名号の不思議01

光明修養会上首 河波 定昌

本年1は法然上人滅後800回忌を迎えることになりました。そして法然上人の出現は浄土宗の開創、すなわち「南無阿弥陀仏」の名号によってすべての人びとが救われてゆくというただその一点に集約されるところのものでした。そしてそれは日本における最大の宗教改革でもありました。それまでの日本人の宗教は単なる他界信仰か、あるいはまだ呪術的信仰の次元にとどまっていました。

それはたとえばその典型を法然上人の『一百四十五箇条問答』──(建仁元年(1202年)頃成立)における法然上人と一般信者たち、とりわけ女性たちも多い──との対談にもみることができます。そこではマナ=タブー(禁忌)の呪術的世界に縛られていた一般大衆の法然上人による念仏信仰への目覚めへと導かれている点からもみることができます。その二、三例を挙げますと、たとえば死者を出した「忌み」について、

「仏教にはいみ(忌)という事なし。世俗に申したらんように」

(第二十六問答)

あるいはまた、

問「月のはばかりの時、経よみ候はいかが」
これは女性からの質問と思われますが、それに対しての法然上人は、
「くるしみ(差しつかえ)あるべしとも見えず候」

(第七十五問答)

ましてや念仏においてはかかるタブーからは百パーセント解放されています。

あるいはまた第一二五の問答には、

「産(出産)のいみいくか(幾日)にて候ぞ。又いみもいくかにて候ぞ」
答「仏教にはいみということ候わず。世間には産は七日、又三十日と申すげに候。いみも五十日と申す。御心(まかせ)に候」

ここでは忌み(タブー)から解放された信仰の世界の展開がみられます。

またタブーからの解放とともに罪悪からの解放もまた法然上人の宗教改革の眼目でありました。その内容についてはたとえば、第六十五の問答の、

問「五逆十悪、一念十念にほろび候か」
答「疑いなく候」

の対談等がみられます。このように法然上人において念仏の信仰によってその頃まで支配していたマナ=タブー形式の束縛、また男女等における様々な束縛、そして罪悪等からの解放が遂行せられていったのでした。

マルティン・ルターの宗教改革はつとに有名で、彼においては「信仰のみ」sola fide の立場による伝統的な信仰からの解放が強調されたのですが、法然上人の場合、それにもまして壮大なる宗教改革の遂行が考えられるべきであります。そこには浄土宗の開祖としての法然上人と共に日本精神史の展開上における、最大の宗教改革者として改めて注目すべきなのであります。

なお呪術からの解放はヨーロッパにおいても極めて重要な意味をもつものでした。それはドイツ語で Entzauberung といいますが、それがやがてヨーロッパの近代を形成してゆく重大な要因となっていったのであります(Ent は脱 zauberung は呪術)。そして法然上人の念仏そのものもまた呪術からの脱却を意味するものでした。

それゆえに法然上人においては一声一声の称名において「順彼仏願故(かの仏の願に順ずるが故に)」(善導大師『観経疏』)による専ら超越的なはたらきとしての仏願による救済が説かれるところのものでした。しかしながら多くの人たちは余りにも強大な呪術的次元に堕し、その中にとりこまれていたので、それ故に念仏さえもが呪術的な思惟の中で考えられていたようです。かつて仏教新聞である『中外日報』は「念仏は呪術か」の問題をめぐって特集したことがあります。もちろん宗教学的な地平からはそのような問題提起も考えられなくもありませんが、法然上人の立場からみて超越的な、また宇宙の根源的な真理の上からいっても、より高遠な判断がなされるべきであります。

ただ念仏には万徳のはたらきがあるので呪術的な次元にもはたらきます。そのような点からいえば念仏は単に呪術を否定するだけでなく、その呪術をも含んでそれを止揚しており、それを包んで超えています。

「止揚する」はヘーゲルやマルクスが好んで使用したドイツ語の aufheben ですが、名号論にはそのような宗教学的哲学的地平からの考察も必要であります。

以上のような意味で浄土宗を立教開宗した法然上人はまたたぐい希れなる日本精神史上の宗教改革者でもありました。

また法然上人はそれまでの日本人の信仰であった「他界信仰」を止揚 aufheben した宗教者でもありました。

この他界信仰とは『古事記』等では「根の国」等ともよばれ、死者の赴いていく場所のことでした。現在は「死んだらそれで終わり」といった考え方が一般的となっていますが、しかし古代の日本人には「他界信仰」がむしろ現実的であったと考えられます。

しかしながら法然上人は他界信仰も大乗仏教の実践と結びつけ、死後の世界としての他界へゆくことを「往生浄土」ないし「往生極楽」の信仰へと、より高次の立場へ「止揚」されて説かれたのでした。「往生浄土」には法然上人において何よりも真理への悟入の意味もあったのでした。浄土教とはまさにかかる真如の世界へ悟入してゆくことに他なりません。

しかしながらここでもいえることですが、日本人が他界信仰に固定しすぎていたので、肝心の真の浄土、極楽の世界が、強大な他界信仰に吸収されている傾向が強いようです。

かつて柳田国男はその弟子(筆者の知人)に対して、「日本は殆ど仏教国になってしまった感があるが、その実体は仏教渡来以前の原始宗教の時代と殆ど変わるところはない」と云っていますが、ここでも日本宗教の伝統の強大さに驚かされるところです。それを突破するためにはよくよくの強固な信が必要でありましょう。

そのような点で阿弥陀仏の本願の救済を説く法然上人の宗教改革には大衆大衆に、その信心の変革が必要であります(「安心起行」が強調される所以)。そして一声一声の念仏が往生極楽の行となっているという点からいえば、念仏の行が真の意味で「往生浄土」の行になり、かかる意味で「他界信仰」からの脱却の遂行が考えられるのであります。かかる点からいって法然上人の念仏の信仰は、恐らく数千年、数万年以来続いてきたと考えられる他界信仰を止揚する──すなわち他界信仰の低次元性を否定して高次の浄土、極楽の世界に高め、往生極楽の立場への止揚が考えられるのであります。かかる法然上人の往生浄土は他界信仰そのものの完成というべきであります。そしてそれが何よりも称名念仏の中に開かれてゆくのであります。

以上、法然上人の教えを(1)脱呪術 Entzauberung の実践として、また(2)脱他界信仰(ここで脱とは生前と死後の両世界を包む阿弥陀仏の世界への躍入を意味します。)について述べました。そしてその決め手となるのが「南無阿弥陀仏」の称名なのであります。

称名とは言葉を発することであります。そしてその言葉とは何よりも呪術的な行為とも重なります。呪術の地平では、発せられた言葉はそのまま事実となって実現してゆく、といった世界であります。

たとえば『旧約聖書』の冒頭に「「光あれ」といわば光ありき」といった文章がみられます。発した言葉の内容がそのまま実現してゆくのが呪術の世界で、その点からいって Entzauberung (脱呪術)を誇っている私たちも案外そうでなく、たとえば試験前に「落ちる」「すべる」の言葉を避け、また結婚式上「わかれる」「離れる」等の言葉を不用意に使用しないといったことも、本当には私たち自身もどこかで呪術的な次元に囚われているのではないでしょうか?

しかしながら私たちはただ万徳の名号によってあらゆる呪術的思惟から解放されて、阿弥陀仏の世界へと救済されてゆくことが眼目なのであります。

(つづく)

  1. (本稿は2011年、浄土宗奈良教区主催の講演の内容を改めて文章化したものです。) []
カテゴリー: 上首法話, 月刊誌「ひかり」, 法話

お坊さんと竜の夫婦のお話 4

先月号のつづき。

幡随意【ばんずいい】上人に危険がせまっています。それを龍が知らせたところ、上人はまず弟子を先に他の地に逃がそうとしています。弟子の一人が、

「私たちはお師匠さまのそばにいてあなたを守ります。それで殺されたとしてもかまいません。」

すると上人、

「心配しなくてもいい。私は殺されたりはしないよ。私はこれより武州(今の東京や埼玉)に行こうと思う。もし今私と行動を共にすれば見つかりやすい。そして一緒に殺されてしまうかもしれない。もし私とは別に行動すれば私の弟子とは気づかれにくいだろう。だから先にこの地を離れなさい。私もかならず後からこの地を離れるから。」

そういうと弟子たちは、喜び勇んで去っていきました。

その弟子達の出発を見届けた上人もしばらくして出発しました。

少し歩いた所で、一人のおじいさんが立っていました。

「上人、私は今この姿をしていますがあなたの弟子、龍誉高天です。どうやら大勢の者があなたをおいかけて来ています。私はここにいて、彼らの足止めをします。上人ははやく先へ進んで下さい。」

上人は慌てて歩み出しました。そんな時、一念義の者たちが、竹槍などの武器を持ち上人がいた善導寺に集まりました。しかし、お寺の中を探しても上人や弟子達は一人もいません。

「どうやら、逃げたようだな。まだ逃げたばかりだ。きっと追いつくはずだ、行くぞ。」

そういって、大勢の者が上人の後を追いかけはじめました。

しばらく進んだところで、山の道に入りまいした。すると今まで晴れわたっていた空が、急に暗くなり、黒い雲でいっぱいになり、どしゃぶりの雨が降ってきました。雨で前がまったく見えません。彼らは前に進みたくても、雨の激しさに前に進めません。そこはちょうど先ほど上人が龍誉高天と会ったところでした。龍は雨をあやつることができます。この雨は龍誉高天が降らせたものでした。

その間に上人はどんどん進んでいき、川までたどり着きました。しかし、川は水かさが増し激しい流れになっています。

上人「これは渡るのは無理だな」

と困り果てていました。そこに美女が一人そばにやってきました。

「私は川を渡る案内をしているものです。私の手をにぎり、ついて来て下さい。」

そう女性が言っていますが上人はためらっています。すると女性が

「私はあなたに救われた王誉妙龍です。あなたの災難をはらう為にここにやってきました。」

上人「そうでしたか。では私を向こう岸に導いてください。」

女性「わかりました。」

そういうと姿を消しました。しばらくすると川の水がどんどんあふれてきます。そして川の中から水しぶきをあげて、龍が水の中から頭を振り立てながらあらわれ、火を吹きながら、上人の前の岩の上に頭をおきました。

上人はその龍の頭の上にのり、角につかまり、南無阿弥陀仏と称えています。龍は頭をあげ、いとも簡単に向こう岸に上人を渡しました。

濁流をわたる龍と上人

上人は王誉妙龍にお礼と分かれをつげ、武州に旅立っていきました。

一念義のものは、大雨に足止めをくいましたが、その後、雨がやみなんとか川までたどり着きました。しかし、川の水を見て驚きます。

「幡随意はこの激しい流れの川を渡ったのか。この川を渡れるような者を私たちは相手にしていたのか。私たちがかなう相手ではない。もうあきらめよう。そう考え彼らは帰っていきました。

上人は無事、武州に着き、その地そして、さらに全国でお念仏の教えを弘めました。

(おしまい)

カテゴリー: 子供と一緒に, 月刊誌「ひかり」, 法話

弁栄聖者の俤(おもかげ)16

熊野好月著『さえられぬ光に遇いて』10

随行記(つづき)

こうして信仰上のお育ても、聖者御自身のお考えで引きずられるような主義でなく、ひとりでに悟り、精進せずにはいられぬ様にお仕向けになるのでした。その頃一にも二にもデモクラシーという事が主張されまして私も共鳴とまではまいりませんが、あたり前の事だ、位に思っていました。それに対して、

「近頃デモクラシーという事がいわれているが思いちがいしている人が多い。喩え話に、一匹の蛇がいて、尻尾の方が考えるに、「頭の奴はいつも威張って、すきな処へ行き、旨いものは皆自分でたべてしまう。そしてわたしをいつも奴隷のようにひっぱり歩く、こんな不公平な事はない。私がついていかねばどんなに困るか思い知らせてやろう」と、謀反をおこし、木に尻尾を巻きつけて動こうとしなかった。頭は困って色々言ってみるが一向動こうとしない。食べ物をさがして歩く事も出来ず、蛇は段々弱って来た。仕方なくそれでは今日からお前がさきに行く事にするからという事になり、尻尾はそれみた事かと大威張りで先になって動き出したが眼のない悲しさ。大きな穴があるのがわからず、ついに落ち込んで死んでしまったという事である。頭には頭の役があり尻尾には尻尾の役目がある」

と申されまして独尊、統摂、帰趣は大宇宙の真理である事を説き私達の思いちがいを正して下さいました。

「この頃何でも多数決多数決といって事のよし悪しを多数決できめようとするがこれもほんとうによいとは言えない。五人の人が賛成し六人が不賛成の時、その事がどんなに正しい事であっても否決されてしまうのはまことに不合理といわねばならぬ」

と仰せられ、如何なる場合にも私心をはなれた、如来様のみ心を心として、即ち正見に住したものでなければならぬ事を悟らせて下さいました。世の風潮にも支配されず、つねに神聖正義の自在無礙の御心境よりあふれ出ずる御識見に、わからぬながら頭が下るのでありました。

元来、私は自分に対してもまた人に対してもあまりに是非善悪の批判に捕われすぎて、ゆったりした心境に住する事が出来ず、善いといえばまあよかったと腰をすえ、悪いといえば寧ろ憎しみの心をもってこれに対する。周囲には否定すべき事が(あれもいかんこれもいやだと)充満しているようでした。つまらぬ自己の存在すら否定したくなり、厭世の思いを起こした事もありました。お上人様の三業四威儀1の御手本によりまして、世の中が急に広々としたように思いました。即ちお上人様はどんな事でもどんな物でも否定なさる事とてありません。何でも善いと悪いとにわけるべきではなく、ただ不完全なものが、意識的にも無意識的にも完全になろうなろうと努力しているのがこの世の有様である事を悟らせられ、何一つ無意義な存在はないので、価値なくみえ無意義にみえるのは、見る人の心が未だ幼くて大ミオヤ様の御むねがわからぬからだと悟りすべてを合掌すべきである事を知りました。

ある日の事です。例によって皆様と御一所に画室でお手伝いをしておりました。お観音様のお姿が描きかけてありました、大切な絵絹に、何とした事かあやまって墨が落とされたのでありました。これは大変と、顔色もかわる程驚いているのを机の前からご覧になったお上人様、何でもないかのように、否むしろそこが一つの目じるしで丁度よかったというようなご様子で、そこに見事な瓔珞のかざりをお描きになり、それについて何のお言葉もこざいませんでした。お側のものがどんなしくじりをしても「これは困った」とか「如何しようか」など行きづまりの言葉など一度ももらされた事はございません。「仕方がない」とか止むを得ぬなどの消極的なお言葉すら伺った事はありません。私達がどんなつまらぬ事を申し上げてもそれがいいですねとか、それでいいのですとばかり申されますのに、なぜかそのお言葉の中に、よりよいものを見出し、向上せずにおられぬような心持にならされてしまう不思議さ。これは全くお言葉でなく御身での説法だったのでございます。

ある時、絵筆をおいて、「あんたに見せたいものがある」としきりに図書棚をさがしていらっしゃいましたが、やがて取り出されたのは『元亨釈書』2という御本でした。その頁をバラバラと繰って、やがて「ここを読んで御覧」と申されますので、早速拝読しました。むずかしくてよくはわかりませんでしたが、何でも初めて仏教が渡来した頃の事、三人の尼さんの尊い事績が色々と書いてありました。数日して、お礼申してお返しいたしました所、「読みましたか」と聞かれますので「ハイ」と申しますと、「どう思うか」と仰せられましたので、「私もこうした道を辿らせて戴きとうございます」と申し上げますと御満足げにニッコリとお笑いになりまして「初めて日本に仏教をひろめたのは女の人達であった」と仰せられました。ある時しみじみと「女の伝道する人がほしい」とも仰せられていました。このお言葉を気にして、私は極端な卑下の心から、自分如きものがどうしてそんな大それた望みがもたれようかと思い、ハッキリとしたお返事が出来なかった事を今に忘れる事が出来ませぬ。またある時は将来光明主義を伝道する青年がほしい。谷さんや松井さんやあなたの弟(亡弟)など弟子になってくれないであろうか。伝道する人は、光明歎徳章がはっきりわかりさえすれば、他にむずかしい事はいらぬのです……などいつになくしんみりとお話し遊ばした事もありました。その年のうちにお浄土にお帰りになろうとは夢にも思いませんでしたが、その時の御面持は今に忘れる事が出来ません。

またある日、村の人たちがたくさん参詣して法要が本堂でつとまりました。お上人様もお出ましになってそのお法話の中に「この村の中で一人でもお念仏を申さぬ人があるなら、それは弁栄の罪である」と仰せられたとの事、拝聴していた谷さんが、出て来られて、実に腹を絞るようなお言葉を承ったと感激して話されました。あの「急がねば日が暮れる」云々のお言葉も、この時かと承っております。

やがて日がかくれる事も気付かず、いかにも暢気に遊び暮している私達をどんなにあわれと思し召した事でありましょう。申し訳もない事でございます。  

この平和な、さながらお浄土のような生活を驚かせた訪問者がありました。それは人目にも分かるお腹をかかえた婦人をつれたTさんという人で、千葉師のお話によりますとこの人は嘗ては熱烈な念仏三昧を行じた人である所で念仏中、「我仏となれり」という自覚(?)をもち、よろこびの余り諸処の知人に打電されたというエピソードをもった人だそうです。婦人は篤信者を親にもった方で三人も子供をかかえた未亡人で、ふとした事からねんごろな仲となられたとの事。そのお二人がまたもや、今になって別れ話が一方から持ち上がり、思案に余って、お上人様に解決して戴くために連れ立って来られたとの事。千葉師はこのおいそがしい貴重なお時間をつまらぬ事でお費やさせ夜は夜通し隣室で口あらそいをしておやすませしない勿体ない、お上人様をお煩わせしなくとも……と申しておられました。お話をきかれて翌日また連れ立って帰って行かれました、如何されましたやら、入会日も浅いこの身には、一種奇異な思いがいたしましたが、また一面よいお誡めを私にして下さいました。一時どんなに熱烈な信仰をもってもどこまでも謙虚でお念仏をあくまで続けなければ、ついには似而非なる魔道におちるという事を。

またある時実際にあった事として、こんな話をして下さった事もあります。埼玉県のある寺で明治の初め所謂、廃仏毀釈で仏像を粗末にした時代の事、住職が「つまらぬ、役に立たぬ仏像などこわしてしまえ」といってこれをたたき毀し、割木にして風呂の下にたいて入った所が、その坊さんはたちまち黒焦になって死んでしまった。それをみて皆驚きおそれ、残りの割木で仏像などたくさん作って大事におまつりしたという事である。私は何気なく「ひどい坊さんですね」と申し上げましたら、お上人様は「いやそうではない。この坊さんは当時の人が口で仏像を粗末にしてはいけないと説いても中々きかぬので一身を犠牲にして大切にしなければならぬ事を事実として教えたのでこれを逆説法という」と仰せられました。

私がその頃一番苦にしていましたのは現在の職業に一向興味ももてず、自信もなく、仕方なく引きずられておるような気持ちで、何か別にもっと生き甲斐のある価値のある仕事があるように思われて、落ちついた心になれなかった事でした。お上人様にその事を訴えますと「今やっておる事がつまらなく、他にもっとよい事があるように思うのは経に「鹿が水を求めて陽炎を追うが如し」といってあるようにどこまでいっても本物を見出し得ない。いつもむこうに陽炎がゆらいでいる、また丁度雲のように、これを遠方から望めば美しく形あるもののようであるが、雲の中に入れば遙か彼方から眺めたものとは似てもつかない。これといってつかみ所のない霧をみたよう、こんな筈はなかったといって失望してはまた他をあこがれ、どこへいっても得るものはなく行き詰る。要は心のむけ方一つである」とお諭し下さいました。

(つづく)

  1. 三業四威儀:三業は身と口と心の働きをいう。四威儀は行住坐臥つまり、歩いているとき、じっとしているとき、坐っているとき、横になっているときの所作をいう。 []
  2. 元亨釈書:30巻。虎関師錬撰。仏教伝来から700年間にわたる我が国の僧侶の伝記の集大成。1321年(元亨2)成立。 []
カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」

ひかり2012年03月号

ひかり誌2012年03月号表紙

ひかり誌2012年03月号表紙

弁栄聖者 今月の御道詠

うつしをく かりのすがたは さもあらばあれ
 心にはただ なむあみだ仏

『日本の光』

05 光明会各会所年間行事
06 聖者の俤(おもかげ)其十五 熊野 好月
08 子供と一緒に学びましょう 25
10 光明主義と今を生きる女性
11 ひかり購読のすすめ
12 感動説話「宗教の第一義」 明千山人
13 能生法話「亡き人の思い」辻本 光信
14 光り輝く淨土への道58  山上 光俊
18 参禅から念仏行へ
   〜理系人間の求道記 その四〜 江角 弘道
22 光明菩薩弁栄上人と十二光 その二 佐々木 有一
26 関東支部研究報告
29 ひかりの輪 光明学園 「2学年宿泊研修」
34 仏像ファッションと写仏 金田 隆栄
36 支部だより
41 掌木魚のご案内
42 特別会員及び賛助会員のお願い
43 財団レポート・清納報告
44 平成24年度収支予算
46 遺墨画作品集ご案内
47 山崎弁栄展図録ご案内・こちらひかり編集室

カテゴリー: 「ひかり」目次, 月刊誌「ひかり」

お坊さんと竜の夫婦のお話 3

先月号では、幡随意上人と龍の夫婦のお話をしました。今月号はそのつづき。

幡随意【ばんずいい】上人が龍を救った時代は、日本が戦争ばかりしていた危険ととなりあわせの時代でした。

あるとき、幡随意上人は新潟県の林泉寺というお寺にお参りに行きました。そこの住職と幡随意上人は、どちらの教えが正しいのか言葉で戦いあう法論を始めました。そしてその法論で負けた者は僧侶の衣を脱がないといけません。衣を脱ぐということはお坊さんではなくなってしまうということです。幡随意上人はキリスト教の方を仏教の教えに導く仕事を任されているようなすごいお坊さんです。いとも簡単にこのお寺の住職を法論で打ち負かし衣を脱がせ帰っていきました。ところがそのお寺は、戦国時代に活躍した、上杉謙信という武将の先祖代々のお墓があるお寺でした。その上杉家の人はそのお寺の住職が衣を脱がされたことを知り大いに怒りました。

「法論の勝ち負けのことは仕方がない。しかし、私たち上杉家の先祖を供養しているお寺の僧侶の衣をはぎ取ることは無礼ではないか。我らはこの越後の国(今の新潟県)の大名であるぞ」と怒り、幡随意上人を殺そうと考えました。しかし、上杉家は大名です。

「それくらいの事で、僧侶を殺したのでは世間の笑いものになるかもしれない。そうだ、我らがおさめる越後の国には昔より一念義という教えを信じているものがいる。その者達は幡随意のような「南無阿弥陀仏と常に怠らずに称えよ」と教えを説いているものをとても嫌っている。この者達にあの幡随意を殺させよう。」と考えました。

そこですぐ、その一念義を信ずる者達を集め、幡随意を殺せと命令しました。すると彼らはとても喜び、

「あの幡随意は『私たちの教えは誤った教えだ。そんな教えを信じても救われんぞ』などといい私たちの教えを否定します。だから私たちは彼を殺そうと準備をしておりましたが、大名であるあなたの裁きを恐れて今まで実行をためらっておりました。しかし、今その許可を頂きありがたく思います。」

彼らは喜び勇んで帰っていき、さっそく人や武器などの準備を始めます。そんな準備をしているとも知らず幡随意上人は、毎日「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」とお念仏を精進していました。

そんなある夜、幡随意上人がお念仏をしていると、突然、龍の夫婦が現れました。

「上人、ここにいてはあなたはこれからひどい目にあいます。どうか急いでこの地から離れてください。」

そう龍がいうと、上人は、

「何事もそうですが、過去にしてきたことが、そのまま自分にかえってきているのです。まさに自業自得です。のがれることはできません、このままここにいましょう。」

そう上人は言いましたが龍は真剣に上人を説得します。

「上人はこの後、生きてさえいれば多くの人をお念仏の道に導き救っていきます。しかしここで死んでしまえば、多くの人を導くことはできません。私たちは上人を常に守ります。どうかはやくこの地から離れてください。」
「分かった。ではまず弟子たちからこの地から離れさせよう。」

そういうと師は弟子達の所にいき、訳を説明し、

「そういうわけだから、あなた達ははやくこの地から離れなさい。どこの地に行ったとしても、南無阿弥陀仏と称えることだけは怠ってはいけないぞ。縁があればまた再会しよう。」

 そういうと、弟子達は悲しみ、なかなか上人のそばから離れようとしません。

(つづく)

龍と上人

カテゴリー: 子供と一緒に, 月刊誌「ひかり」, 法話

弁栄聖者の俤(おもかげ)15

熊野好月著『さえられぬ光に遇いて』9

随行記(つづき)

仮の画室にあてられた庫裡の二階、そこは二十帖程の畳がしかれて学園の教室に続いていました。明け放たれた窓からは相模の川風が新鮮な緑の樹蔭を通って惜げもなく吹きこんで来ます。蝉しぐれの賑やかさはかえって環境の静寂さを感ぜさせられます。床の間に近い東の窓よりに机をすえられて、次から次にと忙しく筆を走らせておられます。それを枠に張付けて室いっぱいに並べられてお手伝いの千葉師が休みなく動いておられます。小僧さんも総動員で墨をすったり色々と手伝っておられます。他の机を持ち出して仏画のおけいこをする人もあり、からだの悪かった谷さんなど憚りもなく枠の間に寝ころんだりしておられ、次々と来られる訪問客も皆この室に通され仲々の混雑ではありましたが、その中にどことなく引きしまった、しかも朗かな自由な気分が漲っていました。私は相かわらずお傍に侍して文鎮の役をつとめながら、色々お話をきかせて戴きました。

「如来様は時々わざとおすがたを隠してしまわれる事がありますね。丁度ヨチヨチ歩きの子供が母親に連れられて行くのに、あちこち珍らしいものに気を取られて仲々さっさと歩かない。すると母はわざと物かげに隠れてそっと子供の様子を見守っている。子供は初めは気がつかずよそ見をしているが、フト母の姿が見えぬのに驚いて急に母を求めさがす。今にも泣き出しそうになる。物かげからその様子を見ていた母は再び姿を現して。それだから余処見してはいけないよ。と諭す、その様に如来様はお慈悲に甘えて道草する子供に時々姿をかくされる」。

「この体は四百兆の細胞から出来ているという。たとえば宇宙全体(大ミオヤ)をこのからだとすれば一々の細胞は衆生である。このからだを外側から見れば一つの肉のかたまり、つまり物質にすぎないけれど、目をつぶって内観すれば全体はそっくり心である。頭を中心として各器官、統一ある秩序ある活動をしている。大ミオヤと衆生即ちわれわれとの関係は実に密接であって離す事の出来ぬのは丁度このからだをはなれて細胞なく、細胞を外にしてからだがない。その内の一つの細胞が傷をしてもからだ全体がその一ケ所のいたみの為に全力を尽す。即ち足は母の所または医師の許に走り手は傷をおさえ、血は補装工事をなし口は声を出して人に訴え眼から涙が出る等々、これと同じく一細胞である私は決して一人ぼっちではない。大ミオヤは私一人の悩みの為に宇宙全体をあげて慈悲を垂れて下さる」。

何という勿体ない事でしょう。このつまらぬ身を育てんとかくも大み心を砕かせ給う、孤独の殻に自らをとじこめて、この身を軽んじては勿体ない。またいたずらに卑下してはいけない大いに自重すべきを悟らせて戴きました。

「幾千万年を経て、アミーバ底の単細胞から人間にまで進化して来たと進化論はいう。今その道程を、人の子は母の胎内に一細胞として宿ってから、わずかに十ヶ月間にその道程を経て人の子として生まれ出る。また過去千年の間も続いていた暗でも、ろうそく一本ともされる事によって一瞬にして消滅する。お念仏申せば、み仏の胎内に宿るが故に、このつまらぬ凡夫が仏の子として生まれる事が出来るのである。凡夫の無始の無明も如来の光明に照らさるれば即時明るい心になる」。

「お念仏を申せば仏になるというこの簡単な有難い(最勝最易の)真理もこれを見出し、ここまで開拓されるには釈尊及び代々の祖師方の長い間の御苦心がこめられている。しかし私達はその釈尊や祖師方と同じ苦心をせねば悟りを得られぬというのではない。その開拓して下さった道を素直に通ればよいのである。ここに他力の教えの尊く優れておる所以がある」。

お念仏申す身になった事は何と有難い事でありましょう。いつも承ります汽車のたとえ、「京都から東京へ行くのに汽車を信じなければ自力で五十三次を歩まねばならない。然るに汽車を信じて身も心もそっくり任せてしまえば楽々と眠りながらでも一夜にして目的地に達する事が出来る」。そのように自力で悟る力のない者は、御救いの汽車にすべてをお任せするばかりである事をわからせて戴きました。また、

「敵をほろぼすのには先ずその根城を衝くべきで、いつまで雑兵を相手して、攻めても新手新手とやって来る。中心を失えば自然に滅ぶ。私共も煩悩悪癖にとりくんで、一つずつ除けようと努力しても後から後からと群がり起こるばかりで限りがない。それよりも、身と心をそっくり大ミオヤに帰命すれば、あとは自然に解決がつくものである」と仰せられました。

私が教育の仕事にたずさわっていた為か、よくその方面のお話が出ました。

「教育の要諦は開発と霊化にある。人には種子のように育てれば芽を出し花を咲かせる。これは種を割ってもどこにも花となり枝となるものがある事はわからないが、地にまき水や熱が加われば芽ばえをみる、縁にふれて開発される部分である。また丁度栗のいがのような、柿のしぶのような、ぬぎすてねばならぬ煩悩をもっている。これは光によって霊化されていく部分である。この頃、自学自習など新しい主張もあるがこの両方面を見ていかなければ本当の教育ではない。霊化とは決して無理に悪質煩悩を取りのぞく事ではなくて、お光に育てられる事によって、おのずとその必要がなくなって来る。丁度柿の実も未だ幼い時は渋という煩悩によって守られているが親木に育てられて来ると自然に渋もぬけ甘くなって来る。栗のいがでも初めは実を育てるために必要なもので、中の実が熟して来ればひとりでにのぞかれる。私達も中実が熟せぬうちは煩悩も必要なのである。幼い子供が危ない刃物など持って遊んでいる時、あぶないと無理に取り上げようとするとかえって渡すまいとにぎりこむから尚危ない。他のよいものを示すと持っていたものは自然に捨てて新しいよいものを手に取るように、大ミオヤの御育てによってよりよいものを見つけ戴く。煩悩の必要がなくなって来る事が大切である」。

(つづく)

カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」

ご回向いたしましょう

今年は、法然上人が亡くなられてから八百年、大遠忌(だいおんき)の年にあたります。法然上人は、その御遺訓(ごゆいくん)の「一枚起請文」の中で、どんなに学んでも「一文不知」であると反省されております。
東日本の大震災の報道を見て、私達は「大震災」の事がわかったと思いがちです。しかし大震災を自ら経験した人と、していな人では、大きな差があります。実際被災した人にしか分からない苦しみ悲しみがあるのです。せめて、自らの身に置き換えて思いやりの心をもって接していくのが大切だと思います。
金銭的な支援も大切なことですが、心の支援もまたなによりも大切な支援の一つです。私達はよく、「受け止め方次第で人生は変わる」と言います。しかしたとえ、冷たい氷を温かな火と受け止めても、私達の体は温かくはなりません。それと同じように、辛い体験や心の傷は、そのままでは心を癒してはくれません。
御忌法要では、私達がお念仏をし、その功徳を被災者に回向(回し向ける)することによって、阿弥陀様の温かな光を被災者の方々に届けていきたいと思います。生きた人にも亡くなった人にも届く温かな光が一人でも多くの方々に届くように、そしてまた私達の思いやりの心が育っていくように、お念仏をしたいと思います。皆様の御参詣をお待ちしております。

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見えないのに見えている

私達は通常、視覚は一つだと思っています。しかし最近の研究で、視覚には大きく分けて二つあることがわかってきています。1
一つの視覚は私達が通常視覚と思っているものです。これは意識することができます。
しかしもう一つの視覚は意識できません。この視覚は運動を司っています。私達がコップを持とうとするとき、身体とコップの距離を瞬時に計って、正しくコップを持てるように身体を導いているのです。
このように私達人間には、意識できない視覚があることがわかってきたのです。意識できないということは、本当は見えているのだけれども見えているとわからないということです。
仏教には意識を超えた視覚が説かれています。私達は、阿弥陀様や亡くなった人の心は見えないものと思っています。しかし私達は仏壇の前に座り、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と真心を込めてお念仏するとき、見えているとは意識できないけれども、阿弥陀様の御心や亡くなった人の真心をぼんやりとですが見ているのです。目だけではなく、聞こえているとは意識できないけれども、導きの声や優しく語りかける真心の声を微かですが聞いているのです。
特に、阿弥陀様の御心を見ることを正知見(しょうちけん)といいます。南無阿弥陀仏の一声一声によって、私達は阿弥陀様に導かれて正しい行いが少しずつできるようになってきます。ついつい悪い行いをしてしまったときには懺悔できるようになってきます。よし次こそはと発願(ほつがん)することができるようになっていくのです。

  1. 『もうひとつの視覚―〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』
    メルヴィン・グッデイル (著), デイヴィッド・ミルナー (著), 鈴木 光太郎 (翻訳), 工藤 信雄 (翻訳) を参照 []
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暗黙知

ハンガリーの哲学者マイケル・ポランニーの有名な言葉に「暗黙知」(あんもくち)があります。暗黙知とは、言葉では説明できないような知識を意味しています。たとえば、自転車の乗り方は、言葉ではとても説明できません。お父さんやお母さん、お兄ちゃんやお姉ちゃん、そして友達をお手本として、こけたり、すりむいたりしながら、練習してやっと自転車に乗れるようになります。このような「暗黙知」に目をむけていきますと、料理だってそう、畑仕事から営業のお仕事、車の運転にいたるまで、私たちの周りは言葉では表現できない知識に溢れていることがわかります。
また、最近の研究で、この「暗黙知」と「直感」に深い関係があることがわかってきました。「直感」というのは、「理由はよくわからないけれども、こっちの方が正しいような気がする」というような感覚の事です。経験がないとただの当てずっぽうになりますが、経験を積んだ人の直感は、たとえ根拠がないように見えても正しいことが多いのです。
お念仏も実践が大切です。実践によってしか、つちかわれていかない尊い智慧があるのです。お念仏の経験を積んだ人は、ささいな決断によって、知らず知らず人生が良い方へ導かれます。また本当に困ったときに、重大な決断にせまられたとき、正しい決断をすることができるようになります。
お念仏をお称えしても何もかわらないんじゃありません。気づかず阿弥陀様が助けてくださるから、「おかげさま」というのです。

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真心に阿弥陀様をお迎えしましょう

阿弥陀様は、心から信じ願って私の国(極楽)に生まれたいと欲したならば、一生涯を尽くすお念仏から十声一声のお念仏であっても、必ず往生すると誓われています。
その誓いに大安心を得て、この愚かな私を救って下さる阿弥陀様を親のように思い定めて、阿弥陀様に恥じないよう、阿弥陀様に喜んでもらうように生きていくことが大切です。
十声のお念仏で救って下さるから、困ったときや臨終に十声のお念仏をお称えすれば良いというような心持ちではいけません。
そのような考えの人が多くなったので、お念仏の教えが「亡くなった人の為」だけのようになってしまいました。誠に残念なことです。
御葬式や、法要や法事も亡くなられた方の為だけに勤めているのではありません。
亡くなられた方々を思う真心を縁として、私達が、命の根源にまします阿弥陀様に繋がってくのです。
阿弥陀様は、お寺の本堂や、お仏壇の中だけの存在ではありません。私達の真心に阿弥陀様をお迎えしなければなりません。
そしてお迎えすることができたならば、私達は阿弥陀様にいつも護られていると感じることができます。
もちろん、私達は仏の子といっても(宗教的には)子供なのですから、悪いこともしてしまいますし、為すべき事を為さないこともあるでしょう。
しかし、阿弥陀様を親のように思って心にお迎えできた時、私達の心はそれだけで大きく変わっていき、大安心の中にありながら、どこまでも至らぬ私に懺悔する心が起こります。
そして南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とお称えするその真心に阿弥陀様が感応し、この私が良きに良きにと育てられていくのです。

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