弁栄聖者の俤(おもかげ)18

熊野好月著『さえられぬ光に遇いて』12

随行記(つづき)

いよいよ長らくの御随行も今宵限り、明日は恒村夫人のお供をして京都へ帰る事になりました。中井先生、松井様は山の別時がすむとまもなく先に帰京なさいました。朝夕御いつくしみ下さいました聖者にお別れいたす事はいかにも名残惜しく、せめてお疲れのお体を久しぶりにお擦りさせて戴きましょうと下手なマッサージをさせて戴いておりました。恒村奥様はお側で団扇の風を送りながら、何くれと、光明会の前途についてお話しておられました。黙って聞いておられましたお上人様がその時ぽつりと、

「わたしが死んだら」と申されました。

思いもかけぬお言葉に、何を言い出しになるのかとどぎもを抜かれていますと、

「九州の信者が、私が死んだら笹本を後に立てて光明主義を立派にやっていくと云っていました。それがいいですね」と仰いました。恒村夫人はすかさず、
「お上人様、いまおなくなりになっては困ります。知恩院の大殿のお勤行が礼拝儀になるまでは生きていて戴かねば」と申されました。

聖者はあと何も仰せられず、おさすりさせていただいていた私は、考えもしなかった、凡そむすびつかぬこの言葉に、何だか急に淋しく、悲しい思いに閉ざされ、ひそかに涙した事でありました。お慈悲に甘えた子供達が我儘をいってはお心をいため、然も自分の非に心づかず、今更ながら勿体ない極みでございます。名残りもつきぬお別れ、お上人様はわざわざ内玄関までお送り下され、尚ふり返りふり返り足もにぶりがちの心に報うてか、お下駄をはかれて、くぐり戸の外までもお出まし下さいまして見えぬまで立ちつくしておいでになりました。ああ思い出つきぬ月余の御随行、悲しい事に幼稚で業障に眼しいたる[※1]この身、せっかくまたと得難い尊い機会に恵まれながら、大聖者に咫尺[※2]しながら「愚者は賢者の心を知らず」とやら、しかも「賢者は愚者の心を知る」幼いものの心に応同してお導き下さったのであります。

その後お礼の言葉と共に随行中の感想の手紙を差し上げ「さきつ頃[※3]、恒村夫人が御随行なさった時、お上人様から「随行中の成績表」というものを戴かれたと承っております。御覧の通りの不束者、将来のため私にも」とお願いしました。お返事の中にいとしき子へのおいたわりの言葉数々を賜わり尚、
「初発心の菩薩として、修業の段階である六波羅蜜の初めの免状を頂戴するのも未だ容易でない。何となれば如来よりつかわされし霊の鎚を未だ恨めしそうに受けているらしいから」云々と落第点を頂戴したのでした。しかし諧謔[※4]のうちに無限の教訓を含めてのこのお言葉は、私に取っては千百の讃辞をいただいたよりも幾倍か身にしみて有難うございました。

み光の中の努力や勉強は決して自力と排すべきでない事を、身を以ってお示し下さいました。いま、私の直面している最もむずかしいと思い、いやに思うその事こそ、如来大悲の試練でありこれをよそにして他に修養の機会を求めるの愚を悟りました。受け身であり消極的で引込みがちの性分は、やはりのぞかねばならぬ垢であり障りでありました。何もかも明らさまにさらけ出してお慈悲のみ名を通してお育てを仰ぐのみであります。

大正九年十月一日は丁度我が国で最初の国勢調査の行われた日であります。この日、お上人様は東から鳥取への途次[※5]丁度夜汽車中でして恒村先生方にお立寄りの予定でありましたので、同家の申告書に最初にして最後の足跡を記録されたのでありました。初めて生年月日等も承知する事が出来ました。一同いよいよお親しさを感じたのであります。その頃はつらつとした勢いで各地光明会に刺激を与え、奮起をうながしましたわが京都光明会は、一つに恒村、中井両先生の献身的な御努力の賜物でありました。御両所共いのちがけの身心を堵しての御熱心さでありましたが、ここに心配なきざしが見え始め、各々賛否相わかれどうなる事かと案じられてなりません。御意見の対立というのは、次のようであったと憶えております。一方では、このよいみ教えを、一時もはやく世に広め、一人でも多く聖者の御縁にあわせるべきとの御意見で、他はまだ自分が出来てもいないのに足元をおるすにして他によびかけるのは尊いみ教えを誤解せしめるもとである。それよりも先ずみ教えのままを自分が一心に行じて霊化され、その行動が自然に人をひきつけ感化する行き方でなければ危険であるとの御意見であったと思います。私共何もわからぬながら考えますと、どちらも御もっともと思われましたが、さて実際問題となりますと、行き方がすっかりちがい機関紙の行き方にしても、お集りの方針にしましても事毎に現れ、それが感情問題と結びつき、ただおろおろするばかりでありました。丁度この日お立寄りを幸い、この問題の解決を聖者にお願いする事になりました。お上人様は一同にむかって、御自分の両手をさしのべられ、

「この右の手には親指が左につき小指が右についている。左の手には親指が右につき小指が左についている。その片方が自分が正しく他がまちがいだと主張しても、それは無理である。両手を統一している頭の中台から見ればどちらも正しいので、この通り合掌すれば親指も小指もぴったりと合う。これがもし、両手共同じ方に指がついていたのでは、合掌は出来ない。み親様を中心にお互いが合掌の心でとけ合い、バラバラの気持ちにならずに、それぞれの持ち味を発揮していく事が大切であります」と涙ぐましいお諭しを賜わりました。またある時はこんな事をお話し下さった事があります。

「ある信者が、私の話で救われたというので非常によろこんで申すには「私は夜休みます前に先ず、お上人様のいらっしゃる方を拝みます、それから法然上人様を拝み、しまいに如来様をおがんで眠りにつきます」と申しておったので、「それはただ如来様を拝むだけでよろしい。すべてはその中に含まれています」と云った事であった。お釈迦様も、

「自分は如来様という月を指さす指である、世の人はともかく、指に心をうばわれて肝心の月を見ようとしない」となげいておられる。救われた嬉しさに伝道者をむやみに有難がって、肝心の大ミオヤ様をおろそかにする人は必ず失望する時が来る」と。

くりかえしお諭しになりました。とかく私共は如来様はあまりにも高すぎてわかりませんので、私達の身近にあって如来のみ光を体現します聖者ばかりが有難くてなりませんでした。それから半年もたたぬ間に、御遷化になりました時はただ途方にくれて、この一人歩きも出来ぬ赤ん坊を捨ててお浄土に帰られた事が悲しゅう思いましたが、いつまでもお肉の身ばかりにおすがりする事の非を悟らせ、大みおや様をお慕い申せとの深い思し召しであった事かと後でわからせて戴きました。

さて、いよいよ鳥取に御出立ちになりました時は京都から蚊野氏が随行され、恒村御夫妻は嵯峨まで、私は園部駅までお見送りいたしました。車中にてかねがね解決しかねておった心の問題をお伺いいたしました。その時は何も仰せられず、あとで委しく手紙を出すからとの事で園部駅でお別れいたしました。教示をねがいましたのは私として将来如何に世に処すべきか、どんな方針で進んで行ったらよいかを、その時課せられていた問題について具体的なお示しを願ったのでした。お上人様の御命ならば火の中も辞すまい、自らの心の進まぬ境遇にでも甘んじようと決心しておたずね致したのでございますのに、お返事は簡単で、お念仏の申せる様な境遇を選び、また世の人に如来様のお光明を伝えるに都合のよい生活様式を選んで参るがよいとの意味で、はっきりと右せよ左せよとの御指図はなかったのであります。

いよいよお別時の前日、聖者を二条駅にお迎えしました時、見馴れぬ御出家がお供をしていらっしゃいました。それが佐々木為興上人である事を紹介されました。

(つづく)

  1. 眼しいたる:眼がみえない状態 []
  2. 咫尺:【しせき】近い距離 []
  3. さきつ頃:先日・せんだって []
  4. 諧謔:【かいぎゃく】気のきいた言葉・ユーモア []
  5. 途次:【とじ】(あるところへ向かう)途中 []
カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」

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