弁栄聖者の俤(おもかげ)15

熊野好月著『さえられぬ光に遇いて』9

随行記(つづき)

仮の画室にあてられた庫裡の二階、そこは二十帖程の畳がしかれて学園の教室に続いていました。明け放たれた窓からは相模の川風が新鮮な緑の樹蔭を通って惜げもなく吹きこんで来ます。蝉しぐれの賑やかさはかえって環境の静寂さを感ぜさせられます。床の間に近い東の窓よりに机をすえられて、次から次にと忙しく筆を走らせておられます。それを枠に張付けて室いっぱいに並べられてお手伝いの千葉師が休みなく動いておられます。小僧さんも総動員で墨をすったり色々と手伝っておられます。他の机を持ち出して仏画のおけいこをする人もあり、からだの悪かった谷さんなど憚りもなく枠の間に寝ころんだりしておられ、次々と来られる訪問客も皆この室に通され仲々の混雑ではありましたが、その中にどことなく引きしまった、しかも朗かな自由な気分が漲っていました。私は相かわらずお傍に侍して文鎮の役をつとめながら、色々お話をきかせて戴きました。

「如来様は時々わざとおすがたを隠してしまわれる事がありますね。丁度ヨチヨチ歩きの子供が母親に連れられて行くのに、あちこち珍らしいものに気を取られて仲々さっさと歩かない。すると母はわざと物かげに隠れてそっと子供の様子を見守っている。子供は初めは気がつかずよそ見をしているが、フト母の姿が見えぬのに驚いて急に母を求めさがす。今にも泣き出しそうになる。物かげからその様子を見ていた母は再び姿を現して。それだから余処見してはいけないよ。と諭す、その様に如来様はお慈悲に甘えて道草する子供に時々姿をかくされる」。

「この体は四百兆の細胞から出来ているという。たとえば宇宙全体(大ミオヤ)をこのからだとすれば一々の細胞は衆生である。このからだを外側から見れば一つの肉のかたまり、つまり物質にすぎないけれど、目をつぶって内観すれば全体はそっくり心である。頭を中心として各器官、統一ある秩序ある活動をしている。大ミオヤと衆生即ちわれわれとの関係は実に密接であって離す事の出来ぬのは丁度このからだをはなれて細胞なく、細胞を外にしてからだがない。その内の一つの細胞が傷をしてもからだ全体がその一ケ所のいたみの為に全力を尽す。即ち足は母の所または医師の許に走り手は傷をおさえ、血は補装工事をなし口は声を出して人に訴え眼から涙が出る等々、これと同じく一細胞である私は決して一人ぼっちではない。大ミオヤは私一人の悩みの為に宇宙全体をあげて慈悲を垂れて下さる」。

何という勿体ない事でしょう。このつまらぬ身を育てんとかくも大み心を砕かせ給う、孤独の殻に自らをとじこめて、この身を軽んじては勿体ない。またいたずらに卑下してはいけない大いに自重すべきを悟らせて戴きました。

「幾千万年を経て、アミーバ底の単細胞から人間にまで進化して来たと進化論はいう。今その道程を、人の子は母の胎内に一細胞として宿ってから、わずかに十ヶ月間にその道程を経て人の子として生まれ出る。また過去千年の間も続いていた暗でも、ろうそく一本ともされる事によって一瞬にして消滅する。お念仏申せば、み仏の胎内に宿るが故に、このつまらぬ凡夫が仏の子として生まれる事が出来るのである。凡夫の無始の無明も如来の光明に照らさるれば即時明るい心になる」。

「お念仏を申せば仏になるというこの簡単な有難い(最勝最易の)真理もこれを見出し、ここまで開拓されるには釈尊及び代々の祖師方の長い間の御苦心がこめられている。しかし私達はその釈尊や祖師方と同じ苦心をせねば悟りを得られぬというのではない。その開拓して下さった道を素直に通ればよいのである。ここに他力の教えの尊く優れておる所以がある」。

お念仏申す身になった事は何と有難い事でありましょう。いつも承ります汽車のたとえ、「京都から東京へ行くのに汽車を信じなければ自力で五十三次を歩まねばならない。然るに汽車を信じて身も心もそっくり任せてしまえば楽々と眠りながらでも一夜にして目的地に達する事が出来る」。そのように自力で悟る力のない者は、御救いの汽車にすべてをお任せするばかりである事をわからせて戴きました。また、

「敵をほろぼすのには先ずその根城を衝くべきで、いつまで雑兵を相手して、攻めても新手新手とやって来る。中心を失えば自然に滅ぶ。私共も煩悩悪癖にとりくんで、一つずつ除けようと努力しても後から後からと群がり起こるばかりで限りがない。それよりも、身と心をそっくり大ミオヤに帰命すれば、あとは自然に解決がつくものである」と仰せられました。

私が教育の仕事にたずさわっていた為か、よくその方面のお話が出ました。

「教育の要諦は開発と霊化にある。人には種子のように育てれば芽を出し花を咲かせる。これは種を割ってもどこにも花となり枝となるものがある事はわからないが、地にまき水や熱が加われば芽ばえをみる、縁にふれて開発される部分である。また丁度栗のいがのような、柿のしぶのような、ぬぎすてねばならぬ煩悩をもっている。これは光によって霊化されていく部分である。この頃、自学自習など新しい主張もあるがこの両方面を見ていかなければ本当の教育ではない。霊化とは決して無理に悪質煩悩を取りのぞく事ではなくて、お光に育てられる事によって、おのずとその必要がなくなって来る。丁度柿の実も未だ幼い時は渋という煩悩によって守られているが親木に育てられて来ると自然に渋もぬけ甘くなって来る。栗のいがでも初めは実を育てるために必要なもので、中の実が熟して来ればひとりでにのぞかれる。私達も中実が熟せぬうちは煩悩も必要なのである。幼い子供が危ない刃物など持って遊んでいる時、あぶないと無理に取り上げようとするとかえって渡すまいとにぎりこむから尚危ない。他のよいものを示すと持っていたものは自然に捨てて新しいよいものを手に取るように、大ミオヤの御育てによってよりよいものを見つけ戴く。煩悩の必要がなくなって来る事が大切である」。

(つづく)

カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」

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