熊野好月著『さえられぬ光に遇いて』13
随行記(つづき)
後の百万遍知恩寺の御法主桑田寛随上人はその当時、知恩院の法教課長の要職にあられながら常に私共在家のものの集りにも御出席下され、礼儀もわきまえぬものをも寛容の心をもって御指導下さっておりましたが、いよいよその御主催のもとに、知恩院の勢至堂で別時三昧会が開かれる事になり、当時の御案内状。
祖山の御別時
来る十月十六日より二十二日まで五日間、総本山知恩院勢至堂に於て山崎弁栄上人指導の下に別時行儀三昧会を修業致可候間参会御希望の御方は左記の各項御承知の上申込下され度この段御案内申上候也
大正九年九月 主催者 桑田寛随
一、道場の静粛を保つ為人員を制限致候間御望の方は十月五日迄に総本山知恩院事務所桑田寛随宛に御申込之有候事
二、以下略
何しろ主催者が有力なお方でありましたので本山あげての御接待振り、種々便宜をはかって下さいましたので、参加者一同心から感激した次第、全国の遠近より熱心な僧俗の参加を見たこの別時は実に未曽有のものでありました。聖者なきあとの結束の上にどんな大きな役目を演じた事でありましょう。時空を超えて無礙の光となり力となって大きな波紋をえがいたのでありました。
私は学校のつとめを持つ身、ひまを見ては知恩院にかけつけました。
お上人様は勢至堂の奥の庭に面した四畳敷の室をお控間となされ、例によって仏画の揮毫や人の応接に寸暇もあられませんでした。
元来信仰に縁遠かった私の一家は昨年来、お上人様のお徳によりまして父を初め、中学生の末弟まで御法話を拝聴し念仏を申すようになっていましたがただ一人、当時大阪に務めていました妹だけがまだ一度もお目にかかっていません。私は何とかしてこの度の御縁に逢わせたい。一目でもお上人様にお目にかからせたらと前々から再三手紙を出しましたが務の身の暇なきにかこつけて、一向帰ると申しません。
「姉さんのように単純に信仰する事の出来る人は幸せです。私も信仰の必要な事は認めますが、私は美の世界にもあこがれがあり科学や芸術にも引きつけられます。いずれは宗教に辿りつくべきではあっても、せっかく人間に生をうけてこの世のあらゆる方面を味わいきわめないのはあまりにも味気ない様に思います」云々
というように、私の単純さを笑うような意味にもとれる返事をよこしました。自分にはこの妹を言い説くべき力はない。聖者にさえお目にかかってくれたならば、妹の望んでいる事に矛盾する教えでなく、理解の早い事故、これこそ我がゆくべき道とわかってくれるであろうにと、ただ一心に祈りました。別時の日はずんずんすぎていきます。半ばあきらめておりました時、雪香殿の夜の席に、後の方にその姿を見出した時の嬉しさ、思わず合掌いたしました。早速、終ってからお上人様のお室に連れてまいり、御紹介いたしました。御挨拶の頭を下げてお言葉を戴くと見る内に何か感じましたか、頭もあげやらでハラハラと落涙いたしました。霊気に打たれたとでも申しましょうか、どちらかと申せば理智に勝った性質でありますものがこの態であります。実にこれこそ千載一遇の機会でありました。この時にお目にかからねば、永遠に御縁はなかったでしょう、聖者ならでは私達と同じ信仰に結びつかなかったでありましょう、私の一家は完全に御縁に結ばれました。最初にお目にかかった折に、どうかして家中にこのお光をと念じました事がここに果たされました。
お上人様の御身より放射される霊妙な光に化された結果の日頃の心のかきも取りのぞかれて、溶け合ったえもいわれぬ雰囲気は実にこの世の何ものにもたとえられぬ感じ、極楽さながらのゆたけき1心もちはとうてい筆や言葉で表し得ませんこの雰囲気に触れた方ならばきっとうなずかれる事でしょう。
意義深い祖廟の別時も盛大に終りました。お上人様は引きつづき東京へ向かわれ、信濃路を経て越後へおまわりの予定の由、私に東京から上諏訪を経て新潟までの延べ里数を調べるように命ぜられ(通し切符を買うため)そして仰せられるには、
「東京から高崎、上諏訪、松本、高田、柏崎、長岡、新潟などずっと連絡して光明会が催されるようになった」と大変およろこびになっていました。これが聖者最後の御旅程と知る由もない身は仰せのままに検べました。
(つづく)
- ゆたけき:「豊けき」。豊かですばらしい。広々としておおらかな。 [↩]
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