日々の南無阿弥陀仏

毎日、まずこれくらいのお勤めは、おじいちゃん
おばあちゃん、おとうさんおかあさんと一緒に、
また、ひとりでできるようになりましょう。

そうすれば、仏さまが、みんなの心に力をくれます。
お花が咲くのには、水やお日さまの光が必要なように、
みんなの仏の心にも、仏さまの水と光が必要です。
それをいただくための毎日のお勤めです。

日々の祈り

朝のお勤め
南無阿弥陀仏とたくさんとなえ、
「ほとけさま、今日も一日ほとけのよい子でありますように、見守りください。」
といのりましょう。

食前の言葉
「数え切れない、いのちとおかげの食事、一口一口感謝しながらいただきます。」
といのり、南無阿弥陀仏と十回となえましょう。

食後の言葉
「ほとけさま、この食事を力とし、今日のつとめをはたします。」
といのり、南無阿弥陀仏と十回となえましょう。

夜のお勤め
南無阿弥陀仏とたくさんとなえ、
「ほとけさま、あなたのみ恵みによりて、ほとけのよい子でいられました。心から感謝いたします。」
といのりましょう。

夜のお勤め(もしも悪い子だった場合)
南無阿弥陀仏といつもよりたくさんとなえ、
「ほとけさま、今日は悪いことをしてゴメンなさい。心から反省し、二度といたしません。明日からは、よい子でありますように見守りください。」

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『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』01

「スライドには聴衆に見えない文字を使うな」
「文字ばかりのスライドは避けよ」
「発表で説明しないことはスライドに書きこむな」
「発表のときに強調したいからといってポインターをクルクル回すと聴衆の目がまわる。ポインターはなるべく動かさないほうがよい」といった指摘も受けました。
なるほどと思ったのは、スライドの一枚ずつにわかりやすいつながりがなければならないという教えです。

『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』
by 山中 伸弥, 緑 慎也

上記の引用は、中山伸弥教授が、サンフランシスコのグラッドストーン研究所のポスドクであった時、カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)で開講されていたプレゼンテーションのゼミの講義を受講していたときの教えです。
パワーポイントにおける注意点ですが、プリントを配布して説明するときにも応用できそうです。
先日の大分の布教の際、プリントを配布して、お説教したのですが、私が用意したプリントは、

  • 文字ばかり
  • 発表で説明しないことを書き込んである
  • 分量が多すぎて、プリントを見たり、私を見たりで聴聞の方が大変そうだった。

という有様でした。
話す内容ばかりに気をとられてしまし、効果的でわかりやすい資料作りという視点に欠けていたように感じます。
私は、1時間の法話の際は、

  1. 1時間半ぐらいの原稿をまず書き上げる。
  2. 箇条書きに直し、要点を整理する。
  3. 1人で法話を繰り返し、自然な話し言葉になるようにする。

という手順で準備をするのですが、今回は1の「1時間半ぐらいの原稿」をもとに、プリントを作成してしまったのが原因であることに気づきました。
せっかく1時間半ぐらいの原稿を用意したのだから、1時間の法話で伝えらようにない事も、一応書いておこうと考えてしまったのです。
その結果、文字ばかりで煩雑になってしまい、失敗してしまったようです。

次回もし、プリント等を配布する際は、図などをもちいた、わかりやすい資料を目指したいと思います。

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Custom Post Widget で投稿欄に画像がアップロードできなくなる

Custom Post Widget 2.02 をインストールしたところ、投稿欄に「アップロード/挿入」が表示されなくなってしまいました。
該当箇所のcssを修正してみましたが、うまくいかなったので、プラグインフォルダにある、

/wp-content/plugins/custom-post-widget/post-widget.php

を以下のように修正しました。
これでなんとか使えるようになりました。

// Only add content_block icon above posts and pages
function check_post_type_and_remove_media_buttons() {
	global $current_screen;
	if( 'content_block' != $current_screen->post_type ) add_filter('media_buttons_context', 'add_content_block_icon' );
}
//add_action('admin_head','check_post_type_and_remove_media_buttons');この行を//でコメントアウト

require_once( CUSTOM_POST_WIDGET_DIR . '/popup.php' );
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「佛」と「仏」の違い

仏教に携わっている人の中には「仏」という字を用いず「佛」という字をこだわって使う方が多くいます。
「仏」は「佛」の略字だから失礼にあたるという認識から「佛」にしているのだろうか、と漠然と認識していましたが、講談社の「本」の今月号に面白い記事を見つけました。

昔の中国の仏教徒が「佛」「佛陀」を「ム」「仏」と書いたのも、「佛」「佛陀」と直称することをはばかって、「あのかた」の意味で「ム」「仏」と書いた、避諱1心理のあらわれである2、というのが張湧泉の考えです。

「本」(講談社 読書人の雑誌2 第38巻第2号(通巻439号)」所収
漢字雑談35「六世紀の略字」by 高島俊男

日本語では、新字体として認識されている「仏」という文字ですが、中国ではそのような意図で使われていたと思うと考えさせられます。私の宗教観ではやはり、「ほとけ様」は、どこまでも高い存在でありながら、やはりどこまでも身近な存在と感じます。
「仏」を「佛」と表記することは、単に「佛」が正字だからという理由だけではなく、「仏」と表現してしまうと昔の中国では避諱にあたり、結果として身近さを失ってしまうとするならば、「佛」という字により愛着を感じてしまいます。

  1. 筆者の高島俊男先生によると、避諱【きい】とは、上位の人、尊い人の名を指して言う習慣・制度の事。 []
  2. 「佛」は本来名ではないが『後漢書』の記述を見ると当時は「佛」とは神の名であると認識されていたようである。 []
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お念仏の現世利益1

過去を変える

過去の事は変えることができません。それで、私たちは様々な後悔をします。
たとえば、亡くなった親に、もっとああしてあげれば、こうしてあげれば良かったと後悔することもあるでしょう。
このような後悔を仏教では泥に喩(たと)えます。泥は泥のままだと、どこまでもただの泥です。しかしその泥に植物の種子がまかれ、充分な水と光がそろうと、だんだんとその植物は生長して立派な花を咲かせます。
それと同じように、私たちの後悔も、ただ後悔しただけでは後悔のまま終わってしまいます。しかし充分なお念仏と阿弥陀様の光明がそろいますと、その後悔が私たちの信仰心を芽ばえ開花させる貴重な糧(かて)へと変化するのです。

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千の風になって

しばらく前に「千の風になって」という歌がヒットしました。「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」から始まるこの歌は、お墓や納骨堂のあり方を考えさせられるものとなりました。
月はどこにあるのかと問われればそれは宇宙にあります。しかし私たちが月を眺めると「今日のお月様はきれいだな」と、月と私たちの心が一つになって私たちの心を感動させます。
ちょうどそれと同じように、亡くなった人は、どこにおられるのかと問われれば、それは極楽世界におられるのです。私たちが亡くなった方々を想い祈らなければ、遙か彼方の遠い世界におられて、ふれ合うことはありません。しかし私たちがお墓や納骨堂を通して手を合わせる時、なくなられた方の想いと一緒になって阿弥陀様のご功徳が流れ込んで、亡くなった人だけではなく、この私たちも幸せになっていくのです。このことを『霊応(れいおう)』といいます。
そしてお寺の本堂や墓地や納骨堂というのはその霊応がもっとも宿りやすい場所なのです。その場所で祈ることによって阿弥陀様や亡くなった人が実はとても近しい存在であることがだんだんと実感でき、どこにいても南無阿弥陀仏と称えることによって心の内にいてくださるようになるのです。

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お念仏生活の助け4

阿弥陀様を誉め称(たた)えること

私たちは、お互いの心が見えないことを良いことに、思ってもいないお世辞を言って相手を誉めたりします。たしかに人間関係を円滑にするためには必要な事なのかもしれません。
しかし、なんでもご存じの阿弥陀様にお世辞を言っても仕方がありません。阿弥陀様を誉め称えるということは、たとえ疑う気持ちが残っているとしても、もし本当に阿弥陀様がおられるのであれば、私もいつかこのような立派な人になりたいという思いをおこして身と心をもって日々の生活を改めていくことを表しています。
つい悪いことをしてしまった時「あぁこんな事をしていたら阿弥陀様に申し訳ない」と反省する。そして少しでも阿弥陀様に喜んでもらいたいと、できる範囲で良いことをしようと努力する。
宗教の世界では、口先だけではなく、すばらしい方に少しでも近づきたいと、日々の生活を改めていくことが「誉め称える」ということなのです。

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念仏生活の助け3

『阿弥陀様に礼拝(らいはい)すること』

浄土宗の日常勤行式の一番初めに、香偈(こうげ)という偈文があり、その中に「願我心如智慧火」という一句があります。「願わくば我が心、智慧の火の如くならん」という意味です。
私達の心は煩悩でいっぱいです。その煩悩は真っ黒な炭に喩えられますが、その炭も火の中に投じれば、その火を活用することができます。それと同じように、真っ黒な私達の心であっても南無阿弥陀仏とお念仏をおとなえし、その全てを阿弥陀様の智慧の火の中に投げ入れるとき、こんな愚かな私達の真っ黒な心の炭にも、阿弥陀様の智慧の火が宿ってくださるのです。
私達の心の煩悩を阿弥陀様に投げ入れている姿、これが礼拝です。礼拝し、前かがみになることによって阿弥陀様の足下に私達の煩悩が自然と転がり落ちていくのです。南無阿弥陀仏の「南無」というのは実はその様子を現している言葉でもあります。
そうやって私達の心の炭に阿弥陀様の智慧の火が宿るとき、火が闇を照らすように、私達の迷いの心を照らして進むべき道を示して下さいます。ちょうど火がものを温めるように、悲しい時、辛いとき心をいやして下さいます。火がゴミを焼くように、私達の心の煩悩や苦しみを焼き切ってくださるのです。
さらにその阿弥陀様から頂いた「智慧の火」は自分だけではなく、私達の大切な人々の心を照らし温め、その悩みを焼き切る「智慧の火」へと成長していきます。

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Google Analytics から自分のアクセスを除外

大願寺のサイトは、”All in One SEO Pack”というプラグインと、Google Analytics を連携させています。
現在サイトの更新中もあって、自分自身のアクセスが非常に多くなってしまい、アクセス解析に問題がでてきてしまいます。
そこで、自分のアクセスを遮断するために、”All in One SEO Pack”がインストールされているディレクトリにある、

/wp-content/plugins/all-in-one-seo-pack/aioseop.class.php

の一部を修正しました。
現在の、”All in One SEO Pack”のバージョンは”1.6.15.3″ですが、これだと406行目1

“if(!is_user_logged_in()){“2

を追加して改行し、429行目に

“}”

を追加しました。
これで自分のアクセスが除外できるはずです。

function aiosp_google_analytics(){
	global $aioseop_options;
if(!is_user_logged_in()){/* この行を追加 */
	?>
		<script type="text/javascript">

		  var _gaq = _gaq || [];
		  _gaq.push(['_setAccount', '<?php echo $aioseop_options['aiosp_google_analytics_id']; ?>']);
<?php if ( !empty( $aioseop_options['aiosp_ga_multi_domain'] ) ) {
?>		  _gaq.push(['_setAllowLinker', true]);
<?php }

	  if ( !empty( $aioseop_options['aiosp_ga_domain'] ) ) {
?>		  _gaq.push(['_setDomainName', '<?php echo $aioseop_options['aiosp_ga_domain']; ?>']);
<?php } ?>
		  _gaq.push(['_trackPageview']);

		  (function() {
		    var ga = document.createElement('script'); ga.type = 'text/javascript'; ga.async = true;
		    ga.src = ('https:' == document.location.protocol ? 'https://ssl' : 'http://www') + '.google-analytics.com/ga.js';
		    var s = document.getElementsByTagName('script')[0]; s.parentNode.insertBefore(ga, s);
		  })();

		</script>
	<?php
}/* この行を追加 */						?-->
  1. 編集に用いるテキストエディタ等を”○○文字で行を折り返す”等に設定している場合は行番号が合わない場合があるので注意 []
  2. 実際には””は必要ありません []
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不動智神妙録03

禅宗で「仏とは」と問えば、拳を差し上げることでしょう。「仏法の極意とは」と問えば、問う声が未だ終らぬうちに「一枝の梅の花である」とか「庭の柏の樹である」などと答えるに違いありません。その答が善いとか悪いとかをいうよりも、止まらぬ心を尊ぶのです。

不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7)
沢庵 宗彭 (著), 池田 諭 (翻訳) より

「仏教の極意とは」と問われて間髪入れず「ない」と答えた方が深いような気がします。
ですがそんなことを考えている私(浄土宗)は、禅宗的な立場からすれば、心が悪い意味で止まっているのかもしれません。
「仏教の極意とは」と問われて間髪入れず「南無阿弥陀仏」と答える場合と、相手の宗派や価値観、どのような意図で問うているのか考えて、「南無阿弥陀仏」と答えることを比べてみたら、やはり間髪入れず「南無阿弥陀仏」と答えるほうが理に適っているのかもしれません。
 これを法話に当てはめてみると、南無阿弥陀仏のお念仏とは、○○の理由で素晴らしいですよと理屈を並べて話をするよりも、

「皆さん、仏教の極意は南無阿弥陀仏です。今日はその事を話にきました」

と間髪入れずに、宣言したほうが、聴衆の心に響くのかもしれません。

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