声と実存
二十世紀最大の哲学者の一人であったカール・ヤスパース Karl Jaspers(1883-1969)は、かれの哲学の核に限界状況(極限状況とも訳される Grenzsituation の訳)がある。それは人間が究極において突きあたる壁のごときもの、同時にいかにしても脱することのできぬ根源的な場のことである。このような人間存在の根源的状況を提示することによって、それまで理性中心を誇っていた西洋的近代は転換を余儀なくせられるようになっていった。そして今や人間の生死、責罪(罪悪深重の凡夫)の自覚等が生じてゆくことになる。そこにはもはや人間の理性ではいかんともしがたい状況が出てきたのである。ヤスパースはそのような人間のあり方を Existenz とよんでいる。そしてその実存の自覚においてそれまで謳歌されてきた単なる人間中心主義は越えられて、ポストモダニズム(後近代主義)としての新しい次元に突入してゆく。今や人間の観念の所産としてしか考えられなかった超越者(神)が改めて人間実存の根底から露わになってくるのである。ヤスパースにおいては、それは包括者(あるいは包越者 das Umgreifende)としてあらわれてくる。その初登場は『理性の実存』(1935)においてである。ヤスパースの哲学はかかる意味において超越者の志向に連なっているのである。
かかる点からいえばヤスパースの哲学は「南無阿弥陀仏」(すなわち阿弥陀仏への帰依(南無))とその動向において軌を一にしているということができる。ヤスパースも南無阿弥陀仏それ自体については知らなかったとはいえ、それへの根本的志向がなされていたことも考えられる。
また包括(越)者という概念も、それまでのキリスト教的な一神教の立場を超えてむしろ仏教における超越しつつ遍在する法身(法界身)と対応してゆく点も考えられる。
かくてヤスパースの哲学における実存には閉鎖された自己としてではなく、超越すること自体にその全内容が貫かれている。
そして今やヤスパースにおいて理性自体もまた変容し、神を排除する理性(それはL・フォイエルバッハやK・マルクスの哲学に総決算され、そこで神が消滅してゆく)の立場を超えてより高次の哲学が生まれるようになる。それがいわゆるヤスパースの「哲学的信仰」 (das philosophishe Glaube)の立場に他ならない。それは信仰とはいえ哲学的信仰であり、それは私たちにとっても基本的前提となるものではあるが、それはたとえば死という限界状況、あるいは罪悪深重の凡夫という限界状況に面して、更にそれを突破し、超越の世界へと飛躍してゆく意志に他ならない。大乗仏教においてはそこに「声」の立場がより根源的な契機として注目されるのである。
インドにおいて大乗仏教の登場とともに光(光明)が次第にクローズアップされていったが、また声(音声)が次第に強調されてゆくようにもなる。
そして人間的実存にとってその声の決定的なはたらきをもって私たちの実存そのものを根底から揺るがし転換せしめてゆくのである。そこには大乗仏教がヤスパースの哲学をも超え、死や罪悪といった限界状況をも超出してゆくのである。
ここに改めて「声と実存」が今や最大のテーマとなる。
声とはふつう、私が発する声として深く考えられることがない。しかしながら声そのもの、そしてそれを聞く耳も、その成立の背景は甚深にして微妙である。
すでに弘法大師空海はその著『声字実相義』において声字がそのまま大日如来の本体としての実相であることを述べているのであるが、そうだとすると私たちの発する単なる声でしかないところのものにも実に大日如来が現前しているのである。
その声はまた『無量寿経』(巻上)において、
正覚大音 響流十方
(正覚の大音、響、十方に流る)
すなわち釈尊の覚りの内容がそのまま大音となってその響が十方に遍在して流れていることが説かれてもいる。
この大音はまたそのまま極楽世界において音声そのもとなって展開せられている。浄土とは光(明)の世界であるが、またそのままが音声となって響きわたっている音声空間でもあり、聴空間(Hörraum)でもあり、そしてその音声が私たちを覚りへと導いてゆくのである。この経では、その声について、仏声、法声、僧声、寂静声、空無我声、大慈悲声、波羅蜜声、十力無畏不共法声、諸通慧声、無所作声、不起滅声、無生忍声、乃至甘露灌頂衆妙法声等、と音声の限りを尽くして展開するのであるが、それはヤスパース流にいえば包括(越)者が音声となってはたらいていることも考えられる。そこではたとえば「空声」が説かれているが、かかる「空声」は『般若心経』における「色即是空、空即是色」がそのまま「声は空にして、空なればこそ声なれ」としての「空声」が天地に響きわたっているのである。そしてかかる「空声」が私たちの理性の立場をも突破して「声即是空、空即是声」としての南無阿弥陀仏の声ともなって発現してくるのである。その空が発現してくる時、それは声として発現する他ない実相が考えられる。かかる空声(妙有声)が南無阿弥陀仏の名号となって私たち迷妄の凡夫たる人間的実存の上にもはたらき私たちを突破し、開覚せしめてゆくのである。
南無阿弥陀仏は「色即是空、空即是色」の実践と異なるものではない。それは「南無阿弥陀仏」における「アミタ」 amita が私たちの軽量分別を超えた「色即是空、空即是色」の世界を意味し、それに帰依し、没入し、一体化してゆく「南無」のいとなみは、そのままが「色即是空、空即是色」の実践としての「行深般若波羅蜜」のことに他ならないからである。
かくて「空声」とは空なる声として轟きわたっているところの大音声のことに他ならず、それが私たち限界状況の中に閉ざされている実存を突破して響きわたるのである。
『無量寿経』(巻上)には四十八願が説かれている。その中の第34・35・36・37また第41・42・43・44・45の願、そしてまた第47・48の計十一個の願はくり返し「我が名字を聞きて……」が説かれている。その中でもその第四十八願は、「わが名字を聞きて第一、第二、第三法忍に至る……」ことが説かれているが、万徳摂持の名号の故におのずとこの三法忍もが得られてゆくのである。極楽世界に響きわたる音声、それは宇宙に遍在する超越的な音声であるが、それが阿弥陀仏の名号となって私たちの宗教的実存における限界状況を突破して、聞名となり、また私たち自身の称名となってはたらき出るのである。
なお第四十八願としての聞名において開かれてゆくところの三忍とは、音響忍、柔順忍、無生法忍であるが(忍は悟り)これら三忍の最初に音響忍がおかれていることも聞主体としての宗教的実存との深い関わりが存している(なお音響忍については大正大学教授戸松啓真師の古稀記念論文集所収の拙論「音響忍論考」を参照)。
なおかかる包括(越)者の音声は現世界を超えてただ極楽世界にのみ響きわたっていて、現世界に属するものではないとする(二世界主義)的)事柄ではなく、ほんとうは私たちの現世界をも貫いて響きわたっているのである。そのことはたとえば弁栄聖者の御歌、
あふりかの山の奥にも聞こゆらむ
風の音さえ般若波羅蜜あめりかの山のおくにも聞こゆらむ
その風の音 般若波羅蜜
(道詠集三二頁)
にもみられる。そしてまた実に人間の発する「南無阿弥陀仏」の名号にも阿弥陀仏の超越的な音声が全面的にはたらいているのである。名号とはそこで超越(阿弥陀仏)が内在化し、私たち自身となってゆくところのものである。
それがヤスパースが目指した超越者へと開かれた宗教的実存の真実相に他ならない。
法然上人の弟子、重源は、みずからを「南無阿弥陀仏」と号した。ヤスパース流にいえばその実存が包括(越)者に向けられ、それを志向する者として近代をも突破した超越的実存そのものの命名ともいえる。同じく法然上人の指南を受けた明遍は最初は雑念妄念に苦しんでいたが、やがてみずからを「空阿弥陀仏」と号するにいたる。そこには、法然上人の念仏三昧の心境を歌った、
あみだ仏と心は西にうつせみ(空蝉)の
もぬけはてたるこゑ(声)ぞすずしき
の般若波羅蜜の空の境涯に通じてゆく宗教的実存が余すところなく表明されているのである。
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