Google XML Sitemaps のエラー

WordPress のプラグイン Google XML Sitemaps をインストールしサイトマップを作成したところ、

There was a problem writing your sitemap file. Make sure the file exists and is writable.

というエラーが出ました。

Webで検索してみると同様の問題がでている人が多数いましたので、そこで示されていた解決策を参考に”sitemap.xml”という空ファイルを作成し、FTPでアップロードして、パーミッションを666に変更してみました。
すると、

500 ‘SITE CHMOD 666 tmp’: command not understood

とエラーがでて、パーミッションを変更できません。

さらに調べてみると、レンタルサーバーのコントロールパネルから設定できるという情報があったので、そこからFTPにアップロードした”sitemap.xml”を変更可にしてみました。
そうして試したところ無事作成することができました。しかし今度は、

Bing への通知中に問題が発生しました。

というエラーがでます……

でも、これは気にしなくて良いという情報があったので安心しました。
今のところ問題はなさそうです。

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自閉症とマインド・ブラインドネス01

人間が心を読むシステムの分離した4成分

  1. 意図の検出器(ID)
    Intentionality Detector。心の状態を読むために現代人の乳幼児に生得的に備わっている行動の一部。視覚と触覚と聴覚で働く。欲求や目的という意図的な心の状態の観点から刺激を解釈している。
  2. 視線の検出器(EDD)
    Eye-Direction Detector。現代人の乳幼児が進化による賦与の一部として有している仕組み。行為者が何を見ているかという観点から刺激を解釈している。
  3. 注意共有の仕組み(SAM)
    Shared-Attention Mechanism。三項表象を形成する。[行為者/自己‐関係‐ (自己/行為者‐関係‐命題]。例えば[ママは -見る- (私は -見る- バス)] 。
  4. 心の理論の仕組み(ToMM)
    Theory-of-Mind Mechanism。は行動からすべての心の状態を解釈するためのシステム、すなわち「心の理論」を用いるためのシステム。

『自閉症とマインド・ブラインドネス』サイモン バロン=コーエン (著),
長野 敬 (翻訳), 今野 義孝 (翻訳), 長畑 正道 (翻訳)

人間には、心は見えません。しかし人間は人の心を読むことができます。サイモン バロン=コーエンによれば、それは人間が生得的にもっている4つのモジュール(装置)のはたらきであるといいます。
これらのモジュールは親とのふれあいの中で発達していくのでしょう。
ただ、自分の子供がイナイイナイバーを好むのは、EDDというモジュールを生得的にもっているからだと言われると、なんだか人間を機械のようにみていてさみしい気がするのも事実です。

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量子力学の哲学01

■量子力学の哲学における4つの課題

  1. 測定前の物理量は確定した値をもつか(実在するか)
  2. 非局所相関はあるのか(空間的に遠く離れたものどうしが一瞬で影響を与え合えるか)
  3. 射影公理をどう扱うか(状態の収縮をどう扱うのか)
  4. 4.粒子と波の二重性をどう考えるか

■標準的な解釈

  1. 測定前の物理量は実在しない、もしくは測定前の物理量について議論することは無意味である。
  2. 非局所相関はある
  3. 射影公理を認める
  4. 粒子と波の二重性を認める
  5. ある物理量がある測定値を得る確率は、「ボルンの規則」と呼ばれる規則によって計算される

『量子力学の哲学』
――非実在性・非局所性・粒子と波の二重性
森田 邦久 (著)

この箇所での考察すべきことは、「実在」という言葉がいかなる意味で使われているかだと思います。
もう1点重要だと感じたことは、たとえこの場合の「実在」が定義できたとして、ある物量が「実在」するとはいえないと結論づけられたとしても、
それは、「実在」しない事を意味しているのか、「実在」しないということも言えない事を意味しているのかを明確にしなければならないということです。

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玲瓏集

一切衆生悉く仏性あり
【中略】
座の周りに数多くの鏡を掛け、中心に灯りを一つ置くと、どの鏡にも、灯りが一つずつ見えます。灯りは一つしかないのですが、鏡にはそれぞれ灯りが映るのです。仏性もただ一つですが、それがすべての生き物、十界の鬼畜生にまで、みんな与えられていることをたとえていったものです。

不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7)
沢庵 宗彭 (著), 池田 諭 (翻訳) より

仏性は1つであるという解釈があるのは知っていましたが、沢庵和尚が紹介している『華厳経』を用いた譬えは非常にわかりやすく、一切衆生に悉く仏性がある根拠を明瞭に示していると感じました。

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不動智神妙録02

千手観音の不動智
千手観音だとて、手が千本おありになりますが、もし、弓を持っている一つの手に心がとらわれてしまえば、残りの九百九十九の手は、どれも役にはたちますまい。一つの所に心を止めないからこそ、千本の手が皆、役に立つのです。
いかに観音とはいえ、どうして一つの身体に千本もの手を持っておられるのかといえば、不動智を身につけることができれば、たとえ身体に千本の手があったとしても、立派に使いこなせるのだということを人々に示すために作られた姿なのです。

不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7)
沢庵 宗彭 (著), 池田 諭 (翻訳) より

善導大師の『往生礼讃』には「観音菩薩」の徳を「恒舒百億光王手」と讃えています。沢庵和尚の解釈は、なるほどと思う反面、はやりどんな人でも救おうとされて百億の光り輝く手を差し伸べておられる観音菩薩こそ慈愛に満ちたお姿のように感じるのではないでしょうか。
そのように考えると、確かに不動智といのは、多くの衆生を救うための根拠にはなる智慧ではありますが、観音菩薩の偉大さは、どこまでも大慈悲にあるように感じられるのです。

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IEにbox-shaow を適用させる。

大願寺の現在のホームページはCSS3で記述されているため、Internet Explorer ver.8 以下ではいろいろな問題が発生しました。
特に、box-shadowは、効かないだけではなく、boxの中身の文字だけに効いたりして、表示が著しくみだれてしまって困りました。
そこで、CSS3PIEというのを導入してみました。
するとIEでもなんとか表示することができるようになりました。
しかし調子にのってしまい、すべてのbox-shadowにcss3pieを適応すると、wordpressのプラグインとコンフリクトしてしまいjavascriptが正常に機能しなくなってしまいました。そこでどうしても必要な2箇所のみに、CSS3PIEを適応したところきちんと表示されるようになったので一安心です。

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不動智神妙録01

不動明王の教え
諸仏不動智
諸仏不動智という言葉があります。
不動とは動かないということ、智は智恵の智です。動かないといっても、石や木のように、全く動
かぬというのではありません。心は四方八方、右左と自由に動きながら、一つの物、一つの事には決
してとらわれないのが不動智なのです。

不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7)
沢庵 宗彭 (著), 池田 諭 (翻訳) より

不動明王は一般的に、仏教守護の一面が強調されていますが、その名前の通り内容においては不動智を示すものであると、沢庵和尚は解説されています。
仏像ブームが続いている昨今ですが、深く仏教的な見方をする事も大切に思われます。

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年頭所感

(財団法人)光明修養会理事長
       金田 隆栄

南無阿弥陀仏
あけましておめでとうございます。
 新しい年を迎え、皆様と共に如来さまの光明の中で、今年もお念仏が出きますこと、心から有り難く思っております。
 さて日本は昨年も一昨年も、経済的にも精神的にも不安定な光の見えない年でした。
弁栄聖者が御弟子の山崎弁誡上人に、
 「現在を通じて永遠の光明主義。永遠の現在主義、如来の大光明主義。もしこの光明をもって国人を照すにあらざれば、日本は闇黒の四趣界に化し去らん」
と仰せになっておられます。
 四趣界とは地獄、餓鬼、畜生、修羅の事で、如来の光明で日本を光明界にしないと増々闇黒界になると警告されているのです。
 弁栄聖者の百回忌が六年後に迫っております。その大法要を厳修する事も大切ですが、同時に聖者の百回忌までに、先ず日本を光明界にするんだと、心ある光明会会員が、各々その目的の為に努力することが、弁栄聖者報恩感謝の為にも大切ではないでしょうか。
 人間の力には限界がありますが、私たちには阿弥陀仏をはじめ諸仏諸菩薩諸天善神が護念しておるのだと信じ、積極的に行動して行きたいと思います。
 今年は巳年、今の日本を光明界に脱皮させ、その巳のような執着心を仏おもいの心に霊化して、大ミオヤなる如来様をお慕いして離れず、執持名号一心不乱に念仏し、光明会会員の意気込みを全国に見せて行こうではありませんか。
 最後になりましたが全国光友皆様と共に、この日本を光明界にするべく、各自が如来様より与えられた使命を着実に実行していくことを祈念しております。
合 掌

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名号の不思議05

声と実存

二十世紀最大の哲学者の一人であったカール・ヤスパース Karl Jaspers(1883-1969)は、かれの哲学の核に限界状況(極限状況とも訳される Grenzsituation の訳)がある。それは人間が究極において突きあたる壁のごときもの、同時にいかにしても脱することのできぬ根源的な場のことである。このような人間存在の根源的状況を提示することによって、それまで理性中心を誇っていた西洋的近代は転換を余儀なくせられるようになっていった。そして今や人間の生死、責罪(罪悪深重の凡夫)の自覚等が生じてゆくことになる。そこにはもはや人間の理性ではいかんともしがたい状況が出てきたのである。ヤスパースはそのような人間のあり方を Existenz とよんでいる。そしてその実存の自覚においてそれまで謳歌されてきた単なる人間中心主義は越えられて、ポストモダニズム(後近代主義)としての新しい次元に突入してゆく。今や人間の観念の所産としてしか考えられなかった超越者(神)が改めて人間実存の根底から露わになってくるのである。ヤスパースにおいては、それは包括者(あるいは包越者 das Umgreifende)としてあらわれてくる。その初登場は『理性の実存』(1935)においてである。ヤスパースの哲学はかかる意味において超越者の志向に連なっているのである。
かかる点からいえばヤスパースの哲学は「南無阿弥陀仏」(すなわち阿弥陀仏への帰依(南無))とその動向において軌を一にしているということができる。ヤスパースも南無阿弥陀仏それ自体については知らなかったとはいえ、それへの根本的志向がなされていたことも考えられる。
また包括(越)者という概念も、それまでのキリスト教的な一神教の立場を超えてむしろ仏教における超越しつつ遍在する法身(法界身)と対応してゆく点も考えられる。
かくてヤスパースの哲学における実存には閉鎖された自己としてではなく、超越すること自体にその全内容が貫かれている。
そして今やヤスパースにおいて理性自体もまた変容し、神を排除する理性(それはL・フォイエルバッハやK・マルクスの哲学に総決算され、そこで神が消滅してゆく)の立場を超えてより高次の哲学が生まれるようになる。それがいわゆるヤスパースの「哲学的信仰」 (das philosophishe Glaube)の立場に他ならない。それは信仰とはいえ哲学的信仰であり、それは私たちにとっても基本的前提となるものではあるが、それはたとえば死という限界状況、あるいは罪悪深重の凡夫という限界状況に面して、更にそれを突破し、超越の世界へと飛躍してゆく意志に他ならない。大乗仏教においてはそこに「声」の立場がより根源的な契機として注目されるのである。
インドにおいて大乗仏教の登場とともに光(光明)が次第にクローズアップされていったが、また声(音声)が次第に強調されてゆくようにもなる。
そして人間的実存にとってその声の決定的なはたらきをもって私たちの実存そのものを根底から揺るがし転換せしめてゆくのである。そこには大乗仏教がヤスパースの哲学をも超え、死や罪悪といった限界状況をも超出してゆくのである。
ここに改めて「声と実存」が今や最大のテーマとなる。
声とはふつう、私が発する声として深く考えられることがない。しかしながら声そのもの、そしてそれを聞く耳も、その成立の背景は甚深にして微妙である。
すでに弘法大師空海はその著『声字実相義』において声字がそのまま大日如来の本体としての実相であることを述べているのであるが、そうだとすると私たちの発する単なる声でしかないところのものにも実に大日如来が現前しているのである。
その声はまた『無量寿経』(巻上)において、

正覚大音 響流十方
(正覚の大音、響、十方に流る)

すなわち釈尊の覚りの内容がそのまま大音となってその響が十方に遍在して流れていることが説かれてもいる。
この大音はまたそのまま極楽世界において音声そのもとなって展開せられている。浄土とは光(明)の世界であるが、またそのままが音声となって響きわたっている音声空間でもあり、聴空間(Hörraum)でもあり、そしてその音声が私たちを覚りへと導いてゆくのである。この経では、その声について、仏声、法声、僧声、寂静声、空無我声、大慈悲声、波羅蜜声、十力無畏不共法声、諸通慧声、無所作声、不起滅声、無生忍声、乃至甘露灌頂衆妙法声等、と音声の限りを尽くして展開するのであるが、それはヤスパース流にいえば包括(越)者が音声となってはたらいていることも考えられる。そこではたとえば「空声」が説かれているが、かかる「空声」は『般若心経』における「色即是空、空即是色」がそのまま「声は空にして、空なればこそ声なれ」としての「空声」が天地に響きわたっているのである。そしてかかる「空声」が私たちの理性の立場をも突破して「声即是空、空即是声」としての南無阿弥陀仏の声ともなって発現してくるのである。その空が発現してくる時、それは声として発現する他ない実相が考えられる。かかる空声(妙有声)が南無阿弥陀仏の名号となって私たち迷妄の凡夫たる人間的実存の上にもはたらき私たちを突破し、開覚せしめてゆくのである。
南無阿弥陀仏は「色即是空、空即是色」の実践と異なるものではない。それは「南無阿弥陀仏」における「アミタ」 amita が私たちの軽量分別を超えた「色即是空、空即是色」の世界を意味し、それに帰依し、没入し、一体化してゆく「南無」のいとなみは、そのままが「色即是空、空即是色」の実践としての「行深般若波羅蜜」のことに他ならないからである。
かくて「空声」とは空なる声として轟きわたっているところの大音声のことに他ならず、それが私たち限界状況の中に閉ざされている実存を突破して響きわたるのである。
『無量寿経』(巻上)には四十八願が説かれている。その中の第34・35・36・37また第41・42・43・44・45の願、そしてまた第47・48の計十一個の願はくり返し「我が名字を聞きて……」が説かれている。その中でもその第四十八願は、「わが名字を聞きて第一、第二、第三法忍に至る……」ことが説かれているが、万徳摂持の名号の故におのずとこの三法忍もが得られてゆくのである。極楽世界に響きわたる音声、それは宇宙に遍在する超越的な音声であるが、それが阿弥陀仏の名号となって私たちの宗教的実存における限界状況を突破して、聞名となり、また私たち自身の称名となってはたらき出るのである。
なお第四十八願としての聞名において開かれてゆくところの三忍とは、音響忍、柔順忍、無生法忍であるが(忍は悟り)これら三忍の最初に音響忍がおかれていることも聞主体としての宗教的実存との深い関わりが存している(なお音響忍については大正大学教授戸松啓真師の古稀記念論文集所収の拙論「音響忍論考」を参照)。
なおかかる包括(越)者の音声は現世界を超えてただ極楽世界にのみ響きわたっていて、現世界に属するものではないとする(二世界主義)的)事柄ではなく、ほんとうは私たちの現世界をも貫いて響きわたっているのである。そのことはたとえば弁栄聖者の御歌、

あふりかの山の奥にも聞こゆらむ
風の音さえ般若波羅蜜

あめりかの山のおくにも聞こゆらむ
その風の音 般若波羅蜜

(道詠集三二頁)

にもみられる。そしてまた実に人間の発する「南無阿弥陀仏」の名号にも阿弥陀仏の超越的な音声が全面的にはたらいているのである。名号とはそこで超越(阿弥陀仏)が内在化し、私たち自身となってゆくところのものである。
それがヤスパースが目指した超越者へと開かれた宗教的実存の真実相に他ならない。
法然上人の弟子、重源は、みずからを「南無阿弥陀仏」と号した。ヤスパース流にいえばその実存が包括(越)者に向けられ、それを志向する者として近代をも突破した超越的実存そのものの命名ともいえる。同じく法然上人の指南を受けた明遍は最初は雑念妄念に苦しんでいたが、やがてみずからを「空阿弥陀仏」と号するにいたる。そこには、法然上人の念仏三昧の心境を歌った、

あみだ仏と心は西にうつせみ(空蝉)の
もぬけはてたるこゑ(声)ぞすずしき

の般若波羅蜜の空の境涯に通じてゆく宗教的実存が余すところなく表明されているのである。

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弁栄聖者の俤(おもかげ)25

◇〈聖者ご法話〉聞き書き その一(別時の説教)

〈つづき〉

▽二十二日
 個性は滅びない。個人となっている間に受けた業を以て死し、生死に流転する。
 声聞は小我を滅ぼして、宇宙精神と合一するを目的とする。その目的を達したのが羅漢である。羅漢は小我を滅ぼして、生死を解脱しているけれども、真如の徳を顕す事ができない。
 大乗の教えは、心を宇宙精神と合一せしめ、個性を仏にまで向上させ、仏陀としての働きをなさしめる。これを菩薩という。菩薩に五十一段の階位がある。
 声聞は個性を真空にし、無能にする。菩薩は仏の徳を体現する。
 (父病気の電報に接し、帰郷せしため、以下筆記を欠く。幸にも、後年、日高居士が、私の不在中に筆記されたものを、発表されたものが有るから、それを次に記す。)
 人間の肉眼は動物の眼と同じである。この眼だけではいかぬ。知識の眼が開かぬといかぬ。知識の眼だけではいかぬ。信仰の眼が開けねばならぬ。釈迦如来が出世せられて、信仰の眼を開く法を説かれた。
 子供が乳を飲んでいると、親の顔が見える様に育つ。生まれた初めは、眼が開いているけれども、親の顔が見えない。信仰も、これと同じである。人々は霊性を持っているけれども、そのままにして置いては、現れない。信仰によって育てなくては、霊性は現れぬ。仏性は卵の如く、温めねば孵らぬ。天の親様を一心に信仰すれば、仏性は立派に孵る。弘法大師の〈作と伝わる〉歌に、

空海の心の中に咲く花は
  弥陀より外に知る人はなし

 信仰により咲ける霊性の花は、弥陀より外に知る人はないという事である。このうま味は信仰の無い人には解らない。卵でも、ひなどりとなれば、親鳥のあとをつけて歩む。卵のままでは、ついて来ぬ。人も信仰に入り、霊性の眼を開けて頂けば、大み親の有難さが知れてくる。そして親のあとを従いて行くようになる。
 南無阿弥陀仏というは、ひなどりが親鳥の跡を従いて行くようなものである。信仰により、永生の霊が生きてくる。人間は形ばかりを自分と思うから、先が闇で淋しい。卵は、温めずに置けば腐る。信仰により、仏性がひなどりとなれば、卵の殻のような此の身から抜け出る。早く此の殻の身から抜け出て、殻に執着なき仏性のひなどりとならねばならぬ。観世音菩薩や文珠菩薩などいう「薩」は信仰なき凡夫の心である。信心ができ、大ミオヤの心が幾分でもうつれば菩薩〈菩とは悟り、薩は衆生〉である。菩薩にも色々あって、月に譬うれば、太陽の光を少しも受けぬのが、無信仰の人即ち新月である。少し光を受けると三日月となる。観音菩薩は十四日の夜の月の如く、諸仏は満月にあたる。観音様は、私共に、信仰すればこの様になるぞと、手本を見せて下さっている。観音様の宝冠に、仏様の御像を安置しているのは、心にいつも阿弥陀様を頂いている事を示す。
 弥陀の光明を得れば、誰も、かくなれるのである。観昔様のやさしい、お慈悲に満ちたお顔は、心の徳即ち心の相を表したものである。入信の初めは、赤子のようであるが、次第に親様の光を受けて育てられ、観音様のようになる。観音様は、私共信仰の人の大兄様でいらっしゃる。
 私共の肉体は太陽の光によって生かされ、精神は弥陀の光明によって活かされる。釈迦如来は、この光明を私共に知らしめんが為に出世なされたのである。お釈迦様は八十才で、お亡くなりなされたが、真のお釈迦様は阿弥陀様である。私共の心の親様は阿弥陀様である。それが信じられ、霊が活きて来れば、死ぬもので無い事が解ってくる。中味が死ぬから、それがわからない。身は大切であるが、中味を保つための殻である。中味は霊魂である。この殻の身を借りている間に、霊魂がひなどりとならねばならぬ。
 念仏の念の字は二人の心からなる。仏は心の親様。その親様が、いつも心にかかって忘れられぬのが念仏である。凡夫の心は煩悩である。自分勝手で、慈悲が無い。炭のように真っ黒である。炭に火がつけば赤くなる。冷たい炭が熱くなる。一心に念仏すれば、親様の智慧と慈悲とが、われらが煩悩の炭のような心に燃えつく。そうなれば、何となく有難く、楽しくなる。仏の御名を称えて念仏するのは、火をうちわであおる様なものである。あおげば、あおぐほど火が盛んになるように、至心不断に念仏すれば、如来の光明は心に燃え盛る。炭の無い処に火は燃えつかぬ。如来のお慈悲も、私共の煩悩の心に燃えつくのである。炭に火がつけば、火になる。炭と火が一つになる。炭だけでは冷たいけれども、火が燃えつけば、それに手をかざせば暖くてよい気持がする。心に如来の光明が燃えつくと、心が暖かく、楽しくなる。人に同情する心となり、如来様と親しくなる。
 英国のエリサベス女王は「もし霊魂を失わば、五大洲〈地球の五大陸〉を獲るとも、何かせん」といったそうである。霊魂を失うとは、死ぬ事をいうのではない。人間に生まれた真意を知らぬことである。信仰により、心の珠を研かぬと、何のために、此の世に生まれ出たかが解らぬ。ただ食べて生きるだけならば、犬猫と変わらぬ。人間は信仰により、霊にめざめ、大ミオヤの御許へ帰る資格を造らねばならぬ。学校へ行くのは、弁当を食べるためでない。勉強して知識をつけるためである。人間という学校で、八十年の間、毎日弁当食べて、親様のお恵みを喜び過ごすばかりではいけない。心に研きをかけねばならぬ。ただ食べて遊ぶばかりではいけない。人間学校の教師は、お釈迦様である。教えを受けて、立派に卒業せねばならぬ。自分の心が真暗で、汚れていては落第である。草花の種を蒔いて、花を咲かすは、一朝一夕でいかぬ。信仰も同様である。急に心の花が咲くものでない。常恒不断に念仏して、お育てを蒙らねばならぬ。
(つづく)

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