念仏生活の助け3

『阿弥陀様に礼拝(らいはい)すること』

浄土宗の日常勤行式の一番初めに、香偈(こうげ)という偈文があり、その中に「願我心如智慧火」という一句があります。「願わくば我が心、智慧の火の如くならん」という意味です。
私達の心は煩悩でいっぱいです。その煩悩は真っ黒な炭に喩えられますが、その炭も火の中に投じれば、その火を活用することができます。それと同じように、真っ黒な私達の心であっても南無阿弥陀仏とお念仏をおとなえし、その全てを阿弥陀様の智慧の火の中に投げ入れるとき、こんな愚かな私達の真っ黒な心の炭にも、阿弥陀様の智慧の火が宿ってくださるのです。
私達の心の煩悩を阿弥陀様に投げ入れている姿、これが礼拝です。礼拝し、前かがみになることによって阿弥陀様の足下に私達の煩悩が自然と転がり落ちていくのです。南無阿弥陀仏の「南無」というのは実はその様子を現している言葉でもあります。
そうやって私達の心の炭に阿弥陀様の智慧の火が宿るとき、火が闇を照らすように、私達の迷いの心を照らして進むべき道を示して下さいます。ちょうど火がものを温めるように、悲しい時、辛いとき心をいやして下さいます。火がゴミを焼くように、私達の心の煩悩や苦しみを焼き切ってくださるのです。
さらにその阿弥陀様から頂いた「智慧の火」は自分だけではなく、私達の大切な人々の心を照らし温め、その悩みを焼き切る「智慧の火」へと成長していきます。

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