養育行動という私の概念の中心となるのは、両親による安全の基地の提供である。子どもや青年は,その安全の基地から外の世界に出ていけるし、戻ってきたときには喜んで迎えられると確信して帰還することができる。身体的にも情緒的にも糧を得ることができ、疲労困憊しているときには慰めが得られ、恐がっているときには安心が得られるのである。要するにこの役割は、励ましや援助が必要なときにはいつも利用でき、それに反応する用意がされている状態ではあるが、明らかに必要なときにしか積極的に介入することはないものである。
ジョン・ボウルビィ著『母と子のアタッチメント─心の安全基地』
安全基地(a secure base)は、ボールビィのアタッチメント理論の中核をなす考え方です。
阿弥陀様や極楽浄土を、このボウルビィの安全基地のように捉えることができるのではないでしょうか?
浄土宗の二祖・三祖の書物には、阿弥陀様を「母」や「父」と表現している箇所が散見されます。それらは、子を思う(念う)親、親を思う子の関係として、南無阿弥陀仏と称えるお念仏を継続しているうちに築かれていく信頼関係のようなものが説示されています。
親子は、信頼関係を築くために生活しているというよりは、長い時間を一緒にすごすことによって、自然と信頼関係を築いています。お念仏も同様で、阿弥陀様と信頼関係を築くためにお念仏をするというよりは、必ず救いとって捨てることはない(摂取不捨)の御心に念念に触れていくことによって、自然と阿弥陀様との信頼関係が築かれていくに違いありません。
お念仏を実践しませんと「極楽浄土」は、どこまでも、死後の出来事であり、そのような世界があるのかもしれないという知識にとどまってしまいます。しかし日ごろからお念仏をする人は、いつか「極楽浄土」に往生することができるということに大いに安心が得られ、この生きて死んでいく世界においても死に恐怖することなく生きていけるのではないでしょうか?
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