相手に応じたアドバイス(対機説法)その二

お釈迦さまとウパリとの対話のつづき。

その他の弟子には静かなところでの修行をすすめているのに、なぜ私にはお許し下さらないのだろう。そんな疑問をウパリが抱いていることをお釈迦さまはお察しになり、さらに例えをもって説きました。

「ウパリよ、たとえばここに、一つの大きな池があるとする。そこに、一匹の大きな象がやってきて、その池に入り、背を洗い、耳を洗いはじめる。その様子はまことに楽しげである。そこに、一匹のうさぎと猫がやってきて、じっとその様子をながめている。やがて彼らもまた、その楽しげな様子にひかれて池の中に入ろうとする。そして少しその池に入ると、急にこわくなり池から飛び出てしまう。それはなぜかというと、象と彼らとではその体の大きさがまったく違っているから、深くて驚いたのである」

そのように、例えた後、お釈迦さまは、

「ウパリよ、あなたは弟子が集って修行をしているここにいなさい。ここで修行をすることであなたは安らかな心でいられる境地にいたることができるでしょう。」

皆と修行するウパリ

このお釈迦さまのアドバイスに従い彼は生涯、弟子が集う中での修行をまっとうしました。お釈迦さまは一人静かに修行するのではなく、仲間との共同生活の中でこそ、彼は悟りに到ることができると見抜かれたのでしょう。それは僧侶となる前の彼の生い立ちに理由があるのかもしれません。学問をすることがありませんでしたから、一人静かに思いを深めていくということを得意とはせず、人に仕えてきた彼の生い立ちから、人の和の中こそ修行の場であろうと思われたのかもしれません。とにかく彼はそのアドバイスの後、
「自律第一のウパリ」と皆に言われ誉めたたえられました。自律第一というのは、集団生活における決まりごとを一番よく守る人という意味です。
(おしまい)

増支部経典、一○、九九、「優波離」

カテゴリー: 子供と一緒に, 月刊誌「ひかり」, 法話

ひかり2013年01月号

ひかり01月号表紙

ひかり01月号表紙

弁栄聖者 今月の御道詠

またとなき とうとき聖名を 称えては
 御いわいもうす あらたまのとし

『空外編 弁栄上人書簡集』

コンテンツ

02 年頭所感 金田隆栄
05 光明会各会所年間行事
06 聖者の俤(おもかげ)其二十五 中井 常次郎
08 名号の不思議 その5 河波 定昌
11 感動説話「同事の菩薩」 明千山人
12 子供と一緒に学びましょう 35
14 光り輝く淨土への道68  山上 光俊
18 やさしい言葉に宿る力2 江角 弘道
22 能生法話「ひよっ子」 辻本 光信
23 図書案内
24 自他不二への向上み その4 佐々木 有一
26 お袖をつかんで 吉水 岳彦
   「 第八歩 ひとり立ち 」
28 ひかりの輪 光明学園
   「特別修養会」「第45回光明祭」
32 賀詞交歓
36 聖者の霊筆
38 写仏のすすめ
40 支部だより
46 特別会員及び賛助会員のお願い
47 財団レポート、清納報告、こちらひかり編集室

カテゴリー: 「ひかり」目次, 月刊誌「ひかり」

名号の不思議04

念声是一について

光明修養会上首 河波 定昌

さきに「名体不離」について述べました。すなわち阿弥陀仏の名号と阿弥陀仏ご自身の三身四智等の一切の功徳等の内容とが一体であるとのことを述べました。そしてそれを展開されたのが法然上人でした。
そしてそこから必然的に「念声是一」の論が展開されてゆくのであります。すなわち心に阿弥陀仏を念ずることと阿弥陀仏の名を声に出してとなえることは同一であるということであります。そしてまさにそのことによって老若男女等、一切の凡夫や衆生たちにも仏道実践が可能となり、悟りに連なってゆくことができるのであります。
そこには法然上人における宗教的実践の一大飛躍が考えられます。
すなわち法然上人において、具体的には阿弥陀仏の四十八願の中の第十八願に「乃至十念」とある念と、善導大師の『観念法門』『往生礼讃』に示されている「下至十声」の声とはその意味において同一である、という点においてであります。念称是一とも念声是一ともいわれます。これは法然上人の『選択本願念仏集』(第三章)に述べられている言葉で、その文に、

問うていわく、『経』(無量寿経)に十念と云い、『釈』に十声と云う。念声の義いかん。答えていわく、念声は是れ一なり、何を以てか知ることを得たる。『観経』の下品下生にいわく、「声をして絶えざらしめ十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ、仏名を称するが故に念々の中において八十億劫の生死の罪を除く」と。今この文によるに声はこれ念なり、念は即ちこれ声なること、その意明らけし……故に知りぬ、念は即ちこれ唱なり。

と示されています。
このようにして法然仏教は称・声・唱の一点に集中せられていったのであります。そしてまさにその点でこの教えが一切衆生に平等に開かれ(一切衆生平等往生)、しかも万徳とあらゆる悟りの内容がその中に実現せられてゆくのであります。まさにその点で法然仏教のそれまでの仏教の諸宗派に対する独立宣言の意味があります。弁栄聖者の光明主義もその線上において十二光仏の体系として展開せられていったのであります。
そしてたとえ私たち凡夫の一声一念であっても、そこに阿弥陀仏の一切の悟りの内容(万徳)が入ってくるという点ではこの稿の第二の「超越と内在のダイナミズム」において述べたところですが、同じような論理の展開がキリスト教においてもみられるところに興味深いものがあります。たとえば二十世紀のドイツで最大のカトリックの神学者にカール・ラーナー Karl Rahner (1904-1984)等において。また元照律師(宋の時代の人 1048-1116)の著書『仏説阿弥陀経義疏』巻下(『浄全』五、六八五下)の中の文、すなわち、

問う。四字(阿弥陀仏)の名号は凡下つねに聞く、何の勝能ありてか衆善に超過せるや。答えて、仏身は相にあらず、果徳の深高なり。嘉名を立てずば妙体をあらわすことなし。十方三世の諸仏みな異名あり。いわんやわが弥陀の名をもって物(衆生)を摂す。これをもって耳に聞き、口に誦すれば、無辺の聖徳は識心に攬入し、長く仏種となりて、とみに億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証せん。

の文が見られます。
このように称名における超越者の衆生への突入がこの文では「攬入」と述べられていますが、「攬入」とは集中して入ってくることを意味しています。
なお超越者の衆生心中への突入は『観無量寿経』では「入」(サンスクリットでは avatāra)ですが、それはキリスト教における祈りにおいても共通しており、たとえばマイスター・エックハルト(1260-1327)は突入を「突破」 durchbrechen として論じています。それは法然上人の「月かげの歌」における「すむ」とどこまでも対応していることが考えられます。そしてその「すむ」には先述のカール・ラーナーにおける「自己贈与」の思想ともかかわっていることが考えられます。
このように大乗仏教においても、またキリスト教においても、その祈り(三昧)における共通した地平の開けをみることができるでしょう。その称名に即しての「入」ないし突破には煩悩に閉ざされていた自分がその罪業から解放されてゆく契機に他なりません。その典型的な例として、「利剣の名号」がみられます。すなわち善導大師の『般舟讃』に、

門々は不同にして八万四(千)なるは、無明と果と業因とを滅せんがためなり。利剣は即ち是れ弥陀の(名)号なり、一声称念すれば罪皆除く

と述べられています。すなわち阿弥陀仏の名号がよく一切の煩悩罪障を断除することは、ちょうど利剣がよく物を断つのに似ているので、「利剣の名号」ということが示されているのであります。
また田中木叉上人の「じひの華つみうた」の中にも、

火の中に 蓮や生ぜん 奮迅の
南無の一声 乾坤を割く

の歌がみられます。堕地獄の炎の中にあって「南無」の一声で新しい救いの新天地が開けてゆく旨が説かれています。
阿弥陀仏の名号は何にもまして煩悩の中にある凡夫にとって救いの手だてとなります。
道元禅師(1200-1253)も若年の頃は念仏称名を「田の蛙の鳴くが如し」と否定的に論じられたりもしていましたが、次第に老齢となり、体力も衰退してゆく状況の中にあって、最後は称名へと収斂せられていきました。そのことは『正法眼蔵』の晩年の作とされる「道心の巻」における、

ただ寝てもさめても仏のみ名を称えたてまつるべし。南無帰依仏……等と称えたてまつるべし

の文にもみることができます。
凡夫は懈怠の心に覆われ、念仏する心も滞りがちなのですが、そんな時でもたとえ機械的にでも一声、南無阿弥陀仏の名号を発する時、その心の状態は一変し、念仏心が生起するのであります。「念仏に懶き人は無量の宝を失える人なり」から「念仏に勇みある人は無量の宝を得たる人なり」(法然上人)へと一変してゆくのであります。
それゆえ田中木叉上人も、たとえば、「じひの華つみうた」の中で、

み名をよぶ 声に心が 乗せられて
よぶたび通う 慈悲のふところ

あるいは、

呼ぶ前は さほど感ぜぬ 大慈悲の
声に心の うつり恋しき

等の歌もみられます。
それゆえ弁栄聖者の「念仏七覚支」の御歌の中でも

声々御名を称えては
慈悲の光を仰ぐべし
身心弥陀を称念し
勇猛に励み勉めかし

(精進覚支の項)

と歌われております。称名は煩悩を破る何よりの手段ですが、実はその手段となる名号の中に目的そのものである阿弥陀仏ご自身がはたらき実現せられてゆくのであります。称名において手段と目的とは不二であります。

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弁栄聖者の俤(おもかげ)24

◇〈聖者ご法話〉
聞き書き その一(別時の説教)

自分は高等学校の入学試験に苦戦して以来、神経衰弱で、そのため記憶力が弱く、あたら説教を忘れては惜しいと思い、常に弁栄上人のお言葉を書きとどめ、以て後日に備えた。それが今、貴重な形見となる。

▽二十一日(大正九年一月、横浜別時の説教筆記)
題「念仏三昧を宗となし、往生浄土を体となす」

大乗仏教は心を主とする。心が先で、身は後である。私共は今、未来の種を作りつつ暮らしている。犬の如き心で日暮らしをするならば、来世は犬になる。毎日の暮しは鋳型を作っておるようなものだ。心は溶かされた地金にあたり、生活は鋳型にあたる。
念々の修養は大切である。人の心に賢愚利鈍あるは、地金に金銀銅鉄の別あるようなものだ。それで一生の間に、毎日造った型に相応した像ができあがるのである。
常に仏になりたいと念ずれば、心は仏の型に鋳込まれる。念仏三昧とは、仏思いの心を常とし、仏と自分とを一つにする事である。口に仏名を称えても、心が仏を離れては念仏三昧でない。念仏中に悪い思いを起こせば、悪人になる。良くない事を考えながら念仏のまねをしてはいけません。
念仏三昧の時、人の感情は高まる。一心に念仏せよ。良い酒を造るには、純な種を用いねばならぬように、純な心で一心に念仏せよ。一念の念仏は、一念の仏。念念の念仏は、念念の仏。六道の心も、専ら念仏すれば、仏の光明中に生まれ、身の終りには、心に相応した菩薩として浄土に生まれる。
一心に念仏していると、吾が心は仏心に負けて、仏心となる。暗は光に負けるように。今までは動物的に生きていたものが、念仏により、光明中の人となる。如来には斯くの如く、人の心を変化させる力がある。光明中に在る者は、往生の姿である。

▽〈二十一日〉夜のお話
題「ほとけ念いの心について」

称名の音声に功徳〈が〉あるのではない。称名念仏とは、み名を称えて救いを求める事である。柿の渋いのは、甘くなる道中である。不完全は、完全になる道中である。
『観念法門』に、観仏、念仏、別時念仏の勤め方、懺悔の心得の四段あり。観仏は『観無量寿経』に説かれてある難しい方法である。その中の思惟ということは、心を整え、相手を自分の心に取り入れる工夫である。これができると正受即ち三昧を得る。
思惟とは雑念を去る事である。これができない間は、三昧に入れない。三昧は初め、一部分から入り、次第に全体に及ぶ。昔は三昧に入りやすかったという事である。
別時念仏を勤めると、信仰が活きて来る。理論ばかり聞いていては、活きた信仰にならぬ。俵の中の米は生活力を持っているけれども、水田の米のように活きていない。
子供は母の胎内で大きくなり、十分育てば胎外に出されて養われる。
阿弥陀様の御徳を聞きながら、名号を称える時代を資料位という。米俵の中の米や、胎児のような信仰である。まだ活動的でない。種を撰んで蒔き付ける時代である。種に相当した草木ができるように、信仰でも、真空真如の理を聞き、それが実現すれば羅漢である。
信仰の無い人は、暗の生活である。生まれぬ前も、死の後も知らぬ。分からぬ。毎日煩悩を起し、業を作り、生死を繰り返す。この十二因縁の理を聞き、真空無我になれば、煩悩が無くなり、生死を解脱する。
人間は仏法を聞く事のできる心、即ち仏の種が育つ心田地を持っている。四諦、十二因縁の種を蒔けば羅漢という実を結ぶ。豆の種は杉や檜の実に比べて大きいけれども、杉や檜のように大木にならぬ。念仏は杉や檜の実のように小さく、何でもないようであるが、仏という大木になる。
仏様の話を聞けば、そのあらましが解る。念仏して信仰が進めば、だんだん、はっきりと仏様が解って来る。自分を主としてはいけない。仏様は本尊で有って、自分は従である。南無は自分、阿弥陀仏は本尊である。極楽には悪が無いから、そこでは阿弥陀様を忘れても悪道におちる心配は無いが、娑婆では悪が充ちているから、油断できない。ここは恐ろしい世界である。
初めは、仏の御姿は拝めない。それでよい。心に帰命の思いが起ればよい。南無阿弥陀仏と称えて、帰命すれば、仏様は我が心に宿って下さる。
資料位の信仰で、素要を作り、加行位で一心に念仏を励めば、次第に信仰は進み、蒔いた種が、光明に照らされ、芽生えて来る。これを信仰の喚起位という。次に見道位といって、活動的信仰となり、仏作仏行の体現位に進む。

カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」

相手に応じたアドバイス(対機説法)その一

お釈迦さまは、弟子や信者の方が正しい道を歩むために、その人に応じたお説法をされました。
その弟子の中に、ウパリという者がいました。彼は僧侶となる前、身分が低く、学問などせず、ただ一生懸命、人にお仕えすることが仕事でした。
そのウパリが僧侶となってしばらくしたある時のこと、ウパリはお釈迦さまの前に進み、

「お師匠さま、私は都会をはなれ、人のいない静かな場所で一人で修行をしたいと思いますが、いかがでしょうか?」

お釈迦様に質問するウパリ

この様な静かな場所で修行をすることは、お釈迦さまはよく弟子にすすめていました。そこで、ウパリも、そのような修行がしたいと、お釈迦さまの許可を求めたのでした。
しかし、お釈迦さまは、

「ウパリよ、静かな場所で修行をすることは、あなたには難しい。人のいないところで修行をすることは寂しく、修行を喜ぶことは難しいだろう。また森林での修行は心をおびえさせ、野原での修行はあなたの心を弱くするであろう。その修行はやめておきなさい」

静かな場所で修行したいウパリ

そのように言われたウパリは納得ができません。
(つづく)

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ひかり2012年12月号

ひかり12月号

弁栄聖者 今月の御道詠

まごころに 御名よぶ人は おくゆかし
こころのそこに 弥陀はまします

『御慈悲のたより』上

コンテンツ

05 光明会各会所年間行事
06 聖者の俤(おもかげ)其二十四 中井 常次郎
08 名号の不思議 その4 河波 定昌
11 感動説話「中道」 明千山人
12 光明主義と今を生きる女性 祢次金 文子
14 子供と一緒に学びましょう 34
16 光り輝く淨土への道67  山上 光俊
20 能生法話「良い人?」 辻本 光信
21 やさしい言葉に宿る力1 江角 弘道
24 自他不二への向上み その3 佐々木 有一
26 お袖をつかんで 吉水 岳彦
「 第七歩 この世に無関係なものなど何一つない 」
28 薬膳料理
30 聖者の霊筆
32 写仏のすすめ
34 支部だより、こちらひかり編集室
45 図書案内
46 特別会員及び賛助会員のお願い
47 財団レポート、清納報告

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除夜の鐘

※日時 12月31日 23時45分より

除夜の鐘の解説等はこちら

カテゴリー: イベント, 大願寺, 檀信徒

十夜法要のご案内

※日時 11月11日(日)

  • 正午より 昼食(有毛地区婦人会の接待)
  • 午後1時より 法要・供養・法話
  • 午後7時より 法要・供養・法話

※講師 鶴山瑞教 師(大分 蓮華寺)
→蓮華寺のホームページはこちら

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名号の不思議03

名体不離について

光明修養会上首 河波 定昌

私たちは日常的には巷に流れる音や声の世界の中で生きています。しかしながらその音や声には私たちが想像する以上に心の奥底、否、宇宙の根源にまでかかわり、その音声の生じる根源は私たち意識の領域を遙かに超えています。そして声が言葉として捉えられる事については単なる意識の領域のみにとどまらず無意識の、そして無限の超意識までもの背景が考えられるのであります。そしてかかる音声の展開にはそれと呼応して聴覚の生起、形成、そしてそれが次第して耳が成立してゆくのであります。そして発展的には植物の段階においてさえ、その枝葉等に聴覚の存在(いわゆる耳以前の耳)が予想されるところであります(たとえばぶどうの木にモーツァルト等の音楽を聴かせるとよいぶどうが生育する等)、耳─聴覚の生成の背景にも宇宙論的ないとなみが考えられるのであります。
実に耳がどうしてできたかということは、目がいかにしてできたということ等と共に実に不思議の極みなのであります。それはまさに宇宙の神秘に充ちたいとなみといえるものであります。
仏教では五官の世界、すなわち眼、耳、鼻、舌、身、意の世界を説きますが、弁栄聖者はそれらの生成の根底に如来の智のはたらき、とりわけ四大智慧の中の成所作智等において述べられていますが、五官の一つ一つが実に不思議な存在なのですが、その中でも耳の存在に私たち自身の根源と、そして大宇宙そのものと一貫して関わっているのであります。
たしかに言葉とは私たち自身が発するところのものですが、かえってその言葉に逆に飲み込まれ、支配され、その言葉の中で生きることにもなるのであります。たとえば『毎日歌壇』の中の所載の歌の一つに、

  おだやかな 言葉使えば おだやかな
    心となるに ふと気づきたり

の歌がありますが、言葉が新しい心の地平を創造してゆくのであります。
 そして結果的には私たちは声(音声)と聴覚(耳)との空間で生きているのですが、それは偶然にそうなったのではなく、そもそもこの宇宙が成立するその原初から不思議な智慧(成所作智)が存在し、はたらいていて、そこからそのような音声と耳の世界が出現したと考えられます。なぜ音声が、そして耳があるのかという問題は、それ自身宇宙の秘密義なのであります。
 たとえば『新約聖書』の「ヨハネ伝」の冒頭に、

  始めにロゴス(言葉)ありき、
  ロゴスはすなわち神なりき、

の文がみられます。ロゴス Logos はギリシャ語で言葉とも訳されますが、その語義は深渕そのもので、真理、法則等とも訳され、私たちが普通考えている言葉の領域も遙かに超えて、それでもなお言葉として訳す他もないので言葉と表現されているのです(なおドイツの偉大な文豪ゲーテも「ヨハネ伝」のこのロゴスを如何に訳すかについて悪戦苦闘しました)。
このロゴスはキリスト教の成立する以前にすでにギリシャ初期の哲学者ヘラクレイトス(紀元前500年頃)の思惟の中にみることができます。それは流転する万物を貫くものとしてであります。そしてそれはやがてキリスト教における神としてのキリスト自身に連なってゆくのであります。すなわち歴史的なイエス・キリストが「主の祈り」において天に在ます神に向かって、「神のみ名があがめられますように」(マタイ伝六・九)と神のみ名への讃美がみられるのであります。それは歴史的なイエスを超えて、そのイエス・キリストさえもそこから出て来たロゴス、すなわちキリストの先在 Preexistenz がみられるのであります。しかもこの文は「我と汝」との呼びかけで始まっていますので、その神の名も音声の中で成立していることも重要です。そこには原初の呼びかけそのものとしての、神への呼びかけ、そして神の声を聴従する耳(私自身)との根源的な呼応関係が存在しているのです。そしてその全体がロゴスの中にあるということもできるでしょう。
真言密教においても、真言の言葉が示しているように真理そのものであり、ロゴスに他なりません。真言の成立の背景も遙かに古く、インド文化の始源たるヴェーダの時代にまでさかのぼり、それはミーマンサ学派の「声常住論」─音声が歴史を超えて永遠に存在する─等に発展し、その豊かな言葉の精神的伝統を受けつぎながら弘法大師空海(774-835)の『声字実相義』に結晶していくのであります。それは「声字がすなわちそのまま実相(大日如来に他ならず、阿弥陀仏ご自身に在ます)」というのであります。そしてかかる実体(阿弥陀仏)が声へと点化 Punktualisierung すなわち私自身へと一点に集中することを意味しています。この点化という言葉は山本空外博士がドイツの哲学者P・ナトルプ(1854-1924)の言葉から引用されて使用された言葉でもあります(『念仏の哲学』)。そこには名(言葉)とそれを表現する実体とが不離にして不二(すなわち名体不離)であることを示すものに他なりません。そしてこの名体不離は何よりも念仏の実践の核となるものです。
 すなわち南無阿弥陀仏という名と阿弥陀仏のご実体とが相即不二であって、そのことを前提とした上で念仏行が実践されてゆくというのです。すなわち念仏の実践においては「名の外に体(実相)なく、体の外に名なし」なのであります。

大乗仏教はインドにおいて紀元前1世紀頃に成立し、豊かな展開がなされていったのですが、その前期から後期にかけて全般的な傾向として視覚的な見、たとえば「見仏」「見光明」等が主たる特徴となるものでしたが、後半になって次第に「聞」の契機がクローズアップせられてゆきました。そのことはたとえば極楽世界を頂くにしてもその世界が「光の空間」であると共に『無量寿経』等にも説かれているように音声の鳴り響く空間でもあります。そしてそれは大乗仏教の完成期(紀元400年頃)に成立したと考えられる『観無量寿経』に極まるのであります。
『観無量寿経』は見方によってその経の前半の念(想)の段階と後半の称の段階に分けることもできます。
念の段階では、たとえば、

心に仏を想(念)う時、【中略】この心、仏と作る、この心、これ仏なり(是心是仏)。

の文にもみられるように、私たちが仏を念ずることにおいて仏に作ってゆくことが説かれています。それはなぜかというと宇宙に遍満する如来(法界身)が私たちの心の内に「入」ってくるからであり、「入」を意味するサンスクリット語 avatāra には現れる、すなわち念仏する念に阿弥陀仏の全体が現れ出てくることの意味も考えられます。その点では念仏の念がそのまま仏へと転換し、念の全体が仏そのものになってゆくことを意味します。かかる意味でこの経の説く「是心作仏、是心是仏」はインド大乗仏教の到達点とも云えるでしょう。
そしてこの『観無量寿経』の後半は前半で説かれた「念即仏」(是心是仏)が更に称名の一点に結帰してゆくのであります。そこには極重悪人の凡夫たる私たちを予想してのことですが、

汝もし念ずることあたわずば(前半の立場を超える)、まさに無量寿仏と称すべし。と。是のごとく、至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称す。仏名を称するが故に、念々の中において八十億劫の生死の罪を除く。

と示されています。ここで「汝もし念ずることあたわずば」で、念から称への決定的な転換がみられるのであります。しかしながらそれは単なる念の否定ではなく、称への念の止揚であります。まさにその称において念が完成してゆくのであります。まさにそこに「念声(称)是一」が成立します。その声(称)は、念と対立した声(称)ではなく、念声(称)是一の念であり、念は限りなく声(称)において実現せられてゆくのであります。

(次号に続く)

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弁栄聖者の俤(おもかげ)23

中井常次郎著『乳房のひととせ』上巻より その2

◇初夢
 夢に俗夢と霊夢とある。意識眠って心が日頃親しめる境界に遊び、あさましき事、あるまじき事などを見るは俗夢にして、赤裸〈つつみかくしのない裸〉の自分を知る便となる。
 自分はこのたび、良き師に廻り合いたれば、ことしこそ信仰の上に大きな獲物を得たいものだと、洋々たる希望を抱いて元旦の一日を過した。その夜の夢に、古郷の氏神の境内、馬場の駆け上がりの右側に立てる百尺(約三〇メートル)余りの松の樹の幹を這い上る大きな竜が、金色の鱗を夕日に輝かせ、梢より大空に向って、虹のように空高く泳いでいた。やがて、すらすらと小学校の庭におりて来た。村人達は恐れ、逃げ迷った。忽ち一人の仙人が現われて、竜の頭を押さえ、気合を入れて封じてしまった。見れば、尾に金の輪があり、尾の端が宝剣で終っている。頭より剣先まで二十七尺(約八メートル)あり。口より火を吐いていた。
 翌る朝、この初夢物語をして、ことしは何か驚くべき事があるにちがいないといった。果たして〈思っていた通り〉空前絶後ともいうべき事が起った。
 それより一ヶ月の後、上人に依って菩薩戒を受け、お剃刀をいただき、袈裟を授けられ、戒名を弁常とつけて頂いた。弁常とは弁栄上人の弁の字と私の俗名の常との組合せであって、名を聞いただけでは、臭い処に交えども、字をよく見れば、常恒の平和を弁える者という心にて、いとめでたい名であると有難く頂いている。
 この授戒会の間に、自分は人生の帰趣を明らかにし、人と生れた歓びを知り、永遠の大道に出して頂いた。時の流れと共に、姿はいかに変るとも、作仏度生の念願に狂いを来たしてはならぬと勇みたった。
 同じ大正九年の歳の暮れに、思いがけなくも、八十路までもとたのみし弁栄上人は雲がくれし給うた。
 この二つは、わが生涯に於ける喜びと悲しみとの二大事件であった。初夢の、空しからざるお告げを知った。
  
◇横浜の念仏三昧会
 横浜市久保山の光明寺で、一月二十一日より一週間、弁栄上人が御導師となり、京都百山〈百万遍知恩寺〉の中島僧正と土屋観道師とが御随喜の念仏三昧会が催された。
 一月十三日の夜、私は光明会の友達と百山のお念仏会に参り、横浜で別時念仏のある事を聞き、自分も参加したいものだと思った。学校はあるけれども、信仰を確立させるは急務だ。明日をも知れぬ人の身である。今度の別時にはぜひ行こうと決心した。
 教授達は陸軍の大演習がある時、授業を休み、その土地の富豪の邸宅に泊り込んで、見物に出かける。自分は生死解脱のため、心中の悪魔退治の実戦に行くのだ。演習ではない。真剣だ。遠慮はいらぬ。いざ行こうと学生を置き去りにして、二十日の夜行で横浜へと急いだ
 時は世界的流感〈インフルエンザ〉の真最中であった。車中の多くはマスクをかけていた。自分も用意して行ったが、呼吸が苦しくて、それを使わなかった。
 国府津〈神奈川県小田原市〉あたりの朝景色にも慰められたが、労れた身には、早くめざす横浜駅に下車したい思いであった。
 釣鐘マント〈釣り鐘型の丈の長いマント〉をまとい、毛布と信玄袋とを肩に振りかたげ、道を問いつつ、やっと寺に辿り着いた。
 光明寺は、すばらしく見はらしの良い高台に在る。木魚の音は勇ましく聞こえ、脚は自然に音をたよりに歩んで行った。
 三昧道場は座敷の二階に設けられてある。その下の見晴しの良い室の縁側で、白い歯もあらわに笑顔の土屋上人に出会った。
 「よく来られましたね」
と合掌の礼を以て迎えられた。初めて会った人達も、皆、なれなれしく言葉をかけてくれ、色々と面倒を見て下さった。全く大きな家庭の思いがした。信者の集まりは実に清らかだ。人中の白蓮華とは、よくいったものだと思った。
 はるか西の方を眺むれば、雪を頂ける富士は霞の中に在り。南は遠く横須賀あたりまで見え、横浜の町は目の下に横たわっている。この世ながらの浄土かと、夢心地であった。
 午後より道場に入った。内海さんが木魚を持ち来たり、終りまで場所を替えないで、これを打つようにと注意された。いよいよ木魚を打ち、念仏を始めた。これが木魚の打ち初めであり、正式に念仏三昧会に加わった初めである。ことでもまた、木魚を打っては、御開山〈中井家菩提寺浄土真宗の祖、親鸞聖人〉にすまぬという心苦さを感じた。けれども形に捕われてはならぬ。まことの信仰を得れば良いのだと思い定めて、一心不乱に念仏した。
 町の人達も多くは泊り込んで念仏三昧を励まれた。毎朝三時半頃から起きて念仏を始める。夜は十一時頃まで弁栄上人のお室で、お話を聞いた。
 食事は簡単で少量。まことに味わい宜しく、身も心も爽快である。内海さんは、食物の量を過さぬように、眠気が出るといけないからと、初心の吾々に注意して下さった。
 第一日は何事も目新しく、よろこびの中に暮れた。二日目の午後三時頃、念仏中に電報が来た。
 「父病気。すぐ行け」
と京都の自宅からである。意外だ! 京都を立つ時、父が病気だということを聞かなかった。危篤の知らせにちがいない。急がねばならぬ。もし、父が存命ならば、昨日から承ったお話を聞かせて、安らかに往生を遂げられるように、最後の孝行をしたいものだと念じた。
 夕方五時半頃の下りに乗るつもりで、弁栄上人にお別れを告げると、玄関まで見送って下さった。門を出で、あとふり返れば、上人はまだ玄関に立ち、こちらを見守っていて下さった。合掌恭礼して去った。
 日高心阿さんは私の荷物を分け持ち、横浜駅まで見送って下さった。日高さんは禅の修行を積んだ大居士である。最近、弁栄上人に帰依し、お念仏を申すようになった方である。
 赤子に対する親心、幼き弟に対する兄の情。悟りの高下も、修行の深浅もへだてなく、此の時の事が、今に忘れられぬ懐かしい思い出である。
 汽車は走る。
 夜通し眠らずに、お念仏を申した。久保山での木魚の音が耳を離れない。
 京都に下車し、宅に立ち寄り、すぐ帰郷した。
 旅の労れも、時の流れも夢中にて道を急ぎ、父を見舞えば、その枕頭〈まくらもと〉に親しき人々集まり居て、声が無い。自分は室の入口で、病床に向い三礼し、静かに近づいた。
 流感と丹毒〈皮膚の化膿性炎症〉とが重なり、しかも悪性の丹毒で、手術を受けたけれども重態であるとて、顔は腫れ、眼は塞がり、痛み甚だしく、熱が高いという。
 東京、京都から弟共が帰った時、父は非常に喜び、眼は見えぬけれども、声を聞いて泣いたということであった。自分は別時の話を始めた。
 朝から晩まで木魚をたたいて念仏を申した。そのため手の甲が、こんなに腫れ上ったといい、それから弁栄上人のお話を伝えようとした。
 父の顔に不快の色が現われた。父と共に、真宗の信仰に固まれる兄は、この相を見て、私に向い
 「他宗に走り、親を苦しめる不孝者」
と声を張り上げて怒った。
 自分は考えた。たとえ親子兄弟の縁は断たれても、信仰の自由を縛られたく無い。
父の看護は人がする。悦ばれぬ所にいる必要はない、と心は再び横浜へ飛んだ。母のみは、我が悲しみを汲んでくれた。それからまた、横浜へ行くという自分を引きとめ、明日にせよといって、二階に床をのべ、旅の労れを休ませて下さった。
 明くる二十四日の朝、危篤の父を遺し、昨日急ぎ上って来た亀の川の同じ堤を、吹雪に悩まされながら、物思いに沈み、涙拭きふき下った。
 京都の宅に立ち寄り、また毛布と信玄袋とを振りかたげ、釣鐘マントにくるまって、上人のみ許へと急いだ。
 今度は恒村さんも連れて車中の人となった。自分の前に、女教員らしい人が、大きな信玄袋を側に置き、二人分の席を占領していた。名古屋で乗込んだ四十五、六の太った男が彼の婦人の前に立ち、信玄袋を取り払ってくれといった。
 女の人は、不平らしく「私は長旅をしているので、まだ眠らなければならぬ。あちらに席が空いている」といって、袋を下さなかった。男は意地になり、一人で二人分の席を占領して、太い事をいう奴だ、と言葉するどく攻め立てた。女は不平ながら、袋を下した。男は大きなおしりで、わざと婦人を押しつめた。
 「あとから来て、この我がまま、あきれる」
といえば、男はその友に向って、
 「このあまひどい奴だ。あちらに席がある、譲って貰え、だと虫の良い事をいう」と負けず言い争った。
 自分はマントをかぶり、眠ったふりをして、初めからこの争いを聞いていた。自分も二人分の席を占めていたのだから、彼の男に、こちらへといえば、こんな事にならなかっただろうと思えば、心苦しくなり、起き上って、
 「こちらへ、おかけになりませんか」
といえば、女の先生は私の側へ避難した。そして『勅修御伝』〈法然上人の伝記〉を拝読していた私に話しかけた。
 「私は法然上人の母方の子孫だというおうちのお嬢様を教えた事がある縁故で、そのおうちと懇意で、増田という者です。」
 それから、上人のお生れなされた村の事や、御生家の立派な事などを聞かせてくれた。自分も一度訪ねたいというと、汽車の中で増田に会ったといって下さらば、きっと喜んで案内してくれましょう。上人のおうちの子孫は今キリスト教の熱心な信者です。
 もし法然上人が今お出世だとすれば、必ずクリスチャンとなっているにちがい無いといって、伝道に骨折って居られる、という事まで話された。今や吉水の浄き流れも名利の垢に汚され、ひかりいや増す聖の御末さえも、汲むにたえずして、人天の糧に飢えを凌ぐとは、法の道にも人の世の様見えて悲しい思いがした。
 のどが渇いたから、お国自慢の紀州蜜柑を出して、恒村さん、増田さん、それから彼の男の人にも勧めた。
 増田さんは信玄袋からうちむらさき〈柑橘系の果物〉を二つ取り出し、返礼として私共に分配してくれた。先刻まで敵であった男も、今は優しくなり「有難う」と増田さんに礼をいった。全く仲直りができた。この様を見て、二人は共に見上げた兄弟だと自分は嬉しかった。
 世の人々も、かくあれば、うらみを後の世まで結び、対生〈対立した関係で生き〉して更にはげしく争う事なく、善き道連れとなり得るものをと思った。
 明くる二十五日の朝、私等は増田さんと別れて横浜駅に下りた。
 二日間、別時から離れたけれども、今日からまたその仲間入りができ、終日念仏と聞法の中に暮らした。そして夜は十二時頃まで土屋上人と話し合った。
 二十六日の説教で、如来の威徳と大慈悲を聞かされ感極まり、涙止らず、今までは知らなかった、かくも忝き大み親が在したか、罪と汚れの自分でも至心に念仏せば、如来の光明に霊化され、家族や友達にまで信仰を別け得られるか。今からは「助け給え」という念仏は申さぬ。感謝の念仏である。報謝の生活である。浄土宗の信者のようにいつまでも「助け給え」と願うは、あつかま〈あつかましい〉だ。自分は矢張真宗の信者でありたいと喜んだ。この喜びを土屋上人に話すと「それは、まだ至らぬ考えです。大慈悲の光明に育てられ、如来の威徳を満月の如く受け、衆生済度の働きをさせて頂きたいとの大願を起こさればなりません」と教えて下さった。
 この話を聞き、また真宗を捨て浄土宗の信者とならねばならぬと思った。いや光明主義の信者となった。
 それからは惜しげもなく頼むのだ、ひまなく頼めと勇み立った。かくて横浜の別時は終りを告げた。

(つづく)

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