見えないのに見えている

私達は通常、視覚は一つだと思っています。しかし最近の研究で、視覚には大きく分けて二つあることがわかってきています。[※1]
一つの視覚は私達が通常視覚と思っているものです。これは意識することができます。
しかしもう一つの視覚は意識できません。この視覚は運動を司っています。私達がコップを持とうとするとき、身体とコップの距離を瞬時に計って、正しくコップを持てるように身体を導いているのです。
このように私達人間には、意識できない視覚があることがわかってきたのです。意識できないということは、本当は見えているのだけれども見えているとわからないということです。
仏教には意識を超えた視覚が説かれています。私達は、阿弥陀様や亡くなった人の心は見えないものと思っています。しかし私達は仏壇の前に座り、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と真心を込めてお念仏するとき、見えているとは意識できないけれども、阿弥陀様の御心や亡くなった人の真心をぼんやりとですが見ているのです。目だけではなく、聞こえているとは意識できないけれども、導きの声や優しく語りかける真心の声を微かですが聞いているのです。
特に、阿弥陀様の御心を見ることを正知見(しょうちけん)といいます。南無阿弥陀仏の一声一声によって、私達は阿弥陀様に導かれて正しい行いが少しずつできるようになってきます。ついつい悪い行いをしてしまったときには懺悔できるようになってきます。よし次こそはと発願(ほつがん)することができるようになっていくのです。

  1. 『もうひとつの視覚―〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』
    メルヴィン・グッデイル (著), デイヴィッド・ミルナー (著), 鈴木 光太郎 (翻訳), 工藤 信雄 (翻訳) を参照 []
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