根源(アルケー)に還る  その2

古代ギリシァ人たちは最初は豊かな神々の世界(神話の世界)に生きていました。いわゆる多神教と称せられる世界であります。多神教における神々の豊かさはそのまま人間の精神の豊かさに連なり、たとえばその最高主神たるゼウスの神に連なることにおいて人間の威厳性が、また愛の女神アフロディティ(ローマ神ではヴィナース)に連なることにおいて美の観念が生じ発展していきました。しかしながらそのような多様性の中にあって何か一貫した統一的な「あるもの」が目覚めてゆくことになったのです。それがタレスのいうところのアルケーでした。そしてそれは万物の中にあって千変万化する各々の根源として「水」が考えられていったのです。水は固体(氷)にもなり、液体(水)にもなるし、そしてまた気体(水蒸気)ともなって万物の中に流れているからであります。しかしながら彼の弟子アナクシマンドロスAnaximandros(610~546 BC)は更に進んで「アルケーは水等の限定されたものではなく──もしそうだとすればたとえば多神教の中の一神たる水神に墜ち込んでゆきます。実際ヨーロッパのある学者たちの中にはタレスのアルケーを伝統的な水神と関連づけて説明する人たちもいました。──そのような「限定」ぺラス peras を超えた「無限定的なもの」(ト・)アペイロンto apeiron(to はギリシァ語の中性の冠詞、a は否定の語でペラスの否定として)の概念が出現してきたのです。仏教の阿弥陀 amita ──母音 i と母音 a に挟まれた t は d の発音になる、すなわちアミダ amida になる。amita はサンスクリットでそれを漢字で「阿弥陀」と当て字で表記、またミタ(mita)はペラスに、従ってアミタはアペイロンに対応、なおミタmitaは計量されたの意で、従ってアミタは無量と訳されたりもします。──のことを知らなかったアナクシマンドロスですが、彼のト・アペイロンが何と阿弥陀仏への思惟に接近していることでしょう。アナクシマンドロスも彼なりに阿弥陀仏への思惟に限りなく接近していたことが考えられます。

しかしながら紀元後になってキリスト教における排他的な一神教の成立によってギリシァ神話にみられる豊かな神々の世界は排除されてゆきました。いわば神々の殺戮が遂行せられていったのです。しかしながらキリスト教的な排他的な一神教には恐らくユダヤ民族の経験した特殊的ともいえる歴史的な背景が考えられます。そしてそのような特殊性を普遍なるものとして押しつけようとしたところにキリスト教の限界がありました。

ところでこのようなギリシァ人が追究したアルケーはどこまでも人間の必然的思惟から起ってきたものですが、仏教においてもまたそれは当然のことでした。そして弁栄聖者もまたこのアルケーに真正面から取り組まれたのでした。

万物の、また私たち一人ひとりの生起も宇宙の根本問題であります。

従来の浄土宗では、「捨此往彼 蓮華化生」(この現実の世界を捨てて(捨此)、阿弥陀仏の浄土に往生する(往彼))の方向にそのテーマは集中せられていました。上記は法然上人のお言葉ですが(『往生要集釈』)、上人の活躍された時代を考えれば、それはそれで不可避的ともいえる課題でした。

しかしながら時代も変わって近代科学の時代になって新しい課題も改めて生じてきました。すなわちそれは「私が何処から来たか」woher ich kommeの問題であります。

弁栄聖者においては私たちが帰依し、帰趣してゆく目的としての阿弥陀仏が、実はそこから私たち自らが生まれ出てくる根源(アルケー)でもあることを詳しく説かれたのでした。かくて阿弥陀仏は私たちの根源でありつつ同時に目的(テロス)であることが強調されているのであります。

ギリシァにおいてもタレスを隔たること八〇〇年も経てプロティノス(二〇四~二六九)においてそのことが気づかれていったのでした。プロティノスは『エネアデス』において「一者(ト・ヘン)においてはアルケーとテロスは同一である」と論じています。かくて万有そして私たち自身がそこから生まれ、そこへ還ってゆく一者、すなわち阿弥陀仏に目ざめていったのでした。そこでは私自身もまた万有もその中に収まり、そこに全体を包含するいわゆる体系が成立することになります。

若き山本幹夫(出家して空外)博士は恐らく弁栄聖者の思想に触発され、そして若き情熱の全体を傾けてプロティノスの研究に集中せられ、それがやがて学位論文「哲学体系構成の二途」となって世に出ることになったのです。(昭和11年)。

そのプロティノスはナイル川上流からアレキサンドリアに出て、プラトン、アリストテレスの研究に従事しました。アレキサンドリアはいうまでもなくアレキサンダー大王の名に因んで名づけられた当時のヘレニズムの中心都市であったのですが、そこにはアレキサンダー大王の哲学の師であったアリストテレスの研究所もあり、その権威ある研究所においてプロティノスもプラトン(アリストテレスの師)、アリストテレスを研究したのでした。両者はその後二千数百年にわたってヨーロッパ哲学の根幹となったのであります。

なお空外上人はプラトン、アリストテレスを深く研究され、それら両哲学者の哲学のテーマが一貫して目的としてのイデアに中心がおかれていたのに対し、それをタレス以来のアルケーと統合することにおいて、それら全体を包含する一者の体系の成立が考えられるのであります。

なおプロティノスにおいて、万物がそこから出てくるアルケーを「降り道」として、また万物がそこへ帰趣する目的すなわちテロスtelosを「昇り道」と考え、ギリシァ哲学の八百年を通して流れるその両途がプロティノスにおいて一体化され、体系化されていったところにその哲学的な深い意義が論調されているのであります。そのような哲学を新プラトン主義Neoplatonismusと称せられています。そして、それはやがてアウグスティヌス(354~430)を接点として、キリスト教世界へと流れていったのでした。(なお、そのアウグスティヌスもアフリカ出身者であることも銘記されるべきでありましょう。)かくて(新)プラトン的キリスト教がヨーロッパの中心思想となっていったのでした。

なお、空外上人はプロティノスの思想に仏教の影響のあることに言及されていますが、それはアレキサンドリアがギリシア世界と全面的に開かれ都市でありながら、また他方インド洋航路を通してインドへの開かれた交流点ともなっていた点からインド仏教との関係も大いに考えられるところであります。そのことは空外上人が、たとえばE・ベンツ(ドイツ、マールブルグ大学教授)の論文等をも引用されつつ、プロティノスの師がアンモニオス・サッカスであり、サッカスが釈尊の釈との関連性が論じられたりしている点からも興味がひかれるところです。プロティノスはやがてペルシア遠征のゴルデイアヌス(ローマ皇帝)の軍に従ってインドへの旅を試みたのですが、皇帝の暗殺によって果たせず、その後アレキサンドリアからローマに移ってそこで終生哲学活動に従事し、不朽の精神的成果を残すことになったのでした。プロティノスにおける万有の流出と還帰というプラトン、アリストテレスにも実現できなかった体系的思惟はインド仏教の思惟の影響下で成立したことも考えられます。なお、フランスのプロティノス研究者たちもかかる視点から考えているようです。

なおアウグスティヌスは『告白』という彼の自省録において、「もし私が新プラトン主義(プロティノス)を知らなかったならば、これほど深くキリスト教を理解することはできなかったであろう」と述べていますが、そのことは又キリスト教がプロティノスの哲学と接して深められていったことも考えられます。

なお「告白」とは、『如来光明礼拝儀』(至心に懺悔す)における、

法身と智慧と解脱の三徳を備え給う如来に告白し奉る…

にもみられる言葉ですが、この用語は本来、キリスト教の専門用語です。(『礼拝儀』はキリスト教的用語がその多くを占めています。「告白」confessionとは、たとえば『キリスト教大辞典』(教文館)では、「神に対する自己の信仰を、明白な言葉をもっていい表わすこと」と定義されているように、もっぱら神に向かっての対話がその内容であります。アウグスティヌスの『告白』も全卷を貫いて神に対して決して三人称(神)ではなく二人称で、すなわち「あなた(汝)」と呼びかけつつ語られています。たとえばその著書の冒頭における、

あなた(汝=神)は私をあなたに向けてお創りになりました。それ故に私はあなた(汝)のみ許に休らうまでは休らうことはありません。

の文は神による私の創造と神への帰入が「あなた」でまとめて述べられているのであります。この言葉でヨーロッパ世界は完結したといえます。

その点では弁栄聖者も同様で、私たちがそこから出てくる本体を法身として、そして私たちがそこへと還ってゆく面を報身の如来として説かれたのでした。

(つづく)

カテゴリー: 上首法話, 月刊誌「ひかり」, 法話

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