禅宗で「仏とは」と問えば、拳を差し上げることでしょう。「仏法の極意とは」と問えば、問う声が未だ終らぬうちに「一枝の梅の花である」とか「庭の柏の樹である」などと答えるに違いありません。その答が善いとか悪いとかをいうよりも、止まらぬ心を尊ぶのです。
不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7)
沢庵 宗彭 (著), 池田 諭 (翻訳) より
「仏教の極意とは」と問われて間髪入れず「ない」と答えた方が深いような気がします。
ですがそんなことを考えている私(浄土宗)は、禅宗的な立場からすれば、心が悪い意味で止まっているのかもしれません。
「仏教の極意とは」と問われて間髪入れず「南無阿弥陀仏」と答える場合と、相手の宗派や価値観、どのような意図で問うているのか考えて、「南無阿弥陀仏」と答えることを比べてみたら、やはり間髪入れず「南無阿弥陀仏」と答えるほうが理に適っているのかもしれません。
これを法話に当てはめてみると、南無阿弥陀仏のお念仏とは、○○の理由で素晴らしいですよと理屈を並べて話をするよりも、
「皆さん、仏教の極意は南無阿弥陀仏です。今日はその事を話にきました」
と間髪入れずに、宣言したほうが、聴衆の心に響くのかもしれません。
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