『狐憑』

今日は中島敦著『狐憑』を読みました。

ホメロスと呼ばれた盲人のマエオニデェスが、あの美しい歌どもを唱ひ出すよりずつと以前に、斯うして一人の詩人が喰はれて了つたことを、誰も知らない。

で終わるこの作品は、「人類最初の詩人の物語」という解釈が普通であるよう思われますが、私にとって重要であったのは主人公シャクの「狐憑」としての末路でした。
主人公のシャクは弟の悲惨な死を通して、奇怪な事をしゃべり出すようになります。そこには弟の悲惨な死という明確な原因があるのですが、その話の内容に集落の人々が興味を示していくにつれ、しだいに娯楽を提供する者として「狐憑」を演じているのか、それとも本当の「狐憑」なのかという境界線が本人とっても曖昧となっていきます。そして自分の都合のよいように言葉を紡ぎ出すようになり、集落の権力者の怒りを買い、殺されてしまいます。
世間には私には霊が見えるとか、私は仏を見た等と軽々に語る者がいます。しかしそのような事を軽々に語る人々は、この『狐憑』の主人公のように哀れな末路をたどってしまうよう思えてならないのです。
昔から、このような事は、たとえ本当の経験であったとしても、軽々に語ってはいけないとされています。浄土宗三代祖、良忠上人はその理由を「魔によって擾乱されるからである」と説いていおられます。
シャクも始めは本当の「狐憑」であったのかもしれません。しかし他人にそれを語っていくうちに、本人も気づかないうちに、どんどん歪められ、自分の都合の良いようにものが見えてくるようになったのでしょう。
ではもし、われわれが霊を見たとか、「狐憑」のようになった場合どうすれば良いのでしょうか?
もっとも大切な事はお念仏をする事です。そしてこれは重要なことですが日常生活に支障がある場合にはちゃんと通院することです。機能的なことが原因であることも十分ありえますし、日常生活に支障があるのは霊が原因だという認識になりますと病識(自分は病気であるという認識)がなくなり問題の解決が難しくなる場合があります。
霊は本当に存在するのかという問題は別として、それが機能的な問題であるならば薬が解決のもっとも大切の1つになります。それが機能的なものではなく心の問題であるならば、阿弥陀様に全てお任せすれば全く問題ありません。

カテゴリー: 勉強, 檀信徒, 読書

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