弁栄聖者の俤(おもかげ)17

熊野好月著『さえられぬ光に遇いて』11

唐沢山別時にて

お上人様を中心にした広間では色々面白い問答がかわされておりました。ある人、

「お上人様あなたのお眼にはひとみが二つ重っていて、日中の太陽でも平気で御覧になれるとかききましたが本当ですか」

 お上人お笑いになって、

「太陽は初め見る時は眩しく感じるが、じっと見つづけていると眼が馴れて左程まばゆく感じなくなります。誰でも見られますよ」

 また、

「お上人様のてのひらは灯火をおともしになったので、火傷のあとでしわがないとききましたが熱くはありませんか」

 上人、

「それは熱いです。しまいに皮のこげるにおいがして来ます、然しあんな馬鹿な事はするものでありません」

 またある老婦人、

「お上人様この人が歯がいたいといっておられます。一寸なおしてあげて下さいませ」

 上人、

「それは竹内さんにおたのみなさい」

またある越後から参られた婦人、

「お上人様、私は母がなくなって一体どこに生まれかわって居るかそれが気にかかってどうかして知りたいと思っておりました。所がある時の夢にとてもきれいな天人の姿をした母を見ました、すると母は天上界に生まれているのでしょうか」

上人、

「そうですね」

その婦人たちまち涙ぐまれ、

「それでは仏様の所へ生まれているのではないのでございますね。何とかしてたすける事は出来ないものでございましょうか」

 上人、

「それは今がいまどうする事も出来ません。人間の世界でも子供が生まれるとみんな非常によろこぶではないですか。丁度そのようにあなたのお母さんは天人の境界によろこび迎えられていられるのです。時をまたなければ……あなたはただ一心にお念仏をなさい」

横浜の久賀夫人、

「お上人様、どうしてかこちらへ参りまして眠くてなりません。家ではこんな事はありません。一生けんめい眠るまいとしますけれどどうする事も出来ません」

 お上人笑って、

「我々もねむいですよ」

お上人様を特別のお方、不思議なお方と見られておるようでした。また実際、常人のなし得ない事を何でもないもののようにしてしまわれます。時々は両手に筆をもち同時に異なった歌を書かれたり、お米ひと粒に般若心経一巻を書かれたり、それは人を驚かせる為でなく、如来様のお慈悲を知らせたさに、口でいうだけではよりつかないので何とかしてとのやるせないお心から方便としてお用いになったという事は常々、

「世間の人は水の上を歩いたとか、お酒にかえたとか、手をふれて病気をなおしたとか、こういう事を大変な奇蹟として驚くがそれは大した事ではない。それよりも悪の心を善心に立ちかえらせる。これ程大きな奇蹟は外にない」

と仰っていらっしゃいました。

ここで私は思い掛けない大きな試練に出逢い、一時は真っ暗な所に突き落とされたような気持ちになってしまいました。世間知らずの一本調子の私がいつの間にか足元を忘れてよそ見をしておったのに対しての如来様の一大警告でございました。それはこの道の大先達として将来を嘱望され新進の熱烈な指導者として多くの方々の帰依を集めていた方の御素行に、あるまじき噂をこの清らかなるべき集いでの専らの評判として耳にしたのでありました。真偽はともあれ、そうした取りざたする人たちも浅ましく、また噂の種をまいた人も情けなく思いました。ふるい道徳の殻をぬけ切れぬ私には何だか念仏申してどんな所に導かれていくかわからぬと恐れをいだかずにおられませんでした。

「このみ教えばかりは、今まで失望に失望を重ねて来たそれとはちがって、真実のものと思ったのに、これも世上のものとは何等かわらなかったのか」

と私はまたも失望の苦杯をなめさせられ一体どうしたらよかろうか、またしてもよるべなき小舟のようにさまよわねばならぬかとお念仏も出来なく、本堂で勇ましい木魚の音をよそに、お座敷の片隅にしょんぼりと思案していました。お上人様はお仕事をかたずけて後、くれて本堂へ出ようとして私を見つけ、

「徳永さん[※1] どうかしましたか」

と優しくお尋ね下さいました。私はつい悲しくなって涙ぐみ、

「お上人様、私は光明主義がいやになりました。どうしてもお念仏が出なくなりました」

とやっとそれだけ申してあとは何もいえずうつむいてしまいました、するとじっと私の様子を御覧になって悩む子の気持ちをお読み取りになったのか、

「天魔らが吹きおこす百のいかづちむら雲も、み空さやかに照り渡る月にはさわりあらざりしではありませんか、むら雲を見てはいけません」

と仰って、静かに本堂へお出ましになりました。「むら雲を見てはいけない月は自分に見えても見えぬでも在すのですよ」とのお諭しに電気にうたれたように自らの非を悟らせていただき、やっぱりお念仏を離れて私の生きる道はない。ただ一筋の命のすがり綱であった。大ミオヤ様はこの信うすき身をお見捨て下さらなかったと有難さに泣いてしまいました。この出来事は私の心に起こった極めて些細な問題ではありますが正しく如来様の御試験でありました。死線を越え得るか否か、帰命とは生命を捧げる事と言葉の上では知りつつ実地にあたっては小さな我の計らいをもってこの無碍の念仏道に疑いをもち、あわれ二歩も三歩も退去したのでありました。この敗北こそ取りかえしのつかぬものであります。

お釈迦様の成道の時、魔軍襲来したというも決して架空なたとえ話ではなく、大小異っていても私の体験しました迷と悟との分水嶺、心の上の問題であったろうと思わせていただきます。ここに今更ながら親鸞上人の尊い絶対の信を有難く味わわせて戴きます。

「念仏はまことに浄土にうまるしとねにてやはべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん──たとえ法然上人にすかされまいらせて念仏して地獄におちたりともさらに後悔すベからす候」云々

このお言葉は法然上人の御順境の時ではなく、恐らく大邪教よばわりをされて弟子すらみ許を離れゆくものも多かった時に吐かれた、血のにじむような信頼のお言葉であったろうと推察されます。何でもない人の噂にかくも動揺したこの身のいかに信と愛のよわいものかを反省し、かくもみめぐみ深い聖者に対して申し訳なさに身のおき処もない感がいたしました。ああ難しいかな絶対の信、これなきが故に我はさまよう。また一面この敗北こそ未だ内容も熟しておらずただ理想ばかりを追って、実行の足がともなっていない危なかしい信、うつり香を己が香りと思い違いして増長した、たか上りの心を非常手段によって気づかせようとの如来様の御慈悲でありました。むごたらしいまでに打ちひしがれ、私のどこに存在の意義があるかさえわからぬほどのみじめさで、一時はこの教えに逢ったばかりにこんな苦しみも感ずるのかと恨めしくさえ感じた愚かな私。もしその時、細々でも試練にたえていたならば、それこそ鼻もちならぬひとりよがりにて、つまらぬ所に腰かけてしまった事でしょう。如来様は未だお見捨てになりませんでした。それと申すも長らくお供いたす間に、うつり香と申しますか、お念仏の調子もととのい霊感と申す程の事でもありませんが、いろいろ啓示さるる事の不思議さを、半信半疑のままお上人様に申し上げますと「ああそうですか」とだけ仰っしゃいますが、必ず次の御法話の中に思いあたる事ばかりにて、心ひそかに自ら許す所があった。その心のゆるみに御慈悲のしもと[※2]は加えられたのでありました。

一週間は苦しみの裡に終りました。一同下山私達はお上人様のお供をして上諏訪の正願寺へ参りました。この町で弁栄上人様を中心とした子供大会と婦人会が開かれる予定でありました。一週間の垢を温泉で落とし一ヶ月御随行中、かみそりもあてず、ろくろく鏡も見なかった、恐らく化物のようであった私を恒村夫人の細かいお心遣いで生まれて初めての床屋へ連れていって戴きました。町の辻々に出ています子供大会の案内の看板に、

「来会者一人残らずに弁栄上人の米粒名号をあげます」

と書かれてありました。主催者のお考えではいつもの見当から多くても三百人位であろうとそのつもりで用意してあった所、当日集った会場には、何と大人もまじって約七百。主催者は青くなってお上人様の処へ飛んでこられてその事情を訴えられました。お上人様は何とも思し召さぬ御様子で「それでは書きましょう」と外の人が前座をつとめお噺をしておられる一時間程の間に忽ち三四百の米粒に南無阿弥陀仏と書かれたその速さ、柴さん達三人程の方が紙で包まれる方が追いつかぬ位だったとの事です。

「これ位でいいでしょう」とやめられましたがそれが何とぴったりと合っていたと申されました。

(つづく)

  1. 徳永さん:本稿執筆者、熊野好月師の旧姓 []
  2. しもと:(罪人を打つための木製の杖・転じて)手厳しい戒め []
カテゴリー: 弁栄聖者の俤, 月刊誌「ひかり」

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