中井常次郎著『乳房のひととせ』上巻より その2
◇初夢
夢に俗夢と霊夢とある。意識眠って心が日頃親しめる境界に遊び、あさましき事、あるまじき事などを見るは俗夢にして、赤裸〈つつみかくしのない裸〉の自分を知る便となる。
自分はこのたび、良き師に廻り合いたれば、ことしこそ信仰の上に大きな獲物を得たいものだと、洋々たる希望を抱いて元旦の一日を過した。その夜の夢に、古郷の氏神の境内、馬場の駆け上がりの右側に立てる百尺(約三〇メートル)余りの松の樹の幹を這い上る大きな竜が、金色の鱗を夕日に輝かせ、梢より大空に向って、虹のように空高く泳いでいた。やがて、すらすらと小学校の庭におりて来た。村人達は恐れ、逃げ迷った。忽ち一人の仙人が現われて、竜の頭を押さえ、気合を入れて封じてしまった。見れば、尾に金の輪があり、尾の端が宝剣で終っている。頭より剣先まで二十七尺(約八メートル)あり。口より火を吐いていた。
翌る朝、この初夢物語をして、ことしは何か驚くべき事があるにちがいないといった。果たして〈思っていた通り〉空前絶後ともいうべき事が起った。
それより一ヶ月の後、上人に依って菩薩戒を受け、お剃刀をいただき、袈裟を授けられ、戒名を弁常とつけて頂いた。弁常とは弁栄上人の弁の字と私の俗名の常との組合せであって、名を聞いただけでは、臭い処に交えども、字をよく見れば、常恒の平和を弁える者という心にて、いとめでたい名であると有難く頂いている。
この授戒会の間に、自分は人生の帰趣を明らかにし、人と生れた歓びを知り、永遠の大道に出して頂いた。時の流れと共に、姿はいかに変るとも、作仏度生の念願に狂いを来たしてはならぬと勇みたった。
同じ大正九年の歳の暮れに、思いがけなくも、八十路までもとたのみし弁栄上人は雲がくれし給うた。
この二つは、わが生涯に於ける喜びと悲しみとの二大事件であった。初夢の、空しからざるお告げを知った。
◇横浜の念仏三昧会
横浜市久保山の光明寺で、一月二十一日より一週間、弁栄上人が御導師となり、京都百山〈百万遍知恩寺〉の中島僧正と土屋観道師とが御随喜の念仏三昧会が催された。
一月十三日の夜、私は光明会の友達と百山のお念仏会に参り、横浜で別時念仏のある事を聞き、自分も参加したいものだと思った。学校はあるけれども、信仰を確立させるは急務だ。明日をも知れぬ人の身である。今度の別時にはぜひ行こうと決心した。
教授達は陸軍の大演習がある時、授業を休み、その土地の富豪の邸宅に泊り込んで、見物に出かける。自分は生死解脱のため、心中の悪魔退治の実戦に行くのだ。演習ではない。真剣だ。遠慮はいらぬ。いざ行こうと学生を置き去りにして、二十日の夜行で横浜へと急いだ
時は世界的流感〈インフルエンザ〉の真最中であった。車中の多くはマスクをかけていた。自分も用意して行ったが、呼吸が苦しくて、それを使わなかった。
国府津〈神奈川県小田原市〉あたりの朝景色にも慰められたが、労れた身には、早くめざす横浜駅に下車したい思いであった。
釣鐘マント〈釣り鐘型の丈の長いマント〉をまとい、毛布と信玄袋とを肩に振りかたげ、道を問いつつ、やっと寺に辿り着いた。
光明寺は、すばらしく見はらしの良い高台に在る。木魚の音は勇ましく聞こえ、脚は自然に音をたよりに歩んで行った。
三昧道場は座敷の二階に設けられてある。その下の見晴しの良い室の縁側で、白い歯もあらわに笑顔の土屋上人に出会った。
「よく来られましたね」
と合掌の礼を以て迎えられた。初めて会った人達も、皆、なれなれしく言葉をかけてくれ、色々と面倒を見て下さった。全く大きな家庭の思いがした。信者の集まりは実に清らかだ。人中の白蓮華とは、よくいったものだと思った。
はるか西の方を眺むれば、雪を頂ける富士は霞の中に在り。南は遠く横須賀あたりまで見え、横浜の町は目の下に横たわっている。この世ながらの浄土かと、夢心地であった。
午後より道場に入った。内海さんが木魚を持ち来たり、終りまで場所を替えないで、これを打つようにと注意された。いよいよ木魚を打ち、念仏を始めた。これが木魚の打ち初めであり、正式に念仏三昧会に加わった初めである。ことでもまた、木魚を打っては、御開山〈中井家菩提寺浄土真宗の祖、親鸞聖人〉にすまぬという心苦さを感じた。けれども形に捕われてはならぬ。まことの信仰を得れば良いのだと思い定めて、一心不乱に念仏した。
町の人達も多くは泊り込んで念仏三昧を励まれた。毎朝三時半頃から起きて念仏を始める。夜は十一時頃まで弁栄上人のお室で、お話を聞いた。
食事は簡単で少量。まことに味わい宜しく、身も心も爽快である。内海さんは、食物の量を過さぬように、眠気が出るといけないからと、初心の吾々に注意して下さった。
第一日は何事も目新しく、よろこびの中に暮れた。二日目の午後三時頃、念仏中に電報が来た。
「父病気。すぐ行け」
と京都の自宅からである。意外だ! 京都を立つ時、父が病気だということを聞かなかった。危篤の知らせにちがいない。急がねばならぬ。もし、父が存命ならば、昨日から承ったお話を聞かせて、安らかに往生を遂げられるように、最後の孝行をしたいものだと念じた。
夕方五時半頃の下りに乗るつもりで、弁栄上人にお別れを告げると、玄関まで見送って下さった。門を出で、あとふり返れば、上人はまだ玄関に立ち、こちらを見守っていて下さった。合掌恭礼して去った。
日高心阿さんは私の荷物を分け持ち、横浜駅まで見送って下さった。日高さんは禅の修行を積んだ大居士である。最近、弁栄上人に帰依し、お念仏を申すようになった方である。
赤子に対する親心、幼き弟に対する兄の情。悟りの高下も、修行の深浅もへだてなく、此の時の事が、今に忘れられぬ懐かしい思い出である。
汽車は走る。
夜通し眠らずに、お念仏を申した。久保山での木魚の音が耳を離れない。
京都に下車し、宅に立ち寄り、すぐ帰郷した。
旅の労れも、時の流れも夢中にて道を急ぎ、父を見舞えば、その枕頭〈まくらもと〉に親しき人々集まり居て、声が無い。自分は室の入口で、病床に向い三礼し、静かに近づいた。
流感と丹毒〈皮膚の化膿性炎症〉とが重なり、しかも悪性の丹毒で、手術を受けたけれども重態であるとて、顔は腫れ、眼は塞がり、痛み甚だしく、熱が高いという。
東京、京都から弟共が帰った時、父は非常に喜び、眼は見えぬけれども、声を聞いて泣いたということであった。自分は別時の話を始めた。
朝から晩まで木魚をたたいて念仏を申した。そのため手の甲が、こんなに腫れ上ったといい、それから弁栄上人のお話を伝えようとした。
父の顔に不快の色が現われた。父と共に、真宗の信仰に固まれる兄は、この相を見て、私に向い
「他宗に走り、親を苦しめる不孝者」
と声を張り上げて怒った。
自分は考えた。たとえ親子兄弟の縁は断たれても、信仰の自由を縛られたく無い。
父の看護は人がする。悦ばれぬ所にいる必要はない、と心は再び横浜へ飛んだ。母のみは、我が悲しみを汲んでくれた。それからまた、横浜へ行くという自分を引きとめ、明日にせよといって、二階に床をのべ、旅の労れを休ませて下さった。
明くる二十四日の朝、危篤の父を遺し、昨日急ぎ上って来た亀の川の同じ堤を、吹雪に悩まされながら、物思いに沈み、涙拭きふき下った。
京都の宅に立ち寄り、また毛布と信玄袋とを振りかたげ、釣鐘マントにくるまって、上人のみ許へと急いだ。
今度は恒村さんも連れて車中の人となった。自分の前に、女教員らしい人が、大きな信玄袋を側に置き、二人分の席を占領していた。名古屋で乗込んだ四十五、六の太った男が彼の婦人の前に立ち、信玄袋を取り払ってくれといった。
女の人は、不平らしく「私は長旅をしているので、まだ眠らなければならぬ。あちらに席が空いている」といって、袋を下さなかった。男は意地になり、一人で二人分の席を占領して、太い事をいう奴だ、と言葉するどく攻め立てた。女は不平ながら、袋を下した。男は大きなおしりで、わざと婦人を押しつめた。
「あとから来て、この我がまま、あきれる」
といえば、男はその友に向って、
「このあまひどい奴だ。あちらに席がある、譲って貰え、だと虫の良い事をいう」と負けず言い争った。
自分はマントをかぶり、眠ったふりをして、初めからこの争いを聞いていた。自分も二人分の席を占めていたのだから、彼の男に、こちらへといえば、こんな事にならなかっただろうと思えば、心苦しくなり、起き上って、
「こちらへ、おかけになりませんか」
といえば、女の先生は私の側へ避難した。そして『勅修御伝』〈法然上人の伝記〉を拝読していた私に話しかけた。
「私は法然上人の母方の子孫だというおうちのお嬢様を教えた事がある縁故で、そのおうちと懇意で、増田という者です。」
それから、上人のお生れなされた村の事や、御生家の立派な事などを聞かせてくれた。自分も一度訪ねたいというと、汽車の中で増田に会ったといって下さらば、きっと喜んで案内してくれましょう。上人のおうちの子孫は今キリスト教の熱心な信者です。
もし法然上人が今お出世だとすれば、必ずクリスチャンとなっているにちがい無いといって、伝道に骨折って居られる、という事まで話された。今や吉水の浄き流れも名利の垢に汚され、ひかりいや増す聖の御末さえも、汲むにたえずして、人天の糧に飢えを凌ぐとは、法の道にも人の世の様見えて悲しい思いがした。
のどが渇いたから、お国自慢の紀州蜜柑を出して、恒村さん、増田さん、それから彼の男の人にも勧めた。
増田さんは信玄袋からうちむらさき〈柑橘系の果物〉を二つ取り出し、返礼として私共に分配してくれた。先刻まで敵であった男も、今は優しくなり「有難う」と増田さんに礼をいった。全く仲直りができた。この様を見て、二人は共に見上げた兄弟だと自分は嬉しかった。
世の人々も、かくあれば、うらみを後の世まで結び、対生〈対立した関係で生き〉して更にはげしく争う事なく、善き道連れとなり得るものをと思った。
明くる二十五日の朝、私等は増田さんと別れて横浜駅に下りた。
二日間、別時から離れたけれども、今日からまたその仲間入りができ、終日念仏と聞法の中に暮らした。そして夜は十二時頃まで土屋上人と話し合った。
二十六日の説教で、如来の威徳と大慈悲を聞かされ感極まり、涙止らず、今までは知らなかった、かくも忝き大み親が在したか、罪と汚れの自分でも至心に念仏せば、如来の光明に霊化され、家族や友達にまで信仰を別け得られるか。今からは「助け給え」という念仏は申さぬ。感謝の念仏である。報謝の生活である。浄土宗の信者のようにいつまでも「助け給え」と願うは、あつかま〈あつかましい〉だ。自分は矢張真宗の信者でありたいと喜んだ。この喜びを土屋上人に話すと「それは、まだ至らぬ考えです。大慈悲の光明に育てられ、如来の威徳を満月の如く受け、衆生済度の働きをさせて頂きたいとの大願を起こさればなりません」と教えて下さった。
この話を聞き、また真宗を捨て浄土宗の信者とならねばならぬと思った。いや光明主義の信者となった。
それからは惜しげもなく頼むのだ、ひまなく頼めと勇み立った。かくて横浜の別時は終りを告げた。
(つづく)
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