誤解の余地はないと思うが、さらにダメ押しをしておくなら、この「他人が独我論的世界観を持つことは独我論に反する」という考えもまた、他人が持てば独我論に反する。そして、この構造はどこまでも反復し、どの段階であれ自他に共通の地平で収束することができない。ゆえに、そもそも独我論的主張というものは存在しえないことになる。およそ言語とは何らかの「共通の地平」を前提にしたときに成り立つ情報伝達の仕組みだからである。
p.100
体験がつねに現在のものであるなら、なぜ「つねに」そうであるといえるのか。ここには端的な現在でない現在への言及があるからである。
p.103
今日は、ウィトゲンシュタインの誤診 -『青色本』を掘り崩すを読みました。
浄土宗のの教えにとって『何が往生するのか』という問題は、特に現在においては重要な課題だと思われます。しかしながら永井先生のこの文章を拝読すると、通常の『共通言語地平に存在しない何か』があるということが重要になってきます。しかしながら、そのような問題は『共通言語地平に存在しない何か』という『言語』に絡めとられてしまいます。これらは言語の限界というよりも、言語を操る私たちの限界のように思われます。
しかし私はそのような言語を超えた世界に、彼岸があるのではないかと、そのように感じています。
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