アミタ(はからいを超えた命の根源)

私達が、物を見たとき、音を聴いたとき、物がこのように見えること、音がこのように聞こえることはとても不可思議なことです。
現代科学では、目・耳と脳の働きによって、物が見え、音が聞こえると説明します。
しかし、目や耳、そして脳が働いたら、何故このように見えるのか、何故このように聞こえるのでしょうか。そしてもっとも不可思議なことは、私がこのように見たり、聞いたり、感じたりしている、この内容は他人にはわかりません。これが物質であるならば、いかなる物質なのでしょうか。いかなる精巧な検出器を用いても、いまだかつて、それを検出できたことはありません。
すべては物質であると、そのように思っている人がいます。
しかし、例えば私達が名画に心を奪われ、音楽を聴いて感動したとき、この言葉では言い尽くせない感じたものにしか分からない、この感動はいかなる物質でしょうか。
「わからない」と答えざるを得ないと思います。
この私達の量(はからい)を超えた命の根源と、それを照らす光の存在を「アミタ」といいます。これは阿弥陀様のことです。
私達が、亡くなった方々を思い、一心に真心をこめてお念仏するとき、その真心が命の根源である阿弥陀様を通して届いていき、そしてまた亡くなった方々の思いも、お念仏によって私達に届いていきます。そのように思い思われていくお念仏によって、この私がすくわれていくことも、また、阿弥陀様や亡くなった方々の思いでもあるのです。

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不離仏・値遇仏

大願寺を開かれた浄土宗二祖にあたる聖光(鎮西)上人の『徹選択集』というお書物に

問うて曰く、念仏三昧(ねんぶつざんまい)とは何の義ぞや。
答えて曰く、念仏三昧とはこれ不離仏(ふりぶつ)の義なり。
問うて曰く、不離仏とは何の義ぞや。
答えて曰く、不離仏とは値遇仏(ちぐうぶつ)の義なり。
問うて曰く、値遇仏とは何の義ぞや。
答えて曰く、値遇仏とは因地下位(いんじかい)の菩薩は、必ず果地上位(かじじょうい)の如来に値遇して刹那片時も仏を遠離すべからざること、譬えば、嬰児の母を離れざるがごとし。

とあります。一生懸命にお念仏を称えるということは、阿弥陀様から離れないという思いを起こすことです。
離れないという思いを起こすということはお値(あ)いしたいという思いを起こすことです。
おあいしたいという思いを起こすことは、赤ちゃんが母を離れないように、片時も離れたくないという思いを持つということです。
御先祖様、亡くなられた人の為にお念仏することも大切ですが、
この私も救って下さる阿弥陀様をお慕いしてお念仏していくことも大切なことです。
命というのは不可思議なものです。阿弥陀様をその命の親様と思い定めてお念仏していきましょう。

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柔らかな心

信仰とはまず柔らかな心を持つことです。
「私の信じている事のみが正しい。他は正しくない」というのは柔らかな心ではありません。このような心のことを仏教では邪見・偏見といい、争いの原因になります。
私達の計らいを超えた阿弥陀様にまずは柔らかな心をもってお念仏することが大切です。そうすると更に心が柔らかくなってきます。
『無量寿経』には、お念仏をお称えしますと、「私達の身も心も柔軟になって喜びに溢れ善いことをしようという思いが生まれる」と説かれています。
死んでからではなく、現にここに生きている私達が、喜びに溢れ、争いの心から離れていく、そしてそれがまた先にお浄土に往生された方々の願いであります。
しかし私達は、いくらそのように心得てもすぐに心がひっくり返って邪見・偏見の生活に戻ってしまいます。だからこそ「念仏を実践しなくてはと心得る」だけではなくお念仏を実際に実践しなくてはなりません。そうすると心は柔らかくなるだけではなくて、丈夫になっていきます。すると私達の心はひっくり返りながらもだんだんと善い方へ善い方へと進んで行きます。これを信仰の功徳といいます。
皆様も念仏の実践の為に是非お寺にお参りこられて信仰の心を育てて下さい。

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