを頂きません。だから、それはもう一度あなたのものになります。」
さらにお釈迦さまは、
「もし私があなたにののしられ、ののしり返したとしたら、それはあなたと一緒に食事をすることと同じです。わたしはあなたからのご馳走はいただかないよ」
そんな事をいわれた男はさらにふしぎそうな顔をしていいました。
「あなたは怒るということがないのですか?」
その質問に対してお釈迦さまは、
「怒っている人に、怒り返すのは悪いことです。反対に怒っている人に、怒り返さないものは二つの勝利が与えられます。他人が怒っているのを知って、正しく自らをしずめる者は、自分に勝ち、また他人にも勝るのです」
この対話の後、この男はお釈迦さまの魅力と教えに導かれ、弟子となり、尊い聖者になりました。 

おしまい

聖者になった弟子

カテゴリー: 子供と一緒に, 月刊誌「ひかり」, 法話