◇〈弁栄聖者ご法話〉聞き書き その二(授戒会の説教)〈つづき〉
三聚浄戒は父の憲法であって、神聖、正義に当り、念仏は母の愛にて、恩寵に当る。我等の本性は法身より受けたものであるが、罪のために、報身の如来に会われない。儒教では、本性を明徳といっている。
大み親は報身仏である。吾等は徳なく、心は空である。報身仏より徳を受けて円満になる。この徳を無漏善という。これに対して、娑婆の善を有漏善という。有漏善は、ロウソクの如く、消えて、再び用いられない。
大み親の子として、吾々は皆、兄弟である。人を他人と思わぬ故に、人からも慕はれる。信仰が進めば、他人が少なくなる。
南無と申して、自分の汚れた心を如来様にささげると、その代わりに徳を与えて下さる。徳本上人は、
鬼も蛇も皆出よでよとせめ出して
住ませておけよ阿弥陀ほとけを
と歌われた。
良心は人の行為を正しく導き、悪い心をとがめる大切なものであるが、未だ信頼するに足らぬ。良心に絶対的価値なし。良心は、風俗や習慣により異なるものである。印度人は片はだ〈肌〉を露わして恭礼し、西洋人は乳房を見せるのを恥じる。
正見は絶対的に信用できるものである。正見の持主を覚者という。如来は何故、吾等を完全なものとして生んでくれなかったか。それは可愛子に旅をさせよ、という親心からである。苦しみが大なれば、楽しみも亦大きい。
この世界で、心を磨くのである。極楽には悪が無いから、修行がしにくい。それで、娑婆の一日一夜の修行は、極楽で百歳するにまさると経に出ている。
天の月日も、地の草木も皆、仏戒を守っている。人体の諸機関もこの戒を守らねば不幸になる。太陽が怠け者のように遊び、規則正しく働かぬならば、米が定期にできず、生物は困るであろう。
▽一、摂律儀戒 これに十重禁戒あり。
威儀戒というは行住坐臥に姿勢を正しくする事である。極楽に生まれて菩薩になれば、八万四千の威儀が保たれる。これらを犯しても、罪は軽い。今は是等をいわぬ。
十重禁戒は信仰の尺度である。又、心の鏡と見てよろしい。この戒を犯せば、死刑に相当する位に重く見られる。
一、快意殺生戒
二、不与取戒
三、不邪淫戒
四、酤酒戒
五、妄語戒
六、説四衆過戒
七、自讃毀他戒
八、慳貪不与戒
九、瞋不受悔戒
十、邪見謗法戒
(つづく)
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