名号の不思議02

──超越即内在の動態(ダイナミズム)──

光明修養会上首 河波 定昌

名号はあらゆる人間のいとなみの中でも実に不思議の極みであります。副題に掲げた超越即内在(あるいは内在即超越)における殆ど死語ともなっている超越や内在といった言葉も私たちの一声一声の称名の中に生ける現実となってはたらき出してくるのであります。動態(ダイナミズム)とは、たとえば私たちの身体活動の生き生きとした様態等をあらわすもので、心臓から血液が脈拍となって働き出し、また自律神経が活動し、ホルモンの分泌が遂行せられてゆく等もダイナミズムそのものであります。超越という言葉も、また内在という言葉も宗教哲学的な学問用語として使用せられてきたのですが、日常性に埋没している私たちにとってはそれらはまさに死語に近いといえます。

しかしながらたとえば徳本上人のお歌、

  十万億、何遠からん
    一声ごとにいき通りなり

にもみられるように十万億(超越の阿弥陀経的表現)が一声ごとにい(往)き通い、またいき(息)通うように超越が身近なものとして(すなわち内在的に)受けとられてゆくのであります。徳本上人において称名念仏がまさに現実に超越即内在、内在即超越となっていたのであります。

そのことは念仏者の一人ひとりが一人ひとりなりに体験せられてゆくものであり、そしてそのことが一人ひとりの至宝とさえなってゆくのであります。

たとえば光明主義のお念仏のご縁に遇って念仏三昧の実践に徹していった跡見学園を創設した跡見花蹊女史にも、

  称うるも(内在) 我にはあらで み仏の
    み声(超越)と知るに 尊かりけり

の歌が残されています。そしてそれはその跡見女史を指導された田中木叉上人の「お慈悲の歌」にも見られます。すなわち、

  子を喚ぶ大悲の御声(超越)が
  称うる衆生の声となり(内在)
  南無阿弥陀仏とよぶ声に
  あらわれたまうご名号

のお歌にも直流しています。すなわち「南無阿弥陀仏」と喚ぶ私たち凡夫の内在的ないとなみにおいて名号の超越的なはたらきが全面的にいとなまれてゆくのであります。名号の神秘、名号の不思議さはまさにその点にあります。この名号を称すること自体における超越即内在の展開は仏教のみにおいてではなくキリスト教等を含めて、むしろ宗教それ自体に具わる秘儀として、いわゆる「名号の神秘主義」 Namensmystik としてみられるところであります。

その点では言葉を発することにより、その言葉の内容が実現してゆくとする呪術的世界とも連なるところもありますが──呪術と宗教との関係については先に(本誌4月号)述べました──、それが超越そのもののはたらきとして頂かれてゆくところに宗教の本来の展開がみられるのであります。かかる Namensmystik を革命的に展開されたのが法然上人でした。(『選択集』第三章)。

法然上人は名号の功徳として、「三身、四智、十力、四無畏等の一切の内証の功徳、相好、光明、説法、利生等の外用の功徳」がすべて阿弥陀仏の名号の中に摂在していると論じられているのであります。これらの功徳はすべて阿弥陀仏の本願(超越的はたらき)に由来しています。そしてその超越的な内容が称名する私たち一人ひとりの内容となって私たちの内奥から発動するのであります。すなわち超越が内在化し、超越がそのまま内在となってはたらくのであります。名号神秘主義 Namensmystik というほかはありません。

そこには一般的には超越的な名号の呪術化といった傾向もみられなくもないのですが、しかしながらより根源的ないとなみとしての本願のはたらきによって単なる呪術的な傾向は打ち破られて、そこに超越的世界の地平が開かれてゆくのであります。そしてその超越的内在の内容をより深く開示せられていったのが弁栄聖者でした。

たとえば『選択集』の中の、三身も四智等も、すべて阿弥陀仏の超越的な内容に他なりませんが、弁栄聖者においてはその超越の内容が私たちの内的根源から出現してゆくのであります。たとえばその中の四智とは、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の四つですが、その中の大円鏡智とは阿弥陀仏の絶対智であり、またお浄土の世界の実体でもありますが、それが弁栄聖者のご道詠にもみられる私たち自身の内容として展開せられてゆくのであります。たとえば、

  阿弥陀仏を念う心のますかがみ
    限りなきまで照りわたるなり

(『道詠集』百ページ)

がそれであります。「ますかがみ」は「増鏡」で日本古来の伝統とも繋がりますが、しかしながらその「かがみ」が「かぎりなきまで照りわたるなり」とはまさしく大円鏡智そのものに他なりません。日本語の「わたる」には「遍」の意味があります。それは私たち一人ひとりの称名念仏において阿弥陀仏の内容としての超越にして遍在的な大円鏡智が私たち自身の根深い主体性そのものとなって展開せられてゆくのであります。
 禅宗の人たちは浄土門における「心の不在」を批判し、また実際、浄土門においても「捨此往彼 蓮華化生」等のみを説いて、充分に心の問題を展開することのなかった傾向も否めませんが、弁栄聖者のこのようなお歌においてすべては氷解してゆくのであります。また次のような聖者のお歌、すなわち、

  十万の億と説きしもまことには
    かぎりもしれぬ心なりけり

(『道詠集』一二七頁)

にも念仏門における心(根源主体性)の躍如たる展開がみられます。

また田中木叉上人にも露堂々と根源的主体性は実現していたのであり、そのことはたとえば、

  すき透り尽十方はただ光
    これぞ我かもこれ心かも

にもみることができます。

また称名に超越即内在のいとなみとして「外用の功徳」たる相好、光明等における相好のはたらきにもみることができます。すなわち称名の中の外用のはたらきの中の第一に相好のはたらきが挙げられているのであります。時として相好の立場は称名の実践の立場と対立的に考えられるむきもなくはありませんが、法然上人の『選択集』において相好の立場が称名のはたらきの一環として述べられている点は注目すべきであります。弁栄聖者の「七覚支」のお歌において「弥陀の身色紫金にて、円光徹照したまえる、端正無比のみ姿を、聖名を通して念おえよ」と詠われているように、相好のはたらきも法然上人の称名の立場において止揚 Aufheben されているのであります。止揚とは単なる否定ではなく、より高次の立場で躍動するのであります。すなわち称名は相好を否定するのではなく、称名念仏の中で阿弥陀仏の相好がおのずとはたらくのであります。『観無量寿経』も善導大師もその相好の徳を説いてやみません。称名の中に阿弥陀仏ご自身の外(私たち)に向かっての相好の化用がはたらくのであります。そしてその超越的ないとなみとして私の称名の中から、相好への感応道交がおのずと生起してゆくのであります。たとえば弁栄聖者のお歌「諸根悦豫讃」(三相の聖歌の第一)の中に、

  我がみ仏の慈悲の面
  朝日のかげに映ろいて
  照るみ姿を想おえば
  霊応極まりなかりけり

がみられますが、阿弥陀仏の外にはたらく外用の功徳の中の相好の功徳は私たちの構想力(これとても阿弥陀仏の超越的ないとなみ)と感応道交し Namensmystik が成就せしめらてゆくのであります。

それゆえ外用のはたらきも、また私たちの最奥底(内在)と呼応し、私たち一人ひとりの内から相好の功徳が展開されてゆくのであります。そこに人間形成の本質も考えられるでありましょう。

善導大師はそのところを『往生礼讃』において、

  観音頂戴冠中住
  種々妙相宝荘厳

ここで観音様とは念仏する私たちの原像ですが念仏する私たちの中から「種々妙相、宝をもって荘厳せらる」と高次の人間形成がいとなまれてゆくのであります。

(つづく)

カテゴリー: 上首法話, 月刊誌「ひかり」, 法話

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