関東支部会員 佐々木 有一
二、菩薩の難行
龍樹がまず何よりも重視するのは菩薩の道を歩むということであります。声聞や縁覚も煩悩をはなれた聖者でありますが、龍樹は彼らは生死の海をみずから渡るだけであり、大事なことは他者をも渡すということである、それには十地の境地に入らなければならないと強調します。ここで菩薩と声聞・縁覚は共に涅槃に入るけれども両者の違いについて、龍樹は次の二点を指摘します(「序品」)。声聞や縁覚は「禅定障」と「一切法障」から離れられず、菩薩が仏になれるのはこれを離れることができるからだというのです。この差異はことばに言い尽くせないほど大きいといいます。禅定障とは禅定を保ったり静寂にいることにこだわり、おろかな人と関わったり街中に出ることを好まず、紛争にも近づかないという態度です。一切法障は一切の人や事柄に対し好き嫌いの差別心を捨てきれないことであります。
また同じ「序品」で菩薩には「堅心」があるが堅心と反対の「軟心」の者は声聞・縁覚の二乗に堕すのだといいます。軟心とは、自分はどうして久しく生死輪廻のただ中にあって多くの苦悩を受ける必要があろうか、速やかにみずからの苦を滅して涅槃に入りたい、と思う心です。堅心は自分一人のために涅槃に入ることを求めず、利他の修行のためとあれば生死の世界にとどまることをいとわず恐れない心であります。
華厳経は仏教信者の修行の階位として十信、十住、十行、十回向、十地という長い道のりを立て、究極的には等覚(これから妙覚の仏果を得ようとする位、一生補処、弥勒菩薩がその一例)、妙覚という仏になるというのです(五十二位説)。この十地からが菩薩といわれる階位です。十回向の最後の修行で無分別智が開け、また後得智も開けて十地の最初、初地とも歓喜地ともいわれる境位に上ります。この境位は修道論のうえでは見道とも通達位とも呼ばれ、梵語では不退転地という意味の阿惟越致地といいます。『十住毘婆沙論』ではこの用語が多く使われますが小稿ではできるだけ初地という言葉で進めたいと思います。
ここで少し用語の整理をしておきます。まず菩薩とは菩提薩埵の略で菩提は仏の正覚の智慧、さとり、の意味、薩埵は人々ですから覚りを求めて修行する人、が原義です。もとは十地に上った聖者のことでしたが次第に「凡夫の菩薩」という言葉も生まれます。菩提心を発しさえすればもうそれは菩薩だという考え方です。他者のことを強く意識するのが大乗仏教の大乗たる所以ですからこのような語義の拡大は自然でしょう。「仏になることをめざすのは、他者の力になりたいという思いを実現するためです。菩薩すなわち菩提薩埵の語は、後に、菩提を求める人というより、菩提(覚り)と薩埵(人々)の双方を心にかける人の意と解されていくようになるのでした。」(竹村牧男『般若心経を読みとく』)
次に、『十住毘婆沙論』で十住というのは十地経の十地を鳩摩羅什(344~413または350~409)が十住と訳したからです。十地経は龍樹以前の1~2世紀頃に成立したと考えられ、後に(おそらく4世紀頃に)集大成された華厳経に「十地品」という品名で編入されました。華厳経(六十巻本)は仏駄跋陀羅(359~429)が漢訳したもので、その「十住品」に説くものが先にあげた修行の階位としての十住位です。信が固まったときに初発心住に住するというわけです。
ところで華厳思想の大きな特徴は相即相入にありといわれます。華厳教学の縁起思想のことで、拙稿「自他不二への向上み」で多少筋道を立てて解説を試みていますが、いまごく簡潔にいいますなら、相即とは一と多との関係を述べたもので、一があってこそ多が成り立ち、また多によって一が考えられるので、一と多とは密接不離であるということです。相入とは一におけるはたらきは全体のはたらきに影響し、全体のはたらきから当然一のはたらきが考えられるから、これもまた、密接不離であるということになります。体(そのもの)の方面であらゆる物が一つであるというのが相即、用(はたらき)の方面であらゆる物が一つだというのが相入です。人間の我でも法(存在)でも縁起によって現象があると考えますから、ものの実体は否認され、あらゆるものが網の目のように互いに入り合っています。具体的個体の存在とはたらきとは、そのまま全体における存在とはたらきになるという世界観です。円融、融通、融即ともいわれます(主として中村元『仏教語大辞典』)。
この相即相入の考え方は空間的にばかりでなく時間的にも適用されると考えられています。一例として菩提心を発して十住の最初、初発心住の位に至れば、その後に越えて行く初発心住以後の十住、十行、十回向、十地など他の諸々の階位を悉く摂する意味を持つことになりますから「初発心時便成正覚」(初発心の時、すなわち正覚を成ず)と主張されます。これは「住」の前の「信」の方からみれば「信満成仏」ともいわれ、共に華厳思想の特徴的な成句として有名です。
さていずれにしても十地に入る、菩薩になるということは大変なことで、十信から十回向という四十の修行の位を履み終えてある種の完成に近づいたというところです。人間の思いを超えた智慧の世界に入ることであり、この智慧の故にこそ慈悲、大悲の心が湧き上がって利他に生きる菩薩の道を歩むわけです。智慧を求め慈悲に生きる菩薩の道は一番最初は菩提心によって始まります。菩提心はいかにして生まれるのか、いかにして発すのか、それが最初のテーマになります。
龍樹は菩提心が発るには七つの因縁があるといいます(「発菩提心品」)。
一には、如来が衆生に発心をおこさせる、
二には、仏法の崩壊をみてこれを守護しようとしておこす、
三には、苦悩の人々を見て大悲をおこして発心する、
四には、菩薩の教導によって発心する、
五には、菩薩の行業を見てそのようになりたいと願っておこす、
六には、自ら仏や僧に布施することによりそれが縁となって発心する、
七には、仏身の相貌を見て歓喜して発心する。1
しかもこの七つの因縁のうち、初めの三つの因縁によっておこった発心は途中でくじけることはなく必ず成就するが、他の四つの発心は必ずしも成就しない、といいます(「調伏心品」)。そのわけはどういうことでしょうか。この後に説明が続きますが、いかにもインド的な、分析と例示(列挙?)が次々と提示されていきます。こうしたいささか思弁的とさえ思わせるほどの分析例示が他の箇所にも同様のスタイルで続きます。余談ですが、国連など国際会議の場でよく耳にする「インド人を黙らせることは日本人を喋らせることよりもはるかに難しい」というジョークを思い出します。
龍樹はまず次の四つが菩提心を失わせる原因になるといいます。(細川氏訳抄録)
まず、法を敬重せず、ということです。仏法を恭敬し、尊重し、稀有であると喜ぶ心がなくなると菩提心が失われます。
次は、憍慢心で、まだ身についていないものを身についたと思い、わかっていないものをもうわかったと思うその心です。憍慢が菩提心を失わせます。
三には、妄語無実で、妄語には軽も重もあるものの実語でなく、人を欺き、それが重なると菩提心が失われます。
四には、善知識を尊敬しないこと。善知識(指導者)に対し、はじめは尊敬の念をもっていたものが、だんだんとなれてくるとこの心を失い、菩提心も失われていくのです。
この四つの外にまだあるか、との問いに対して、
最要の法を惜しんで与えないもの、小乗の楽しみを貪るもの、菩薩を誹謗するもの、求道者を軽賤するもの、これもまた同様である。
と答えます。最要の法を惜しむとは、得がたい深い法義を自分は知っており、それは人々のためになるものであるのに、これを教えるとその人が自分に並ぶようになることを怖れて惜しみ隠して教えないことをいいます。さらに、
善知識に対し、心に恨みを抱き、また反対に諂と曲の心(こびへつらい)があるもの、及び利養(財産、名声など)を貪るものも同様である。
と続きます。
すごいのはこの後にまだ次のような「魔事」をつぎつぎと例示(列挙?)して菩提心の挫け、消失を戒めていることです。これも「調伏心品」に出ていますが、現代語訳は細川氏のものを借用(一部は抄録)しています。
また諸々の魔事をさとらず、菩提心劣弱(煩悩が強い)であること、及び業障(人を求道から逆転させるようなはたらき)と法障(不善の教えを喜び真実の教法への思いが浅い)、これらの四つもまた菩提心を失わせる。
これらは鈍根懈慢の者の通弊であります。
さて魔事とはどのようなことでしょうか。
仏の教説が説かれるとき、はやくそれを喜べないでありがたく頂戴するまでによほど時間がかかること、これが魔事である(不疾楽説)。
喜んで説法を聞いているとき、いろいろのことがおこってきて聞法を妨げられること、これも魔事である(余縁散乱)。
書物を読んだり説法を聞いたりしているとき、心が散乱して集中できない、これも魔事である(其心散乱)。
説法のときほかのことを連想してそのことに心が引っぱられたり思わずしのび笑いをしたりする、これも魔事である。
お互いに話し合うとき、議論になってしまって両方の意見が対立し、本当のわけがらが通じないようになる、これも魔事である。
説法の座で、自分には関係がない、聞きたくないなどという心がおこってとうとう帰ってしまう、これも魔事である。
聞法のとき、説法の中に政冶、戦争、経済、愛憎、父母兄弟その他の男性のこと女性のこと、着物、食物、薬のことなどが説かれると、それによって心が散乱したり、またそれに喜んで仏法の心を失ってしまう、これも魔事である。
説法の中で地獄の諸苦を説くとき、このような苦しみを早くすべて尽くして浄土に往生することがわが身の利益であると説く人がいたり、あるいは世間での金儲け、立身出世、その他の幸福を称賛し、そのようなものを手に入れるのが大利を得ることだと説く人がいるが、これらはいずれも魔が説教者に化けているのであって、これらの内容ことごとくが魔事である。
このように一切の善法に対して障害となるものを、すべて魔事というのである。
さていかがですか。いささかうんざりですがやはり胸に手を当てて時に反省懺悔せざるをえないものがありそうです。
さて菩提心を発してそれを持続していくのは以上のように並大抵のことではありませんが、それはそもそも初地に入るための修行がそれほどに至難なことであるからです。後の「易行品」の表現を借りれば「勤行精進」の道の困難さであります。龍樹はつぎの八法を具しおわって初めて初地に至るといいます(「入初地品」)。すなわち、
厚く善根(貪恚癡の三毒のないこと)を種え、
善く諸行を行じ(持戒)、
善く諸々の資用(仏道のための補助、ここでは他の七法のこと)を集め、
善く諸仏を供養(法を聴聞、華香を奉献、礼侍など)し、
善知識(大乗の指導者)に護られ、
深心(二種深信に開く深心ではなく、大願を発し必定地に入らんとねがう心を初地の深心の相という)を具足し、
悲心(衆生を憐れみ苦難を救済する心)あって衆生を念じ、
無上の法を信解す。
この八法を具しおわってまさにみずから発願して言うべし。
われみずから度することを得おわって、まさに衆生を度すべし、と。
発願こそ仏道のアルファであり、自利利他の願にほかならず、十地の根本というわけです。
すべての行者がこのような八法を履み行って勤行精進が進めばいいのですが、なかなかそうはまいりません。八法とは要するに「戒定慧の三学」のこととみていいのではないかと思います。
龍樹は「序品」のところですでにこう云っています(細川氏訳抄録)。
福徳すぐれ、能力があってこの十地経を聞いただけで深いわけがらを理解するような人たちには解釈の必要がない。私はこの人のためにこの論をつくるのではない。福徳すぐれ、能力のある人とは、仏語を聞いてよくみずから理解できる人のことをいう。ちょうど健康な大人はどんな苦い薬もそのまま飲み込むことができるが、子供には蜜で調合しないとこの薬は飲めない。このような福徳すぐれた人を仏教では善人という。善人は信、精進、念、定を具え、身口意の三業に善を保ち、無貪、無恚、無癡の存在である。私はこのような善人を対象としていない。鈍根懈慢の者に説くのである。この人たちは経を読んでも自分の力では理解できない。文が長く、難解な文字が多く、内容がわかりにくく説明がよくわからず、何回よんでも理解できない。この人たちのために、毘婆沙をつくり経の長い文を簡略にし、読みやすい文字にかえ、譬えや例をひいて内容をわかりやすくし、歌やまとめを出してこの人たちの理解を助けたい。そのためにこの論をつくるのである。
かように本論『十住毘婆娑論』の造論の趣旨が明かされておりました。
そういえば法華経にもたしか「三周説法」ということがありました。釈尊は三度同じことを繰りかえして説かれるということで、まず法の内容を理論的に説き(「法説周」)、次いで巧みな譬喩を用いて説き(「譬説周」)、それでもまだ仏の本意(法)を会得できない場合には過去の事実を例に挙げてお説きになります(「因縁周」)。このように三周りに懇切丁寧にお説きになりますので三周説法といい、仏の慈悲の大きさをあらためて感じることになるわけです。龍樹も同様の慈悲心にたって『十住毘婆沙論』を著わしたことになります。
さて入初地をめざして修行に入ることになりますが、人々の多くは不退転に達しないまま行きつ戻りつするわけです。この人たちを龍樹は「敗壊の菩薩」と「漸漸精進の菩薩」の二つにわけます(「阿惟越致相品」)。前者はこのままではもはやどうにもならない者、後者は時間がかかりながらもだんだんと精進がすすんでいずれは初地に至る者です。この両者をともに一括して「惟越致の菩薩」とくくっていますが、「敗壊」から「漸漸」へ、やがては「阿惟越致」の菩薩へと導くものがいわゆる「易行品」の教えであります。鈍根懈慢の人を対象としてこの論を造るとは、実は絶対多数の衆生を対象としてこの論を造ることと同じですから、だからこそ万機普益への道に通ずるのだといえるわけです。惟越致の菩薩はたとえ外の姿は菩薩行を行じているようでも内面は菩薩としての内容をもたない求道者であります。不退転でなく退転しているわけですが、苦しみ退転している実相が、実は仏力をいただく資用、材料となるわけです。仏の大悲の故に、であります。敗壊の菩薩、漸漸精進の菩薩が仏に出会い、仏の仏力をいただいていく次第が「易行品」で明かされていきます。
(つづく)
- この現代語訳は細川巌『龍樹の仏教―十住毘婆沙論』によっています。細川巌氏(1919~1996)は広島文理科大学化学科卒、福岡教育大学名誉教授、親鸞に帰依し大学でも仏教研究会をつくり仏教の普及研究に尽くされた。以下にも注記しながら引用することがあります。 [↩]
コメントを残す