熊野好月著『さえられぬ光に遇いて』10
随行記(つづき)
こうして信仰上のお育ても、聖者御自身のお考えで引きずられるような主義でなく、ひとりでに悟り、精進せずにはいられぬ様にお仕向けになるのでした。その頃一にも二にもデモクラシーという事が主張されまして私も共鳴とまではまいりませんが、あたり前の事だ、位に思っていました。それに対して、
「近頃デモクラシーという事がいわれているが思いちがいしている人が多い。喩え話に、一匹の蛇がいて、尻尾の方が考えるに、「頭の奴はいつも威張って、すきな処へ行き、旨いものは皆自分でたべてしまう。そしてわたしをいつも奴隷のようにひっぱり歩く、こんな不公平な事はない。私がついていかねばどんなに困るか思い知らせてやろう」と、謀反をおこし、木に尻尾を巻きつけて動こうとしなかった。頭は困って色々言ってみるが一向動こうとしない。食べ物をさがして歩く事も出来ず、蛇は段々弱って来た。仕方なくそれでは今日からお前がさきに行く事にするからという事になり、尻尾はそれみた事かと大威張りで先になって動き出したが眼のない悲しさ。大きな穴があるのがわからず、ついに落ち込んで死んでしまったという事である。頭には頭の役があり尻尾には尻尾の役目がある」
と申されまして独尊、統摂、帰趣は大宇宙の真理である事を説き私達の思いちがいを正して下さいました。
「この頃何でも多数決多数決といって事のよし悪しを多数決できめようとするがこれもほんとうによいとは言えない。五人の人が賛成し六人が不賛成の時、その事がどんなに正しい事であっても否決されてしまうのはまことに不合理といわねばならぬ」
と仰せられ、如何なる場合にも私心をはなれた、如来様のみ心を心として、即ち正見に住したものでなければならぬ事を悟らせて下さいました。世の風潮にも支配されず、つねに神聖正義の自在無礙の御心境よりあふれ出ずる御識見に、わからぬながら頭が下るのでありました。
元来、私は自分に対してもまた人に対してもあまりに是非善悪の批判に捕われすぎて、ゆったりした心境に住する事が出来ず、善いといえばまあよかったと腰をすえ、悪いといえば寧ろ憎しみの心をもってこれに対する。周囲には否定すべき事が(あれもいかんこれもいやだと)充満しているようでした。つまらぬ自己の存在すら否定したくなり、厭世の思いを起こした事もありました。お上人様の三業四威儀1の御手本によりまして、世の中が急に広々としたように思いました。即ちお上人様はどんな事でもどんな物でも否定なさる事とてありません。何でも善いと悪いとにわけるべきではなく、ただ不完全なものが、意識的にも無意識的にも完全になろうなろうと努力しているのがこの世の有様である事を悟らせられ、何一つ無意義な存在はないので、価値なくみえ無意義にみえるのは、見る人の心が未だ幼くて大ミオヤ様の御むねがわからぬからだと悟りすべてを合掌すべきである事を知りました。
ある日の事です。例によって皆様と御一所に画室でお手伝いをしておりました。お観音様のお姿が描きかけてありました、大切な絵絹に、何とした事かあやまって墨が落とされたのでありました。これは大変と、顔色もかわる程驚いているのを机の前からご覧になったお上人様、何でもないかのように、否むしろそこが一つの目じるしで丁度よかったというようなご様子で、そこに見事な瓔珞のかざりをお描きになり、それについて何のお言葉もこざいませんでした。お側のものがどんなしくじりをしても「これは困った」とか「如何しようか」など行きづまりの言葉など一度ももらされた事はございません。「仕方がない」とか止むを得ぬなどの消極的なお言葉すら伺った事はありません。私達がどんなつまらぬ事を申し上げてもそれがいいですねとか、それでいいのですとばかり申されますのに、なぜかそのお言葉の中に、よりよいものを見出し、向上せずにおられぬような心持にならされてしまう不思議さ。これは全くお言葉でなく御身での説法だったのでございます。
ある時、絵筆をおいて、「あんたに見せたいものがある」としきりに図書棚をさがしていらっしゃいましたが、やがて取り出されたのは『元亨釈書』2という御本でした。その頁をバラバラと繰って、やがて「ここを読んで御覧」と申されますので、早速拝読しました。むずかしくてよくはわかりませんでしたが、何でも初めて仏教が渡来した頃の事、三人の尼さんの尊い事績が色々と書いてありました。数日して、お礼申してお返しいたしました所、「読みましたか」と聞かれますので「ハイ」と申しますと、「どう思うか」と仰せられましたので、「私もこうした道を辿らせて戴きとうございます」と申し上げますと御満足げにニッコリとお笑いになりまして「初めて日本に仏教をひろめたのは女の人達であった」と仰せられました。ある時しみじみと「女の伝道する人がほしい」とも仰せられていました。このお言葉を気にして、私は極端な卑下の心から、自分如きものがどうしてそんな大それた望みがもたれようかと思い、ハッキリとしたお返事が出来なかった事を今に忘れる事が出来ませぬ。またある時は将来光明主義を伝道する青年がほしい。谷さんや松井さんやあなたの弟(亡弟)など弟子になってくれないであろうか。伝道する人は、光明歎徳章がはっきりわかりさえすれば、他にむずかしい事はいらぬのです……などいつになくしんみりとお話し遊ばした事もありました。その年のうちにお浄土にお帰りになろうとは夢にも思いませんでしたが、その時の御面持は今に忘れる事が出来ません。
またある日、村の人たちがたくさん参詣して法要が本堂でつとまりました。お上人様もお出ましになってそのお法話の中に「この村の中で一人でもお念仏を申さぬ人があるなら、それは弁栄の罪である」と仰せられたとの事、拝聴していた谷さんが、出て来られて、実に腹を絞るようなお言葉を承ったと感激して話されました。あの「急がねば日が暮れる」云々のお言葉も、この時かと承っております。
やがて日がかくれる事も気付かず、いかにも暢気に遊び暮している私達をどんなにあわれと思し召した事でありましょう。申し訳もない事でございます。
この平和な、さながらお浄土のような生活を驚かせた訪問者がありました。それは人目にも分かるお腹をかかえた婦人をつれたTさんという人で、千葉師のお話によりますとこの人は嘗ては熱烈な念仏三昧を行じた人である所で念仏中、「我仏となれり」という自覚(?)をもち、よろこびの余り諸処の知人に打電されたというエピソードをもった人だそうです。婦人は篤信者を親にもった方で三人も子供をかかえた未亡人で、ふとした事からねんごろな仲となられたとの事。そのお二人がまたもや、今になって別れ話が一方から持ち上がり、思案に余って、お上人様に解決して戴くために連れ立って来られたとの事。千葉師はこのおいそがしい貴重なお時間をつまらぬ事でお費やさせ夜は夜通し隣室で口あらそいをしておやすませしない勿体ない、お上人様をお煩わせしなくとも……と申しておられました。お話をきかれて翌日また連れ立って帰って行かれました、如何されましたやら、入会日も浅いこの身には、一種奇異な思いがいたしましたが、また一面よいお誡めを私にして下さいました。一時どんなに熱烈な信仰をもってもどこまでも謙虚でお念仏をあくまで続けなければ、ついには似而非なる魔道におちるという事を。
またある時実際にあった事として、こんな話をして下さった事もあります。埼玉県のある寺で明治の初め所謂、廃仏毀釈で仏像を粗末にした時代の事、住職が「つまらぬ、役に立たぬ仏像などこわしてしまえ」といってこれをたたき毀し、割木にして風呂の下にたいて入った所が、その坊さんはたちまち黒焦になって死んでしまった。それをみて皆驚きおそれ、残りの割木で仏像などたくさん作って大事におまつりしたという事である。私は何気なく「ひどい坊さんですね」と申し上げましたら、お上人様は「いやそうではない。この坊さんは当時の人が口で仏像を粗末にしてはいけないと説いても中々きかぬので一身を犠牲にして大切にしなければならぬ事を事実として教えたのでこれを逆説法という」と仰せられました。
私がその頃一番苦にしていましたのは現在の職業に一向興味ももてず、自信もなく、仕方なく引きずられておるような気持ちで、何か別にもっと生き甲斐のある価値のある仕事があるように思われて、落ちついた心になれなかった事でした。お上人様にその事を訴えますと「今やっておる事がつまらなく、他にもっとよい事があるように思うのは経に「鹿が水を求めて陽炎を追うが如し」といってあるようにどこまでいっても本物を見出し得ない。いつもむこうに陽炎がゆらいでいる、また丁度雲のように、これを遠方から望めば美しく形あるもののようであるが、雲の中に入れば遙か彼方から眺めたものとは似てもつかない。これといってつかみ所のない霧をみたよう、こんな筈はなかったといって失望してはまた他をあこがれ、どこへいっても得るものはなく行き詰る。要は心のむけ方一つである」とお諭し下さいました。
(つづく)
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