◇〈弁栄聖者ご法話〉聞き書き その一(別時の説教)〈つづき〉
▽授戒
一月二十八日の朝八時から授戒会が始まった。本堂には三昧仏が掛けられ、幕が張りめぐらされ、四、五十人の信者が集まった。念仏を申し、礼拝儀を称え、お説教を聞き、又念仏を申すという順序で、毎日お勤めを繰り返すのであった。正午になれば、一同は念仏を申しながら上人のあとに続いて本堂から下り、食堂に入る。そこにはコ字形に卓が列べられてある。一同十念を称えて箸を執る。村人はまたたくひまに食べ終る。御飯が固く、歯の悪い自分はいつも最後になった。一同十念して席を去れば、残りの人達は代って卓に着き、食事をした。
夜、上人は私に、学園の生徒に何か話をしてやってくれる様にと仰った。自分は話がへたであるから、恥をかくかも知れぬと思ったが、上人の仰せだと、よろこんでお受けした。後日、弁信君から聞いた事であるが、風呂の追いだきをしていた弁信君に向かい、上人はお風呂の中から、
「弁信、帝大の先生が来られたぞ」
と私がお供して来た事をお喜び下さったという事である。知識階級に光明主義の火が着きかけたのを御満足に思し召されたのであろう。
上人は徳永さんと私に、十二光仏の講義を、引き続き聞かせようといって下さった。
自分は二人の娘と共に毎夜、上人と火鉢をへだてて座し、色々のお話を承った。そして私はいつも筆記を怠らなかった。この数日のまどいに於て、生涯忘れられぬ清浄円満なる家庭の姿を見出した。慈愛と威徳の権化ともいうべき上人を父とし、信仰にあこがるる三人の兄妹が、身は他人であるけれども、心は永遠に離れぬ霊的血脈の通う仲である。この敬と愛とに調和を得た暖かき、何ともいえぬ聖なる親子、兄弟の悦びを、地上のどこに見出す事ができようかと思った。
二十九日の昼食後、上人は又私に、本堂で皆に、当麻へ来たわけを話してくれる様に仰った。徳永さんは、村の小学校で娘達に話をされた。この村では、名士が来ればいつも小学校でお話をして貰う習わせ〈習わし〉だという事である。私共は名士では無いけれども、頼まるるままに小学校へ出かけた。私はその夜、青年達に信仰について、特に弁栄上人の偉大さを感ずるままに述べた。
三十一日の朝、御飯を頂いたあとで、私は上人に申上げた。
「初め法蔵寺でお目にかかった時、気分が変った様に思いました。家内も其時から食物について世話がなくなったといいます。このたびは、長らくお側に置いて頂きましたから、家庭にめざましい変化を来たすであろうと思います」
と、申上げた。上人はただ、一言、
「うつり香ですね」
と、ささやかれた。これこそ、自分にとり、生涯忘れられぬ冷汗を覚ゆる大痛棒〈心に響く痛烈な一言〉であった。孔あらば、はいりたい思いがした。あすはお別れという朝、頂いたこの有難き御誡めを今に耳新らしく、思い出す度に、心している。
五日間の授戒会の終る二月一日に、御剃刀を受け、袈裟と戒名を頂いた。その夕方、なつかしい当麻をあとに、村人達と別れ、上人のみもとをしばし離れて京都へ帰る事になった。
いざお別れという時に、上人は、私を呼び止め、
「中井さん、今、あなたは当麻で死にます。あすは京都に生まれます。けれども自分には切れ目が有りません。浄土に生まれるのも、これと同じです。三昧状態で、醒めて生まれます」
と、いって下さった。私は、それを聞きうれしく、頼母しく思った。この短いお言葉が、その後、私の口を通して、幾多の人の信仰に正気を与えたか、今に偉大な働きをしてくれる。
〈つづく〉
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