弁栄聖者の俤(おもかげ)22

中井常次郎著『乳房のひととせ』上巻より その1

はしがき
 弁栄上人に依って、みたま〈御霊〉の乳房を恵まれた自分は、西本願寺派の門徒、篤き信者の代々続く家庭に育てられた。父母が朝夕のみほとけへのおつとめに誘われ、としよりがする寺参りに連れられて、型ばかりながら仏縁は幼き間に結ばれた。
 家庭を離れ、中学校へ通いそめし〈初めた〉頃より、西方浄土の教えを疑うようになった。
 学びの進むに連れて、仏教とは、釈迦という聖人が、この世を安らかに過ごさせんが為に仕組まれた教えにて、地獄極楽は造りごとであろうとまで考えるようになった。
 自然科学の遊びが深まれば、深まるほど、浄土の実在はそらごととのみ思われ「人生は、はかなき夢なり」との思いがつのるばかりであった。
 今や科学の光は世を文化の真昼とした。されどなお底知れぬ心の闇を認めては、ひとり思いに沈まざるを得なかった。かかるさすらいの間にも、古き聖たちのみ教えを心の闇の空高く輝く明星と仰ぎ得て「宗教は阿片なり」とみくびり、肉欲我欲の淵に溺れ、あたら〈惜しむべき〉人生を棒にふるほども心の田地が荒らされていなかったのは幸である。
 自分は好んで宗教の本を読み、宗派をいわず教えを聞いた。そして自分に応しい信仰を求めていたが、まだ頼る何物をも獲ずして三十二の歳を迎えた。この秋、弁栄上人に遇う事をえて、次第に信仰を確立した。
 山の端に沈みかけたる夕日とも知らず、おさな児が諸共に聖き都への旅路を楽しみ、勇み戯れたまどい〈親しく集った時〉を、今思えば、なつかし、苦し、やるせなき惜しいひととせ〈聖者との約一年間〉であった。
 あくる大正九年の十二月四日、あわれ、我等が教えのみおやなる聖上人は雲がくれしました。
南葵無憂精舎に於て 中井常次郎
昭和八年十二月八日

◇初対面
 「弁栄上人という世に秀でたる出家あり。常に仏を見奉り、そのみ声を聞き、みむねのままに、西に東に念仏を勧めて暇なきお方なり。参詣せぬか。」
と誘われたけれども、仏とは死後の世界の救い主にて、今、我等人間に見える筈が無いといって、友の話に何の興味も覚えず、むしろ笑うべき迷信だとして取り合わなかった。けれども、かさねがさねの誘いに、ひじり〈聖〉とは、どんなお顔の持ち主かと、それが見たさに、大阪府下、三島郡豊川村の法蔵寺で、念仏三昧の導師をしておられた弁栄上人を訪ねる気になった。
 恒村さん御夫婦と共に京都を立ったのが、大正八年九月三十日の朝であった。大阪駅にて中川弘道和尚と落ち合い、四人連れで、箕面より秋の野道を語りながら歩んだ。
 寺に近づき、木魚の音が聞こえて来た時、困った処へ来たものだ、代々真宗の流れを汲む家の子と生まれ、他宗の行に加わるは、御開山〈親鸞〉上人にすまぬと、この時ばかりは逃げ帰りたくなった。けれども折角はるばる来たのだからと、兜の緒をしめ敵地に乗り込む心地して、寺の門をくぐった。
 上人のお室に通され、しばし待つほどに、本堂での木魚の音はやみ、三礼の声も静まれば、ほどなく襖を開けて上人は、入って来られた。
 頭を垂れて聖者に敬意を表していた自分は、上人のお顔を拝むことができなかったが、おくんのすそのさばきいとしとやかに我等の前にお坐りになったのを見ただけで、はや〈はやくも〉霊感に打たれた。
 恒村さんの問いに答えて、法を説く上人の御姿、何に譬えよう。三十余年、まだ一度も見た事の無いまごころのあふれ。
 心の親を訪れて幾代久しく〈どれだけ長い時間〉さまよったであろう我、今ここに親にめぐりあいし思いして、したたるうれし涙のしづく、ひざをうるおした。
 人は、すべて濃き薄きちがいこそあれ、鉄面皮〈恥知らず〉という皮をかぶり、自分勝手のふるまいをする。せめやそしりをはじくこの憎き皮のへだてが人の交りに障りする。けれども、今この御方は、生れたばかりの赤子のはだか、かやりたて〈生まれたて〉のトンボが、かよわき羽根を日に干しながら、そよ風にゆられる、すがすがしき感じ。わが思いの全分が受け入れられ、心と心がじかに触れ合う心地がした。しかも仰ぎ見れば、ゆるぎなき御人格は、雲にそびゆる富士の高嶺の国々にまたがる如く、どっしりとした感じを与えるのであった。
 友は何を尋ね、上人は何を説かれたか、その長い話が何であったかを気づかぬほど、自分はひとり思いにうっとりとしていた。
 上人はおひざを私の方に振り向けられて「中井さん、何か聞く事はありませんか」とお言葉をかけて下さった。けれども自分は聞くためで無く、見るために来たのだから「何もありません」と答えた。
 上人は「生きてまします仏様が‥‥‥。大宇宙そのままが‥‥‥。今現に、ここに在ます親様を‥‥‥」といって、座布団をあとにして仏身論をお説き下さった。また信仰と念仏の心について聞かせて下さった。それこそ自分は今まで聞きたいと願っていた信仰問題のおもな事柄であった。けれども、それらは今まで聞いた事のない新しい有難い説法であったから、たやすく受け入れ難く、大いに考えさせられた。
 本堂ではまた木魚の音と念仏の声が盛んになった。私共も上人に続いて三昧道場に入り、一座の御話を聞かせて頂いた。
 「卵の譬え」、「稲の譬え」、「べんとう〈弁当〉食べて」のお話など、まことにその通りだと感心した。
 お別れに臨み「今日は十分の時なく、満足を与える事ができず、お気の毒であった。また会う日を待たれよ。どうか心を宇宙と等しくする様に」といって、お十念を授けて下さった。
 黄金波打つ稲田の路をひとり思いに耽りながら、家路を急ぐ脚の歩みは軽かった。里を離れた街道でラッパを吹いたり、竹馬を曳いて遊ぶ男の子の四、五人に出遇った。一人が帽子を脱いで礼をすれば、ほかの友達も、それに傚いて礼をした。私を村の学校の先生と思ったのか。
 清き空気と澄める日の光に恵まれた村の子供等の健康を悦び、田舎人のやさしい心根をうれしく思った。
 この日、学校を休み、午前三時から、妻や女中に厄介をかけたが、上人に初対面を得たこの日こそ、永く忘れられない記念の日となった。

◇再会
 霊性は未だ醒めずして、理性に支配された自分は、年と共に宗教を信ずる事ができなくなった。けれども歴史に輝く大宗教家達の真剣味に惹きつけられ、熱烈なる信者達の行いに真実を認めては、宗教との縁がまだ結ばれていた。
 弁栄上人に初対面を得た時より一、二ヶ月前の事、私はある日縁側の柱にもたれて、『大無量寿経』を読みつつ「こがねの樹あり、しろがねの樹あり‥‥‥華も果もまたこがね、しろがね、くさぐさ〈種々〉の珍しき珠なり」 など極楽のよそおいを写せる文を見て、馬鹿らしくなり、側にいた妻に話しかけた。
 「お釈迦様も余程まがぬけておる。おとぎばなしならばまだしも、二十世紀の今日、誰がこんな事を信ずるものか。時勢を知らぬにも程がある。」
と悪口をいったものだ。
 その頃の私は釈尊を世界の三聖人の一人と認めていたけれども、仏と崇めることができなかった。だから私が釈迦の批評をすると、父は「勿体ない。地獄におちようぞ」といって、私と宗教の話をするのを避けられた。
 老いたる父が生きている間に、いつわりなく、お釈迦様は仏様だと、一言いいたいものだ。これが父への最大の孝行だと思っていた。
 それで、誰か釈迦のえらさを聞かせてくれる人はあるまいかと、常に良き師を求めていた。中川弘道師に会ったのを幸、「釈迦は仏陀なりや」と尋ねて見た。「然り〈そうである〉」と答えられたのはいうまでもない。「然らば〈そうであるならば〉、釈迦は知らざるなく〈知らないことはなく〉、能はざるなき〈不可能なことはない〉筈である。今もし数学、物理、化学や医学などに関し現代の大家と知識を競わば、何れにうちわが揚がる〈勝者〉であろうか」と問い返した。
 本山の名高い説教師、機関銃と称えられた能弁家も、これには口を開かなかった。問答は預かりとなった。師が九州への帰りがけに、広島で(真鍋師団長のお宅で、仏書をお書きになりつつ)御布教中の弁栄上人に、この事を告げ、私を済度してやって頂きたいと頼まれた事を後で聞いた。
 それがために、上人は十月二十一日(大正八年)に京都を通るから、一寸立ち寄るとのお知らせを下さった。
 われら京都の信者達は、その日を待ちこがれて上人をお迎え申した。
 これは私が上人への二度目のおめもじ〈お目にかかる機会〉であった。授業中、電話で、
 「ただ今上人はおつきになった。ちょっと立ち寄られたのだから、すぐ来る様に」
と知らされるや否や、私は休講を告げ、上人のみ許へと駆けつけた。そして道すがら考えた。
 上人は有難い方であるが、もし時代おくれの事をいうようならば、師匠と仰ぐ値打ちが無い。一つ試して見よう。それには、今日、学問上確定している事について聞いて見ることだ。何が良いか。西方浄土が良い。もし、文学通り、極楽は西に在るといわば、二の句をいわず、引き上げようと思った。それに対する上人のお答えは、こうであった

 「仏説は、どんな人でも信仰に入れるように、人に応じて、神話的に、歴史的に、感情的(救済的)に、論理的に実感的に説かれてある。それ故、誰でも自分に応わしい教えに依れば信仰に入る事ができます。
 西方浄土の説に就いても、お釈迦様の時代に、昔から西の方に結構な〈すばらしい〉世界があると言い伝えられていたから、西といったばかりで、人々は結構を思い浮かべるという有様であった。それで、お釈迦様が心眼をもって、いつも見ておられる浄土の結構を知らしめる為に、西方に浄土があるといって連想させたのである。極楽は西に限った事はない。仏眼を以て見れば、ここも浄土である。また法蔵菩薩が四十八願を発し、修行の結果、阿弥陀様になったというのは神話である。仏教にも神話が沢山ある。文字のままではいけない。経文の精神をとらねばならぬ。
 意識眠って一夜の夢、アラヤ眠って生死の夢。凡夫はアラヤ識という研かぬ珠で世界を見ている。アラヤの眠りから醒めると仏智となる。即ち覚者となる。吾々は仏と成る種を持っておる。それを育て、研き上ぐればよいのである。浄土は想像即実現の世界、思いのままになる処である。かくなるには、至心に念仏せねばなりません。」

と教えて下さった。何という驚くべき説法であろう。西方浄土の説といい、法蔵菩薩の神話説といい、自分は今まで、こんなすばらしい合理的な、新しい説を聞いた事がない。この方にこそ道を聞くべきだと、深く上人を信ずるようになった。
 汽車の時刻がせまって来た。それで、お釈迦様は仏だというお話を承らずに、お別れとなった。
 数人の信者と共に上人を京都駅に見送った。合掌恭礼の裡に、汽車は遠ざかり、一同は涙を流して、久しく〈長い時間〉立っていた。
(つづく)

カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」

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