──第3節 光明主義は縄文的霊性の完成──
光明主義には弥生的霊性の完成にとどまらず、それをも突きぬけて縄文的霊性の完成の意義もあります。
弁栄聖者の霊性や鈴木大拙博士の「日本的霊性」にもみられるように、日本には霊性の豊かな展開がみられるのですが、その背景には、更に一万数千年にも及ぶ縄文的霊性の展開が予想されます。それは近代の理性中心主義の動向に揺らぐようなものではなく、それをも突破して現代に至っているのであります。
「縄文的霊性」という言葉自体、聞き慣れない言葉ですが、それは縄文時代と称せられる時代が食物採集経済であり、その経済的、また考古学的次元で主として考えられ、より深い人間的霊性の次元で考えるところにまで及ばなかった点も考えられます。しかしながら、恐らく一万数千年にも及ぶ縄文文化の展開のプロセスに、そこに活動していた人間の心の世界が単に原始的として無視されるべきではありません。
そのことは無数に発掘される縄文土器にもその片鱗をみることができます。たとえばその典型としての火焔土器に火の霊性を予想するがごときであります。いちはやくそのことに気づいていったのは近現代における造形芸術にたずさわる人たちでした。たとえば版画家の棟方志功、太陽の塔を作った岡本太郎、そして水墨画家の岩崎巴人等で、彼らは縄文文化のすばらしさに目ざめ、その文化に圧倒されていった人たちでした。まさに彼らにおいていわゆる縄文ルネッサンスが確立してゆきます。そして彼らにおいて縄文的な特色が彼らの近代的制約を突破して躍動しています。
たとえば岩崎巴人は小林古径の門人の一人でしたが、また縄文文化そのものを生きた人でした。彼はインドにゆき、ふとした機縁で念仏門に帰依してゆくのですが、その後は「画僧巴人」の名で数多くの仏画を残しています。たとえば、彼の画く観音像には縄文文化の躍動した姿がみられます。すなわちそこでは仏教の理念たる観音菩薩が縄文文化を否定するのでなく、その全体を活かしながらむしろそこで縄文文化の完成さえみられるのであります。
ところでそのような「縄文的霊性」ということが考えられるのも弁栄聖者においてのことでした。
大乗仏教においても数千年にわたって、人間の根源的主体性としての独自の霊性文化の展開がありました。それはたとえば仏性、如来蔵、仏種、法種等、それらは無数の大乗経典において論じられているところです。しかしながら、それらが仏教用語にとどまる限り、このような仏性等の思想がいかに展開されたとしても、弥生的霊性、縄文的霊性等とは無縁のものでした。しかしながら、これら仏性、如来蔵等の言葉を聖者が霊性ということばにおきかえられることによって、一挙に仏性、如来蔵等の思想が弥生的縄文的霊性へと開かれてゆくことになったのです。かくて大乗仏教の根幹としての仏性、如来蔵思想が日本的霊性と通入してゆくのであります。
確かに仏教は紀元六世紀頃日本に入ってくるわけですが、たとえば阿弥陀仏というみ名が導入されて阿弥陀仏信仰が起こるわけですが、その名の有無にかかわらず、日本において縄文時代から阿弥陀仏ご自身ははたらいていたというのが真実でしょう。たとえば弁栄聖者のご道詠である、
我がみ仏の慈悲の面
朝日のかげに映ろいて
照るみ姿を想ほへば
霊感極まりなかりけり(「諸根悦予讃」より)
に歌われる朝日は実は縄文人たちにも耀き、霊性的感動を与えていたことが考えられます。彼らは阿弥陀様を阿弥陀様と気つかずに、実に阿弥陀様そのものを拝んでいたのであります。「朝日を通して朝日となっているものを拝む」とは田中木叉上人の常の仰せでしたが、ここで朝日でなく、「朝日となっているもの」とは阿弥陀仏ご自身のことに他なりません。
信州唐沢山は念仏の霊地ですが、この山を開かれた弾誓上人(1551~1613)や徳本上人(1758~1818)において始めて聖地になったのではなく、恐らく数千年以上も前から縄文文化の聖地で、むしろその神聖の雰囲気を機縁として阿弥陀寺が開山され、更なる聖地として深められていったことが考えられます。
縄文人にとって唐沢山が聖地となるについては、その山河大地等があります。その前面に横たわる諏訪湖は神聖そのものであり、その湖に沈んでゆく夕日の神々しさは限りなく縄文人にとってもその霊性を喚起せしめていったのであり、弁栄聖者の朝日の歌とどこまでも共鳴しています。また唐沢山の豊かな森、滾滾と湧き出る水、そして神聖な洞窟等、すべてが縄文文化の霊性の原点であります。私たちも唐沢山に登る時、一種の神聖な感じが生じ、いわゆるそこに霊的な感応道交が感じられますが、とりわけ弾誓上人と唐沢山との間にも縄文的霊性との感応道交があって、そこに念仏三昧の道場の建立が考えられるのであります。
なお、採集(狩猟)経済としての縄文文化にとって、月は決定的に重要な要因となっていました。たとえば漁猟等などでも満月の夜は猟に出ないといった生活のリズムです。しかしながら月は縄文人にとって、その霊性そのものを深める不可欠の要因でした。日本人の美意識を育てたとされる雪月花には、それ以上に霊性的文化との関わりが考えられます。月は「百人一首」や多くの和歌集にも詠われていますが、それとても縄文文化以来の連続線上の事柄に他なりません。
たとえば、薄やお団子を供える「月見の行事」も原始時代からのいとなみで、それは決して私たち近代人が考えるような主観と客観との関係の事柄にとどまるものではなく、そこで月が私になり、私が月になる入我我入の実践が行われ、主―客分裂関係の突破が考えられるのであります。たとえば、
秋風にたなびく雲の絶え間より
もれ出ずる月の影のさやけさ(百人一首、左京大夫顕輔)
において私がさやけき月を見ているというよりは、私が月のさやけさに打ち破られて、月のさやけさが私になり、私が月のさやけさとなり、かかる月との入我我入の地平において人間の心の形成がいとなまれてゆきます。歌が単なる芸術活動にとどまらず、人間形成論としての「道」(歌道)にかかわっているのですが、まさにかかる構造において縄文的霊性の展開を考えることができます。
このような月との感応道交は文字化される段階に至って無数の月の歌が創作されてゆきました。そしてその中の多くの歌が、その月のもつ清浄さ、円満性(望月)等において、たとえば明恵上人の、
あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月
は、月の明澄性と一体化した、いわゆる西田幾多郎の「純粋経験」の世界そのものであります。あるいは完全性の理念(たとえばカトリックにおける「完徳」perfectio の理念)も望月(満月)の原始的体験から生じていたことも考えられます。
また、その月は阿弥陀仏との一体化が縄文文化においても不識的に進められていたのであり、それが入我我入の体験として展開されていったことが考えられます。そして「入我」の面で法然上人の「月かげの歌」すなわち、
月かげのいたらぬさとはなけれども
ながむる人のこころにぞすむ
の歌はそのまま「我入」の面としての弁栄聖者の、
月をみて月に心のすむときは
月こそおのがすがたなるらめ
の歌と一体化して展開されているのであります。そしてこれら月の歌が法然上人や弁栄聖者の月に即しての宗教体験の世界が詠じられながら、それらは又限りなく縄文的霊性と連なっていくことも考えられるのであります。
なお、日本語自体も一万年以上にわたる縄文文化の展開のプロセスの中から成立していったもので、それは神聖な言霊としてでありました。かかる日本語(やまとことば)は膨大な漢字文化の洪水に面しても、たとえば万葉仮名にもみられるように、微動だにもしませんでした。そして恐らくたとえば持統天皇の御歌、
春すぎに夏来にけらし白妙の
衣ほすてふ天の香具山
にもみるように、千数百年の隔てを超えて私たちに連なっているように、そのやまとことばも縄文的言葉と連なっていて、その言葉の連続性は日本的霊性としての連続性と連っているのであります。
法然上人および弁栄聖者の両歌にみられる「すむ」の語は漢字文化の出会いによって、住む、澄む、済む(完成)に分解されていったのですが、両歌においてはそれら分解以前の、恐らく原始縄文語の平仮名の「すむ」であり、「住む」「澄む」を含意しながら「済む」、すなわち霊性の完成が歌われているのであります。
以上
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