◇〈聖者ご法話〉
聞き書き その一(別時の説教)
自分は高等学校の入学試験に苦戦して以来、神経衰弱で、そのため記憶力が弱く、あたら説教を忘れては惜しいと思い、常に弁栄上人のお言葉を書きとどめ、以て後日に備えた。それが今、貴重な形見となる。
▽二十一日(大正九年一月、横浜別時の説教筆記)
題「念仏三昧を宗となし、往生浄土を体となす」
大乗仏教は心を主とする。心が先で、身は後である。私共は今、未来の種を作りつつ暮らしている。犬の如き心で日暮らしをするならば、来世は犬になる。毎日の暮しは鋳型を作っておるようなものだ。心は溶かされた地金にあたり、生活は鋳型にあたる。
念々の修養は大切である。人の心に賢愚利鈍あるは、地金に金銀銅鉄の別あるようなものだ。それで一生の間に、毎日造った型に相応した像ができあがるのである。
常に仏になりたいと念ずれば、心は仏の型に鋳込まれる。念仏三昧とは、仏思いの心を常とし、仏と自分とを一つにする事である。口に仏名を称えても、心が仏を離れては念仏三昧でない。念仏中に悪い思いを起こせば、悪人になる。良くない事を考えながら念仏のまねをしてはいけません。
念仏三昧の時、人の感情は高まる。一心に念仏せよ。良い酒を造るには、純な種を用いねばならぬように、純な心で一心に念仏せよ。一念の念仏は、一念の仏。念念の念仏は、念念の仏。六道の心も、専ら念仏すれば、仏の光明中に生まれ、身の終りには、心に相応した菩薩として浄土に生まれる。
一心に念仏していると、吾が心は仏心に負けて、仏心となる。暗は光に負けるように。今までは動物的に生きていたものが、念仏により、光明中の人となる。如来には斯くの如く、人の心を変化させる力がある。光明中に在る者は、往生の姿である。
▽〈二十一日〉夜のお話
題「ほとけ念いの心について」
称名の音声に功徳〈が〉あるのではない。称名念仏とは、み名を称えて救いを求める事である。柿の渋いのは、甘くなる道中である。不完全は、完全になる道中である。
『観念法門』に、観仏、念仏、別時念仏の勤め方、懺悔の心得の四段あり。観仏は『観無量寿経』に説かれてある難しい方法である。その中の思惟ということは、心を整え、相手を自分の心に取り入れる工夫である。これができると正受即ち三昧を得る。
思惟とは雑念を去る事である。これができない間は、三昧に入れない。三昧は初め、一部分から入り、次第に全体に及ぶ。昔は三昧に入りやすかったという事である。
別時念仏を勤めると、信仰が活きて来る。理論ばかり聞いていては、活きた信仰にならぬ。俵の中の米は生活力を持っているけれども、水田の米のように活きていない。
子供は母の胎内で大きくなり、十分育てば胎外に出されて養われる。
阿弥陀様の御徳を聞きながら、名号を称える時代を資料位という。米俵の中の米や、胎児のような信仰である。まだ活動的でない。種を撰んで蒔き付ける時代である。種に相当した草木ができるように、信仰でも、真空真如の理を聞き、それが実現すれば羅漢である。
信仰の無い人は、暗の生活である。生まれぬ前も、死の後も知らぬ。分からぬ。毎日煩悩を起し、業を作り、生死を繰り返す。この十二因縁の理を聞き、真空無我になれば、煩悩が無くなり、生死を解脱する。
人間は仏法を聞く事のできる心、即ち仏の種が育つ心田地を持っている。四諦、十二因縁の種を蒔けば羅漢という実を結ぶ。豆の種は杉や檜の実に比べて大きいけれども、杉や檜のように大木にならぬ。念仏は杉や檜の実のように小さく、何でもないようであるが、仏という大木になる。
仏様の話を聞けば、そのあらましが解る。念仏して信仰が進めば、だんだん、はっきりと仏様が解って来る。自分を主としてはいけない。仏様は本尊で有って、自分は従である。南無は自分、阿弥陀仏は本尊である。極楽には悪が無いから、そこでは阿弥陀様を忘れても悪道におちる心配は無いが、娑婆では悪が充ちているから、油断できない。ここは恐ろしい世界である。
初めは、仏の御姿は拝めない。それでよい。心に帰命の思いが起ればよい。南無阿弥陀仏と称えて、帰命すれば、仏様は我が心に宿って下さる。
資料位の信仰で、素要を作り、加行位で一心に念仏を励めば、次第に信仰は進み、蒔いた種が、光明に照らされ、芽生えて来る。これを信仰の喚起位という。次に見道位といって、活動的信仰となり、仏作仏行の体現位に進む。
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