光明主義は日本的霊性の完成02

──第2二節 光明主義は弥生文化(稲作)的霊性の完成──

さきに日本文化の重層的立体性の構造について述べました。即ち大乗仏教的地平、その背景に弥生(稲作)の文化の地平、そして更にその奥底に縄文的文化が存在していて、それら三者が相互に立体的に重なり合いながらその文化が深められていったということ、そしてそれぞれの文化にそれぞれ独自の霊性の展開が考えられ、それらが究極的に弁栄聖者の光明主義によって完成せられていったということであります。

日本の仏教もその豊かな先行する霊性文化なくしては考えられません。インドでさえもイスラム教によって仏教は殆ど根を絶たれ、中国においても共産主義によって殆ど完全に否定されてしまいました。しかしながら大乗仏教が日本においては世界のあらゆる文化や思想が受け入れられながらも生きて活動しているのは、その背景に豊かな縄文的弥生的霊性の基盤があったからに他なりません。しかもそれらは、決して直線的に前の文化を否定して新しい文化を創るというのではなく、相互に相い重なりあいながら発展していったことが考えられます。そのことはたとえば「山川草木悉皆成仏」という言葉において仏教渡来以前の天地万物に神々をみていたアニミズムの世界が仏教の世界において止揚されている、といった点からも容易にうかがうことができます。

そして日本において豊かな大乗仏教の展開がみられるのは、その背景に先行する豊かな霊性的基盤があったからであるということができます。そこに日本が「大乗仏教有縁の地である」との所以も考えられるところです。

そして光明主義が大乗仏教を完成せしめてゆく(究竟大乗)とともに、そのことに即して稲作を中心とする弥生的霊性等の完成の遂行も考えられるのであります。

稲作文化自身に関していえば、それに先行する縄文文化が食物採集経済であったのに対し、食物生産革命でした。そしてそれは経済的にもそして精神的にも飛躍的な文化を形成していました。そしてその精神的内面性へのアプローチは単なる考古学的地平を超えて豊かな霊性文化の展開を予測することができます。

そのことはインドにおける紀元前五世紀頃の仏教成立の視点からも考えられることができます。たとえば釈尊のご父君であられた浄飯王の名からも知られるように、当時すでに稲作の存在を予想されるところでした。浄飯王のインドの原語名シュッドーダナ Śuddhodana には白飯、浄飯を意味する飯 odana の語が含まれていますが、浄飯には「清らかなご飯をもつの意」とされているように(前田專學『ブッダ─その生涯と思想』参照)、食物生産による豊かな社会が成立していたことを想定することができます。

このように稲作はインドにおいて古くから行われており、仏教との関係について考えるべきでしょう。また中国においても古くから稲作はなされており、それが日本に渡来して日本文化を飛躍的に発展せしめていったことが考えられます。

日本において稲作文化としての弥生文化は紀元前4~3世紀頃と考えられていましたが、新しい考古学では紀元前九世紀頃まで遡る説さえ出てきています。そして稲を中心としてその豊かな宗教儀礼等の発展もなされてゆきました。宮中の最も重要な儀式の一つである新嘗祭は神と共に新しく収穫したお米を神に供え、神と共に戴く儀礼であり、米を中心とした宗教文化の展開がなされてきたのでした。

稲は単なる食物としての米にとどまらず、稲霊あるいは穀霊として、弥生人にとって神そのものであり、それを中心とした文化の発展が営まれてきたのです。

また、釈尊の物語には「心田」の喩がでてきます。一般の人は田を耕しているが釈尊ご自身は心の田を耕しているとの喩えです。そしてその精神はそのまま田中木叉上人の「心田田植歌」に直流しています。たとえば、

  山は青々     日はうらら
  田には漫々    慈悲の水
  秋はみのらん   無量寿を
  うたえ南無阿弥  田植歌
  青い稲葉は    その中に
  白いお米の    みのるため
  死ぬるからだは  その中に
  死なぬいのちの  そだつため

の歌は弥生(稲作)文化がそのまま大乗仏教の精神そのものとして躍動してはたらいていることが考えられます。

このようにお米そのものが大乗仏教における仏種子の概念等とも結びついて更に豊かな展開がなされてゆくことになります。

大乗仏教における代表的な経典として『勝鬘経』(詳しくは『勝鬘師子吼一乗大方広方便経』)があります。その中の一偈文、すなわち、

哀愍覆護我 令法種増長
此世及後生 願仏常摂受
(哀愍して我を覆護し 法種をして増長せしめたまえ 此世及び後生 願わくば仏 常に我を摂受したまえ)

の偈文は善導大師もよくよく重視されたと見え、『往生礼讃偈』には六回も反復して引用されています。そこには植物の種子、とりわけ稲と『勝鬘経』の説く法種(すなわち仏種または如来蔵、仏種)とが限りなく重なりあっています。

弁栄聖者の十二光の体系において最後の三光はそれぞれ難思光(発芽)、無称光(開花)、超日月光(結実)として説明されていますが、それらは仏教の悟りの展開が植物の生育の喩えで説明されています。そしてそのことでまた稲作文化としての弥生的霊性の展開が大乗仏教の霊性的世界に限りなく通じあっている点が考えられます。

弥生文化にとってお米は穀霊ないし稲霊として神そのものでした。二十一才まで農業に励まれた弁栄聖者においてそれは阿弥陀様と一体化して展開されてゆくようになります。いわゆる米粒名号がそれで、お米は南無阿弥陀仏の名号と一体化して、弥生文化そのものを完成せしめてゆきます。そこにすでに聖者においても光明主義における弥生文化の完成をみることができます。

この米粒名号について田中木叉上人は『日本の光』の中で、明治三十二年の一寺院の法要において、

……米粒を洗わせておいて、左手の平(ひら)につまみ入れ、親指と人指し指でつまみ上げて、右の手で書かれる。時に謁見者と話しながら書かれる。その間には説法もある。つづけざまに書かれて凡そ六千の人数の全部に行き渡り、参詣者は入り替り米粒名号を頂いて帰るという風で、皆々驚嘆の外は無かった。……

(同書、二二〇頁)

そしてそれが念仏の一般大衆への結縁となっていったのである。

このような米粒名号におけるいわゆるミクロコスモス(小宇宙)としての米粒は阿弥陀仏としてのマクロコスモス(大宇宙)と相即し、南無阿弥陀仏と一体化してゆくのであり、そこに巨大の構成が動いています。そして弁栄聖者ご自身が米粒名号においてみずからがミクロコスモス(小宇宙)になりつつマクロコスモス(大宇宙)にもなっています。

このマクロコスモスとミクロコスモスとの相即関係は、たとえば「一微塵中、三千大千世界の経巻あり」とする大乗仏教経典たる『華厳経』(如来性起品)等にも豊かに展開されている思想ですが、その内容が弁栄聖者の米粒名号において躍動してはたらいていることに驚嘆をおぼえます。

このマクロコスモスとミクロコスモスとの関係はヨーロッパにおいてはニコラウス・クザーヌス(1401-1464)等においても豊かに展開されていました。しかしながら、ヨーロッパにおいて近代科学の発展とともにかかる宇宙論は崩壊してゆきました。しかしながら豊かな弥生文化と大乗仏教の一体化した光明主義の土台の上に新しい宇宙論の展開を望むことができます。弁栄聖者においては、かかる大宇宙=小宇宙相即関係については、たとえば、

  いと微なるアミーバとまでへりくだり
    されどまた本のビルシャナ

(『道詠集』七三頁)

と詠まれたりもしています。大宇宙たるビルシャナと小宇宙たるアミーバとの相即が弁栄聖者において展開されていったのです。

なお弥生的霊性はたとえば伊勢神宮にも集中してあらわれています。仏教とは無縁のイギリスの歴史学者A・トインビーや、同じくイギリスの元首相であったサッチャー夫人等も伊勢神宮に詣でて感動し、その霊的雰囲気圧倒されました。特殊的とも思われる伊勢神宮にあらわれ出ている日本的霊性に彼らが感動している点で、その弥生的霊性に世界的な普遍性がみられます。そしてそれを完成せしめていった光明主義こそは、まさに真のカトリック(普遍的)と称するに価するでしょう。

(つづく)

カテゴリー: 上首法話, 月刊誌「ひかり」, 法話

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