仏力と易行ということ ─無礙光の序説として─  その3

関東支部会員 佐々木 有一

三、易行品

いよいよ「易行品」に入りますが、これが説かれる前に、安易にやすきにつけばよいというものではない、それなりの覚悟をもって承るべし、とクギをさすことから始まります。

阿惟越致地に至る者は諸々の難行を行ずること久しくしてすなわち得べきも(長い長い難行を乗り越えないと初地に入いれない)……この故にもし諸仏の所説に易行道の疾く阿惟越致地に至ることをうる方便あらば、願わくはためにこれを説きたまえ。

これに対し龍樹は仏道は身命を惜しまず昼夜精進して頭燃をはらうごとく(髪の毛の燃えるのをはらうごとく)すべし、方便を求むとは怯弱下劣の言である、要するにだらしない弱虫のいうことであると叱責します。しかし、

汝もし必ずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。

といいます。本気で聞いて実行する覚悟があるならば、という念押しです。そして有名な一句をいいます。

仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなわち苦しく、水道の乗船はすなわち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。或いは勤行精進する有り、或いは信方便をもって易行にして疾く阿惟越致に至る者有り。

(十方十仏章)
そしてまず十方の十仏、たとえば東方の善徳仏などの名を挙げ、

かくのごとき諸々の世尊は今現に十方にまします。もし人疾く不退転地に至らんと欲せばまさに恭敬心をもって執持して名号を称すべし。

と勧めます。宇宙の東西南北等のどこにいても仏は十方にましますので衆生はその仏の名を称することができます。そしてこの十方十仏の偈の最後に、現にましますこれら十仏は、実は過去無数劫の海徳仏という仏によって発願し、その仏力によって成仏したのだと明かされます。過去無数劫とは無始無終の無始と同じであり、在り通しの本有ということと同じでしょう。

過去無数劫に仏あり、海徳と号す。この諸々の現在仏は、みな彼に従って願を発せり。(海徳仏は)寿命量あることなく(寿命無量)、光明照らすこときわまりなし(光明無量)。国土はなはだ清浄にして、名を聞いて定んで作仏せん。

そして、

今現に十方にましまして具足して十力を成ず。

という原文が続きますが、これは今十方に現存する諸仏がこの海徳仏の力によって仏の十力を成就された、の意味でしょう。

この故に稽首して人天中の最尊(海徳仏)を礼す。

と。稽首とは五体投地接足作礼のことで最高の礼拝です。

(弥陀章)
この十仏以外の仏菩薩の名を称えて初地に至ることができますか、との問いに答えて弥陀章がはじまります。まず矢吹慶輝訳「国訳一切経」から本文の流れをみておきます。

阿弥陀等の仏及び諸々の大菩薩あり、名を称して一心に念ずればまた不退転を得。さらに阿弥陀等の諸仏ありまたまさに恭敬し礼拝してその名号を称すべし。今まさにつぶさに説くべし。無量寿仏・世自在王仏(とつづいて百七番目の)宝相仏(まで列挙され)・この諸々の仏世尊、現に十方の清浄世界に在す。みな名を称して憶念すべし。阿弥陀仏の本願はかくのごとし。もし人われ(阿弥陀仏)を念じて名を称し自ら帰せばすなわち必定に入り阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚)を得んと。この故につねにまさに憶念すべし。偈をもって称讃す。

この文章に実は二つの読み方があります。一つはいうまでもなく上にみた読み方ですが、もう一つは親鸞の『教行信証』行巻の読み方です。しかも読み方の違い、つまり文点の置き方の違いが二箇所もあります。まず、

阿弥陀等の仏及び諸々の大菩薩あり、名を称して一心に念ずればまた不退転を得。さらに阿弥陀等の諸仏ありまたまさに恭敬し礼拝してその名号を称すべし。

については共通していますが、その後の「今まさにつぶさに説くべし」の内容(対象)を、百七仏の全体とみるか(国訳の立場)、仏名の列挙をいったん無量寿仏できって「今当具説―今まさにつぶさに説くべし」の対象は無量寿仏(だけ)だとみる立場(親鸞の『教行信証』行巻)の二つです。もっとも矢吹博士も易行品全体からして阿弥陀仏が重要な位置を占めており、阿弥陀仏信仰と密接な関係があることは特記しています。

もし後者の場合は世自在応仏以下の百六の仏は、仏名列挙の後に出る文章、

この諸々の仏世尊現に十方の清浄世界に在す。みな名を称して憶念すべし。

(文章A)

で描写されるところの仏だと考えることになります。そして(文章A)に続く、

阿弥陀仏の本願はかくのごとし。もし人われ(阿弥陀仏)を念じて名を称し自ら帰せばすなわち必定に入り阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚)を得んと。

の文章についても親鸞は文章Aと一緒にして文点を改め(読み換え)ます。すなわち、

この諸々の仏世尊現に十方の清浄世界に在してみな阿弥陀仏の本願を称名憶念することかくのごとし。

となります。これが第二の読み換えです。本願の内容自体(もし人我を念じて名を称し…)は変わりません。このように読めば百六仏は阿弥陀仏を称名憶念して成仏したということになります。だからこそ阿弥陀仏を「この故につねにまさに憶念すべし」と結んで次の阿弥陀仏を称讃する偈につながっていくと解するわけでしょう。

この箇所の解釈については親鸞が独得の読み方をしていることもあって(また親鸞は法然と違って易行品を含む『十住毘婆沙論』を正依の経論と定めたことが基盤にあって)浄土真宗関係の文献には種々の論考があると思われます。しかしあいにく筆者は未見であり一知半解の謗りはまぬかれませんが、このくだりに関しては阿弥陀仏と他の百六仏を並列的に扱うのではなく、格別に抜き出して阿弥陀仏の特別性を重視する立場に歩み寄りたいと思います。

一つの問題点は「今まさにつぶさに説くべし」の対象は「無量寿仏」とあるのにそれが阿弥陀仏のことであると理解してよいのかという問題です。「阿弥陀経」に、釈尊は極楽にまします彼の仏は何が故に阿弥陀と号すや、と自問して、光明無量の故に(アミターバ)、また寿命無量の故に(アミターユス)、と自答されます。「無量寿経」や「観無量寿経」も阿弥陀仏を主人公とした経典です。一仏二名は他に例がないそうですが要するに無量ということが阿弥陀の本義でありますから、この本文の「無量寿仏・世自在王仏・…」の列挙の筆頭の無量寿仏は阿弥陀仏のことと了解しても誤りとはいえないでしょう。

では何故阿弥陀仏を特別に扱う立場に同調するかについて私見を述べます。

一つには仏名の順序のことです。世自在王仏が無量寿仏の次に置かれています。これは周知のごとく「無量寿経」では法蔵菩薩が世自在王仏の御許で発願し、修行をして成仏して阿弥陀仏となるわけですから順序が逆です。龍樹の信仰対象が阿弥陀仏に傾斜していることの反映でしょうか、また別の経典など他の理由があるのでしょうか。

次にさきの阿弥陀仏の本願にかかわって「この故につねにまさに憶念すべし」の文章に続いて、「偈をもって称讃す」と三十二行の長い偈をもって阿弥陀仏が称讃されます。この偈の要点は後述しますが阿弥陀仏が格別の立場にあることは龍樹の本文からも肯定せざるを得ないと思います。

第三は、阿弥陀仏をこのように位置づけますと、阿弥陀仏以外の諸仏はもと衆生であり阿弥陀仏の本願を信じて憶念し正覚を成じたということになります。この阿弥陀仏は本有無作の本仏としての阿弥陀仏でなければなりますまい。これは弁栄聖者独自の仏身観、本仏としての阿弥陀仏観に調和しています。但しそのよって来たる所以は同じではないと思います。

親鸞においては至誠心の解釈にみられるような人間無力観・絶対他力観と、それに表裏一体をなすともいうべき弥陀一仏への徹底的傾倒に由来するのではないでしょうか。もっとも、遠くから管見しての謬見にすぎぬかもしれません。

一方、弁栄聖者の阿弥陀仏本仏論では、法蔵菩薩十劫正覚の阿弥陀仏は本有無作無始無終の本仏阿弥陀如来の迹仏であるとみる立場であります。しかもこの本迹二仏は不二であります。ここで詳述は控えますが(拙稿「大ミオヤの発見――新しい公理をたてた弁栄聖者」参照)、要するに無量寿経「如来光明歎徳章」の「仏(釈尊)、阿難に告げたまわく、無量寿如来の威神光明最尊第一にして諸仏の光明及ぶこと能わざる所なり」の一文が教証となります。易行品の阿弥陀仏を特別な存在とみる点は親鸞のそれと似ていますが、こちらは本仏阿弥陀仏観によるもので、結論は同じでもよって来たる根拠は必ずしも同じとはいえないわけです。

弁栄聖者においては本仏阿弥陀如来の超越性とその霊力の衆生への内在とを縁起によって両立させる独自の仏身観、すなわち超在一神的汎神教という立場によって立つものであります。衆生(人間)の聖き心への復活(自利、救我)と、それに起因する利他行の実践(度我、聖き世嗣への道)、すなわち自利利他菩薩行への志向とその実現可能性を成立せしめる教学体系であります。弁栄聖者の実体験と自内証によって感得された体系であり、因果律の根底にまで立ち戻って導出された信仰内容であります。その故にこそ、摂取不捨万機普益を確信せしめるものがあります。

さて今一つ「弥陀章」に関してコメントしておきますと仏名の数のことです。無量寿経からとられたものの筈ですがいまの漢訳の諸本の仏名数と一致しないようです。通用の康僧鎧訳の無量寿経は異訳の中ではかなり仏名が多い部類だそうですがそれでも六十八仏、その梵本でも九十七仏だそうです。龍樹所覧の無量寿経は異本であったと考えざるをえないそうです(望月信亨『略述浄土教理史』参照)。

さて「易行品」はこの後に三十二行の長い偈をもって阿弥陀仏を称讃します。たとえば、

無量光明の慧あり、身は真金山のごとし。われいま身口意をもて合掌し、稽首し礼す。
もし人命終の時彼の国に生ずることを得ば、すなわち無量の徳を具す。この故にわれ帰命す。
人よくこの仏の無量力の功徳を念ぜば即時に必定に入る。この故にわれつねに念ず。
もし人作仏を願って心に阿弥陀を念ぜば、時に応じてために身を現じたまう。この故にわれ帰命す。
もし人善根を種うるも疑えばすなわち華開かず。信心清浄なる者は華開いてすなわち仏を見る。
人天中の最尊にして諸天頭面に礼す。七宝冠に摩尼(宝)あり。この故にわれ帰命す。

以上のような心にしみいる偈がいくつもあります。最後に引いた句に、人天中の最尊、とありますが海徳仏にも「人天中の最尊」という表現がありました。このほか寿命光明無量ともいいました。阿弥陀仏と海徳仏はどういう関係なのでしょうか。同体異名というべきなのでしょうか。

この後にも、毘婆尸仏から釈迦仏までの過去七仏に未来仏の弥勒仏をくわえた過未八仏章、徳勝仏以下の東方八仏章、三世諸仏章、諸大菩薩章が続き、それぞれ仏名、大菩薩名の列挙があってこれらに憶念、恭敬、礼拝して阿惟越致地を求むべきなり、と易行品は結ばれています。

以上が易行品の説く「信方便易行」の内容です。要するに仏力を得て初地に入る、とは具体的には阿弥陀仏の本願力を得て、というのが龍樹の主張、体験であるということでしょう。

(つづく)

カテゴリー: 佐々木有一氏, 月刊誌「ひかり」

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